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ちょっと気になり買いました⑩
1966M Lamborghini Miura P400 1970年代半ばに日本全国を席巻したスーパーカーブームを代表するミウラは、日本人の「三浦さん」のことでは無くてイタリア人の闘牛家の「ミウラさん」のことだそうです。公表されていた最高速度は288キロ、流麗なデザインは後のカウンタック等を凌ぐものと感じられます。 1984M Nissan Skyline 2000 RS-Turbo (R30) 16バルブDOHCをターボで武装した「史上最強のスカイライン」は登場後半年でグリルレスの「鉄仮面」に変身し、更にその半年後にはインタークーラーも装着することで15馬力増しの205馬力を達成し、1980年代前半のパワーウォーズを常時リードする存在で、「西部警察」でも人気を集めました。 1974M Honda Civic 1200RS (SB1) 世界を驚かせた超低公害CVCCエンジンが代名詞の初代シビックに僅か数ヶ月間だけ存在したツインキャブエンジンを搭載したスポーツモデルでした。 他社ではガチガチのスポーツモデルとして設定されそうな「RS」とはRoad Sailingの略称で、ハイウェイを優雅に流す様なイメージの手軽なGTカーに近いもので、現代でもFitやN Oneに受け継がれています。 1987M Isuzu Gemini Sedan ZZ ジウジアロウによりデザインされたFFジェミニは「街の遊撃手」というフレーズで、地下鉄の出口から飛び出して来たり、2台並んでドリフトしながら回転したり等のアクロバティックな走行シーンのCMが非常に印象的でした。 ターボチャージャーエンジン搭載のイルムッシャーとDOHCエンジン搭載のZZハンドリングバイロータスも設定され、スポーツ志向の若者の期待に応えてました。
久本 拓司
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ちょっと気になり、買いました⑨
1976M Toyota Corona Mark II Sedan 2600 Grande 1976年の時点でジャガーを連想させる高級感溢れた伸びやかなフォルムを実現させたデザインは従来のコロナ派生感を払拭するのに成功しました。 上位のクラウン同等の直列6気筒2600ccエンジンと高級クラブのソファの様に肌触りの良いモケット張の内装は中産階級の琴線に触れることとなり、バブル期に向けての飛躍の第一歩となりました。 1980M Toyota Celica Camry 2000GT 発売時のキャッチコピーは「分類:都市型スポーツセダン、男30、GTアゲイン」、1980年当時はスポーツカーのハンドルを握っていた走り屋さん達も30歳時点では子育てまっしぐらの時期に突入しており、おとなしいファミリーセダンに乗らざるを得ない状況でした。そうしたスポーツカーを諦めざるを得なかった男達の期待に応えるべく用意されたのが、セリカの4ドアセダンとしてツインカムエンジンが搭載されたカムリのGTグレードで、カリーナの車体にトヨタ2000GT同様のT字形フロントグリルを組み合わせつつ、四輪独立サスペンションも採用されました。 当時の30歳は昭和25年生まれに相当しますので、もうそろそろ後期高齢者になろうかという団塊世代の最終、果たして「GTアゲイン」と思い起こしているせいなのかどうかは判りませんが暴走老人事故もちらほら出始めています。 一方で現在の30歳はと言えば、失われた30年の影響の煽りを受けて給与も上がらないせいで結婚及び子供を儲けるのはまだまだ先のこと、それどころかクルマを持つ余裕むしろ興味も全く無いという有様。。。 カムリも販売不振で国内販売打ち切りが確定し、大トヨタを持ってしてもセダンのラインナップを維持出来ないのは非常に寂しく感じられます。 1996M Honda CR-V 1年程前に先行発売されたトヨタのRAV4に続いて乗用型ライトクロカンという新たな市場を切り拓き、その後はホンダ車としては世界市場で最多の販売台数を誇る屋台骨へと成長しました。 オデッセイ譲りのウォークスルーレイアウトによる広大な室内空間と荷室を両立しつつ、非常に取回しの良いサイズ感と低燃費と軽快な走行性能といった要素が受けて、想定以上の大人気となりました。そのため当初の鈴鹿製作所に加えて狭山製作所でも生産される様になり、「フレキ生産」の先駆けともなりました。 1986M Toyota Soarer 2000GT Twin Turbo 1980年代の幕開けと同時に圧倒的な人気を誇った初代ソアラの後継モデルはスーパーホワイトの車体色を始めとするキープコンセントのスタイリングに更に強化された2種類のツインカムターボとダブルウィッシュボーンのサスペンションでグランドツーリスモとしての地位を向上させたことから更なる人気車となり、マークII三兄弟等と共にバブル期の頂点を極めていました。 誰しもが憧れていたという絶好調を誇っていたにも関わらず、3代目となる時期モデルは米国レクサスSCとして展開させる為に、日本人の感性とはかけ離れたデザインを採用した為に自滅、バブル経済の崩壊とも同時に誰からの注目も集めることの無い存在へと落ちぶれてしまい、更に4代目では実用性ゼロの高いだけのオープンカーとなってしまったこともあって、廃止の憂き目に遭いました。
