戦争と武蔵野X  映像資料から見るB‐29 続き

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かって武蔵野市に存在していた中島飛行機武蔵野製作所は、昭和19(1944)年11月24日から9回に亘リ米軍による空襲を受けた。

この空襲の中心となった戦略爆撃機B-29について,高高度(8000m)を飛行する同機を地上から仰ぎ見た、墜落した同機を見に行ったなど様々な証言が残っている。

B—29による空襲から80年を迎えた今年、本展示を通じ戦争の記録と記憶の継承に・・・・「戦争と武蔵野X」パンフレットより。

中島飛行機武蔵野製作所は戦前日本を代表する航空機メーカーであった中島飛行機のエンジン工場でした。
最盛時には約 5 万人が、24 時間操業で働き、
「零戦」や「隼」といった軍用飛行機のエンジン(当時は発動機)を生産していた。
その量は日本の全生産量の 30%近くを占めていた。

面積約 56万㎡、東京ドーム約 12個分の広さ
この工場が太平洋戦争(1941~45 年)の末期に、アメリカ軍の空襲によって徹底的に
破壊された。

昭和19(1944)年11月24日、マリアナ諸島サイパンからの B29 による日本本土空襲が始った。
その最初の目標となったのが、この武蔵製作所だった。

その後、日本本土空襲は激化の一途をたどり、東京、大阪、名古屋などの大都市から地方都市までが無差別に爆撃され、
ついには広島・長崎への原爆の投下に至った。

その間にも、アメリカ軍は中島武蔵工場を9回に亘リ繰り返し爆撃した。

1944年11月初に撮影されたB-29による偵察写真(最初の画像/武蔵野)

NHKドラマ「虎に翼」で先日、総力戦研究所の話題が出ていた。
太平洋戦争の直前、各界の優秀な若手を集めて組織された首相直轄の研究機関である。
英才たちがはじき出した対米戦のシミュレーション結果は「日本必敗」。
長期戦に耐えうる資源を欠くのは明らかだった。
だが政府は黙殺し、この国は坂を転げ落ちた。

企画展の床にはB‐29の尾翼(6m 画像#7)が実寸大で描かれている。
原爆を含め大戦末期だけで数十万人の命を奪った巨体を思い知る。

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