日立鉱山 中央煙突/茨城県日立市 PC013-01

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日立鉱山は、元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。

この絵葉書には「日立鉱山製錬所及中央煙突」、「口径二十五尺六寸(≒7.6メートル)、基礎内径三十五尺六寸(≒10.8メートル)、直立五百十一尺(≒154.8メートル」と記載されていますが、「日立鉱山史」では高さ511フィート(≒155.7メートル)とされています。この中央煙突は当時世界で最も高い煙突で、1915年(大正4年)3月1日に使用が開始され、標高328メートルの地点に建設されたことも相まって、日立鉱山が10年来抱えていた製錬所から発生する亜硫酸ガスの煙害問題の軽減に大きく貢献しました。中央煙突の根元に繋がっている逆Y字型の構造物は中央煙突に先立ち1911年(明治44年)5月に築かれた神峰(かみね)煙道(別名ムカデ煙道)という排煙施設の一部が密閉煙路として利用されたもの、また、画面中央少し右側にある太く低い煙突はやはり中央煙突に先立って1913年(大正2年)6月に設けられた第3煙突(別名ダルマ煙突)と呼ばれる排煙希釈用の煙突です。神峰煙道、第3煙突のいずれも大きな効果は挙げなかったため、改めて中央煙突が建設されたものですが、巨額の費用を要する排煙施設を続けて建設した久原房之助が如何に日立鉱山の煙害対策に注力していたかが解ります。なお、画面下部に見えるのが大雄院製錬所です。中央煙突は通称大煙突(だいえんとつ)と呼ばれ、鉱工業都市日立の象徴となり、その建設経緯は新田次郎の小説『ある町の高い煙突』に描かれ、映画化もされました。残念ながら中央煙突は1993年(平成5年)に約3分の1を残して倒壊、高さは54メートルになってしまいましたが現在でもJX金属日立事業所の煙突としての利用が続けられています。

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    T. S

    3 days ago

    素晴らしい記録写真ですね。脈々と張り巡らされているのがそのムカデ煙道ですか?何で構築されていたのかな?と気になりますね。テントなのか建築物なのか。
    日立製作所って、日立鉱山?の発電機などの機械を扱う部署が発祥なんですよね?たしか。その鉱山がここですか?

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    石泉亭

    3 days ago - 編集済み

    コメント有難うございます。ムカデ煙道も中央煙突(大煙突)も鉄筋コンクリート製の建築物です。おっしゃるように日立製作所は、久原房之助が鉱山機械の製作・修理のため、この絵葉書に写っている日立鉱山に工作課長として招いた小平浪平が独立・創業したものです。

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      T. S

      3 days ago

      なるほど。ありがとうございます。
      煙道は鉄筋コンクリートなんですね。こんな設備は初めて拝見しました。
      しかし、大きな送風機でも無いとうまく排気が上がっていかなかってでしょうね。

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      石泉亭

      2 days ago

      はい。亜硫酸ガスは空気より重いので、神峯煙道の中間部に50馬力(一説には200馬力)の送風機が設置されていたそうです。

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