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました⑧
2021M Honda Civic (FL1) 11代目となるホンダの代名詞とも言えるシビックは今年2022年に発売50周年を迎えました。 1990年代6代目あたりまではスポーティな大衆車として若者の人気を集めつつコンスタントに月販1万台を超えるホンダのベストセラーで私自身も4代目EF3のSi、8代目FN2英国製Type-R EUROのハンドルを握りました。 いつしか大衆車としてポジションをFitに譲り米国でのベストセラーを狙って車格を大幅に上げた現行モデルの新車価格は400万円に迫ろうかというレベルですが、ターボ仕様にしろハイブリッド仕様にしろ輸入車に引けを取らない出来栄えと言えます。 1999M Toyota Celica (ZZT230) セリカの最終7代目モデルは1800ccへダウンサイズしてターボチャージャーの四駆も設定されなかったものの、前モデルのNA2000ccエンジンを10馬力上回る190馬力を確保すると同時にスーパーストラットサスペンションがもたらす確かな操縦性を備えた21世紀の幕開けを飾るスペシャルティカーとして発売されました。 既にバブル経済崩壊後の数十年に渡るであろう経済不況下における若者のクルマ離れによる全体市場の縮小、軽自動車や小型車・ミニバン・SUVへの移行もあって人気ブランドであったセリカとしてはこのモデルで廃盤となりましたものの、そのコンセプトは現在においても86やレクサスのクーペモデルとして存続されていることは大トヨタの圧倒的な企業力を感じるばかりです。 1985M Toyota Celica (ST160) 4代目のセリカは流面形デザインと映画「私をスキーに連れていって」で強烈な存在感を示したフルタイム四駆のターボチャージャー仕様GT−Fourの設定で人気を博し、バブル期初頭にホンダプレリュードや日産シルビア等と共にスペシャルティカー市場の最盛期を構成していました。 1989M Toyota Celica (ST182) 5代目セリカはバブル時代真っ只中ということもあってエディマフィーをCMキャラクターに起用していました。 前モデル同様にフルタイム四駆のGT-Fourで世界ラリーを席巻すると同時一方でコンバーチブル仕様も設定され、オープンエアモータリングを満喫出来る様にもなりました。 1983M Toyota Celica (AA60) 1981年に発売された3代目セリカはポルシェ928に次ぐ斬新なライズアップヘッドライトが採用されたものの、イマイチ人気が盛り上がらなかったことから、1983年のMMC時においては人気が出始めていたホンダプレリュードに類似したブラックフェイスのリトラクタブルヘッドライトを採用しました。 ツインカムかターボかという巷での論争に対しては国内発のツインカムターボエンジンの採用で終結させた記念すべきモデルでした。
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました⑦
1983M Nissan Silvia RS-X (S12) アートフォースとして大ブレークする1世代前のシルビアの初期モデルはFJ 20型2000cc16バルブツインカムターボチャージャーエンジンがエンジンルームに収まり切らないので力瘤の様に大きなパワーバルジをボンネット上に設けた迫力のある超体育会系スポーツカーでした。 ところがMMC時にはデートカーとして人気爆発のホンダプレリュードに触発されたせいか、1800ccへとダウンサイズしてバルジを取り去りつつ一転して草食系路線へ転換し、次期S13型へと繋ぎました。 2015M Honda Grace アジア地域ではCityのブランド名で展開されているFitベースの4ドアセダンをGraceとして日本に持ち込んでみたものの、日本における4ドアセダンの市場は壊滅状態であることから実を結ぶには至らず、1代限りで消滅に至りました。 ところがアジア市場で引き続き継続する次期モデルは1リッターターボチャージャーエンジンを若干幅を拡げたシャープなボディデザインに搭載し、不評な柴犬デザインでシェアを落としたフィットよりもはるかに魅力的な出来栄えに仕上がっていて打切りは非常に勿体無い様に思われました。 