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日立鉱山 製錬所/茨城県日立市 PC002-01
「日立鉱山製錬所」と、その裏山に建設された神峯煙道、第3煙突、中央煙突の全容を写した絵葉書です。日立鉱山製錬所は、大雄院製錬所とも云い、1908年(明治41年)に第一号炉が操業を開始し、以降も溶鉱炉の増設・規模拡大を続けました。日立鉱山のオーナーであった久原房之助は、将来的な資源の枯渇に備え、日立鉱山のみならず他の鉱山からも鉱石を購入(買鉱)することを前提として、大規模な製錬所の建設を行いました。このため、製錬所の排煙から生じる煙害対策に非常に大きな投資を行ったのです。写真の左側にも神峯煙道が伸び、ところどころに排煙孔が開いているのが判りますが、この部分は1915年(大正4年)の中央煙突稼働後は使用されておらず、1917年(大正6年)から翌1918年(大正7年)にかけて大部分が取り壊され、鉄筋が回収されました。 日立鉱山は、元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 中央煙突/茨城県日立市 PC013-01
日立鉱山は、元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。 この絵葉書には「日立鉱山製錬所及中央煙突」、「口径二十五尺六寸(≒7.6メートル)、基礎内径三十五尺六寸(≒10.8メートル)、直立五百十一尺(≒154.8メートル」と記載されていますが、「日立鉱山史」では高さ511フィート(≒155.7メートル)とされています。この中央煙突は当時世界で最も高い煙突で、1915年(大正4年)3月1日に使用が開始され、標高328メートルの地点に建設されたことも相まって、日立鉱山が10年来抱えていた製錬所から発生する亜硫酸ガスの煙害問題の軽減に大きく貢献しました。中央煙突の根元に繋がっている逆Y字型の構造物は中央煙突に先立ち1911年(明治44年)5月に築かれた神峰(かみね)煙道(別名ムカデ煙道)という排煙施設の一部が密閉煙路として利用されたもの、また、画面中央少し右側にある太く低い煙突はやはり中央煙突に先立って1913年(大正2年)6月に設けられた第3煙突(別名ダルマ煙突)と呼ばれる排煙希釈用の煙突です。神峰煙道、第3煙突のいずれも大きな効果は挙げなかったため、改めて中央煙突が建設されたものですが、巨額の費用を要する排煙施設を続けて建設した久原房之助が如何に日立鉱山の煙害対策に注力していたかが解ります。なお、画面下部に見えるのが大雄院製錬所です。中央煙突は通称大煙突(だいえんとつ)と呼ばれ、鉱工業都市日立の象徴となり、その建設経緯は新田次郎の小説『ある町の高い煙突』に描かれ、映画化もされました。残念ながら中央煙突は1993年(平成5年)に約3分の1を残して倒壊、高さは54メートルになってしまいましたが現在でもJX金属日立事業所の煙突としての利用が続けられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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含銅硫化鉄鉱 (kieslager) 日立鉱山 #0454
含銅硫化鉄鉱(キースラーガー)は。黄鉄鉱・磁硫鉄鉱を主体とし、常にいくらかの黄銅鉱を含有する緻密で塊状の鉱石からなります。本標本の写真は背景をソフトウエア処理しています。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つで、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並んで日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 スモールキャビネットサイズ 日立鉱山石泉亭
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含銅硫化鉄鉱 (kieslager) 日立鉱山 #0101
含銅硫化鉄鉱(キースラーガー)は玄武岩質火山岩類に伴って層状に産出します。通常1~2%の銅を含み、亜鉛も数%に達することがあり、硫化鉄資源としても重要です。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つで、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並んで日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 ミニチュアサイズ 日立鉱山石泉亭