度重なるリコール騒ぎで勢いを失った上にFMCデザイン大失敗で瀕死状態に陥ってしまったフィットに加えて、比較的好調だった姉妹車シャトルまで打ち切ってしまったホンダの経営戦略は益々N Boxしか売れずに低利益率に喘ぐことになり、電動車の開発原資の確保に窮し何れはGMあたりに買収されるよりは継続不能になるかも知れません。 1975M Nissan New Silvia (S10) 高人気のトヨタセリカリフトバックに対抗すべく日産がロータリーエンジンを搭載しながら華々しく打って出るつもりが、オイルショックでロータリーエンジンはお蔵入りとなりました。その流麗なボディだけは何とか有効活用出来ないかと既存のファミリーカー用1800cc4気筒SOHCを搭載して市場に送り出されたのが、ニューシルビアでした。 スタイル的にはセリカリフトバックに見劣りしないものの、平凡なエンジンと時代遅れの板バネリアサスでは歯が立ちませんでした。 その後、トータルイルミネーションシステム等の内装の華やかさを売りにした次期モデルS 11ではセリカの牙城を崩し、更にアートフォースS13ではプレリュードをも凌駕し、スペシャルティカー市場の頂点に立ちました。 1988M Nissan Cefiro 「くうねるあそぶ」のキャッチフレーズで井上陽水の「皆さん、お元気ですか」と助手席から呼びかけるCMで注目を浴びたセフィーロは、トヨタの強力なライバルであったマークII3兄弟に対抗する為にスカイラインとローレルを援護射撃すべくバブル時代真っ只中に華々しく登場したFRスポーティセダンです。 同時期に発売された人気車シルビア同様の丸目四灯が印象的なプロジェクターヘッドライトを備えたシャープで伸びやかなデザインの車体に今は亡き滑らかに吹け上がるRB 20型直列6気筒のエンジンを搭載し発売当初は人気爆発となったものの、昭和天皇の病状悪化に伴う井上陽水のCM音声自粛もあってかその勢いは長くは続かず、マークII3兄弟の牙城を崩すまでには至りませんでした。 2世代目のモデルは米国マキシマをベースとした平凡なFFファミリーセダンへと変貌を遂げてしまい、華やかだったバブル時代の終焉を感じさせました。
久本 拓司
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ちょっと気になり、買いました⑥
1975M Mazda Roadpacer マツダの企業体力が不足していた1970年代中盤に、オーストラリアのGM系メーカーであったホールデン社より車体を仕入れて自前の13B型ロータリーエンジンを搭載しながら仕立てた高級車で、トヨタセンチュリーや日産プレジデントといったVIPカー市場へ殴り込みをかけてました。 ハリボテ感しか感じられない仕上がりということもあってか、累計生産台数が800台未満という路上でその姿を拝める機会はありませんでしたが、マツダ本社へカタログをリクエストしたら丁寧に送付されて来ました。引越し時に処分してしまったのはつくづく残念でした。 古き良き時代のアメ車を彷彿させる伸びやかなデザインは現代においても通用しそうな感じがします。 1964M Mitsubishi Debonair 1964年から22年間もフルモデルチェンジすることなく製造されていたデボネアは三菱グループ関連のVIPカーとしてシーラカンスの様に君臨し続けていました。 モデル末期時における2600cc4気筒エンジンやリーフスプリングサスペンション等のメカニズムは「旧態依然」の一言に尽きる一方で押し出しの強いデザインには荘厳な風格が感じられます。 1984M Honda Civic 3 Door Si 厳しい排気ガス対策で低燃費ではあるものの牙を抜かれた非力なCVCCエンジンしか生産していなかったホンダが、十数年振りにツインカム(DOHC)エンジンを復活させて、復活の狼煙を上げたのが1984年秋のことでした。 シビックとCRXとクイントインテグラに搭載された電子制御燃料噴射装置と16バルブを備えたロングストロークの1600ccのZC型エンジンは、図太いトルクと7200回転まで吹け上がりと実燃費でリッター11キロを成立させた名機で、後にSOHC化やVTEC化による幅広い展開も見られました。 レンタカーで乗ったことのあるワンダーシビックは視界が良くて非常に運転し易いクルマでした。 1981M Toyota Celica XX 2800GT 当時最強の170馬力でソアラを未体験ゾーンへ突き進ませた2800ccの直6ツインカムエンジンは半年後にはよりスポーツカー的な性格を濃くしながらFMCを迎えたセリカダブルエックスへ移植され、ロータスチューンの足回りとの組み合わせによる迫力のある走りを当時のロータス総帥のコーリン・チャップマン氏によりCM上で披露されてました。 その後のMMC時には、その当時では3ナンバー車に対して自動車税が大幅に安かった5ナンバー2000cc車用としてM-TEU型6気筒ターボチャージャーエンジンと1G -GEU型24バルブ6気筒ツインカムエンジンが立て続けに追加発売され、様々なお好みに応じたニーズに応えていました。
久本 拓司
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ちょっと気になり、買いました⑤
1981M Toyota Soarer 2800GT スカイラインにターボが設定されてトヨタの旧型4気筒ツインカムに対する優位性を見せつけてられたのも、ほんの一瞬の出来事。トヨタはベンツやBMWにも肩を並べる様にと6気筒の大排気量エンジンをツインカム化させることで、一気に未体験ゾーンへ旅立って行きました。 スーパーホワイトのカラーリングは、より使い勝手の良い4ドアボディのマークII3兄弟ヘと継承され、バブル時代の六本木へと増殖して行きました。 1983M Nissan Fairlady Z 300ZX(Z31) 1983年に登場したVG30ETターボエンジンはグロス230馬力を誇り、スペック上ではトヨタの自然吸気6気筒ツインカムエンジンを凌駕するものでした。 大学の先輩が2000ccエンジンモデルに乗っていらして、同乗させて頂きました際には、充分に強烈な加速Gで背中がシートバックに押し付けられたことを良く覚えています。 エッジの効いたボディデザインは歴代のZシリーズではベストの様に思えます。 1987M Honda Legend 2 Door Hardtop 入社当時の当社内で当時存命だった実質的創業者に気に入られていたことから、誰しもが面会していた筈の銀行に会うからという理由で何故か一人だけ白い作業ズボンを穿かずに紺色ズボン着用が許可されていた等、会社の金を握り取締役を凌ぐ権勢を奮っていたパンチパーマの経理部長の愛車でした。 入社時での工場実習の際には、レジェンドシリーズを6000台/月も生産しており、3ヶ月間ほど朝から晩まで重労働に従事して居ました。 創業者逝去直後から数ヶ月が経過し経理部長は閑職へと左遷させられ、病気療養名目の休職を経て1年を待たずにそのまま退職。存命なれば今頃は後期高齢者に相当する75歳位と思うが、果たして未だに生きているのやら。 1978M Nissan Fairlady Z 280Z-T 当時世界一厳しいとされた昭和53年排出ガス規制に各車が苦戦する最中にImagine 1980 というキャッチコピーで発売されたZの第二世代モデル。当時の国産車では希少なオーバー2000ccのL28E型エンジンは鈍重と見做されていたものの、20万キロ超の耐久性を誇っていました。 1979M Nissan Gazelle ZSE-XE 3代目シルビアの別販売店用姉妹車として設定されたのがガゼールでした。2代目シルビアが中途半端なコンセプトで長期間棚晒しであったものの、トータルイルミネーションシステムによる煌びやかな内装と目新しいクルーズコンピューターといった走行性能とは全く無関係の先進装備が当時の若者の心を捉えて、息を吹き返すことに成功しました。MMCのタイミングでは、1800ccターボチャージャーと2000ccの16バルブDOHC仕様も追加され、走行性能重視のユーザーの期待にも応えていました。
久本 拓司
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Hot Wheels No17
1994M Audi Avant RS2 1997M Audi S4 Quattro 1995M Toyota Celica GT-Four 1991M Mitsubishi GTO 1992M Honda Civic (EG) 1993M Toyota Supra 1986M Toyota Supra 3000GT 1982M Toyota Starlet (KP61)
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました④
1982M Toyota Corona Hardtop 1800GT-TR 今日では商標としての使用価値が全く失われてしまったとされるトヨタの正真正銘「新型コロナ」、FRレイアウトの最終世代でセリカ・カリーナの兄弟車と同時に国内初のツインカムターボが搭載されました。910ブルーバードに完敗した前モデルを3年半で諦めて、007のロジャームーアをキャラクターに添えてブルーバードCMの白いタキシードを纏った沢田研二もどきを噴水内に落下させて「Have a good day」と言いながらその横を立ち去るさまは、後のセフィーロCMの井上陽水の「皆さん、お元気ですか(昭和天皇崩御で音声が消えたのにも大爆笑)」に通じるセンスの良さを感じました。 1986M Nissan Leopard 1980年代に一世を風靡したトヨタのソアラの対抗馬として日産からリリースされていた2代目レパードは、発売当時はソアラの日陰に隠れた非常に地味な存在とされていたものの、「もっと危ない刑事」での起用とその端正なクーペデザインの評価も高まったことから、現在の中古車市場では300万円超で売買されている人気車種となっています。 シーマにも搭載されたV6ツインカムターボは、ド迫力の一言に尽きます。 1977M Toyota Celica Coupe 2000GT(TA40) 7年近く生産された人気車の2代目は米国市場を意識したデザインで「友よ、答えは風の中にあった」というエアロダイナミクスが強調されてましたものの、基本的なメカニズムは初代モデルを踏襲しています。マイナーモデルチェンジ時には意地で継続させてきたツインカムエンジンを武器にしながら排ガス対策でパワーを失ったライバル スカイラインをあからさまにこき下ろす様に「名ばかりのGT達は道を開ける」とか、ターボエンジン設定で息を吹き返した際には「ツインカムを語らずに真のGTは語れない」という様な挑発的なCMを展開させており、バブル期に繋がるパワー競争の口火を切りました。 1980M Skyline Sedan 2000GT Turbo (C210) 排ガス規制で完全に牙を抜かれてライバルのセリカに名ばかりのGTとこき下ろされていたL20Eエンジン搭載のスカイラインジャパンにターボチャージャーが装着されたのは1980年5月のことでした。カタログ表示ではグロス145馬力ながら雑誌社の走行試験の為に貸し出されたクルマには広報チューンが施されており、0-400加速は驚異の15.8秒を切るタイムを叩き出しており、トヨタツインカム軍団に虐げられていた状況に日産ファンは一気に溜飲を下げていました。
久本 拓司
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ちょっと気になり買いました③
1981M Isuzu Piazza 1960年代後期から80年代初頭の長きに渡って販売が継続された117クーペの後継として発売されたピアッツアはSenior感覚が売りの高級スペシャリティーカーでした。117クーペと同様のイタリアの有名デザイナーのジウジアロウによるデザインは21世紀の今日においても通用する一方で、70年代中盤のジェミニベースのエンジンと足回りは発売時点で時代遅れでした。 その後、エンジンについては新世代のアスカより流用されたターボエンジンへ換装されて、イルムッシャ-やハンドリングバイロータスのスペシャルバージョンへと発展して人気を集めました。 1967M Isuzu Florian 兄弟車の117クーペと1960年代後半から1980年代初頭にかけて長らく販売されていたいすゞのセダンで、晩年は三菱デボネアと共にシーラカンスと称されていました。 1977年にはいすゞ自動車得意のDieselエンジンを搭載することで、沈没状態から息を吹き返して最後に一花咲かせていました。文金高島田の日本髪のままでも乗車可能とされていた後席の居住性は正に正統派セダンの面目躍如といった所です。 1967M Isuzu 117 Coupe いすゞフローリアンのクーペ版で、初期モデルはハンドメイドの超高級車でした。中後期の量産型でもジウジアロウの手による流麗なデザインに色褪せる気配は無く、1.6リッターエンジンは1.8リッター、2リッターへと強化されると同時に年を追って厳しくなる排ガス規制にも関わらずツインカムエンジンを維持し続けました。 今日ではトラック専門メーカーとして経営資源を集中するいすゞ自動車ですが、かつては優れた技術を散りばめた渾身の芸術作と呼べる乗用車を世に送り出していました。 1982M Mitsubishi Cordia Turbo 1980年代初頭の三菱自動車は、軽自動車から高級車までのフルラインターボを売り物にする等、非常に勢いが感じられました。その中核を担う新型モデルが、「スペースクーペ」と呼ばれたコルデイアと「ブレザー感覚で乗れる!?」セダンのトレデイアで、エアスクープの付いたボンネットの下には1600ccのターボエンジンが搭載されていました。 コルデイア、トレデイアともに位置付が不明確ということもあってセールス的には不成功でしたが、コルデイアのデザインはいすゞのピアッツアに通じるものがあったと思います。 1982M Mitsubishi Mirage II Turbo 中学から高校にかけての趣味は新車の発表展示会に足を運ぶことで、免許取得前の頃ということで助手席で試乗させてもらいました。信号でミラージュターボの横にRX7が並び、青信号と同時の両車横一線の加速には興奮させて頂きました。スーパーシフトという副変速機による8速ギアチェンジを駆使したシフトワークは非常に格好良く見えました。その2年後に免許取得後に自らハンドルを握っての次期モデルの速さを身をもって体験出来た時には大きな喜びを感じました。 1986M Skyline Coupe GTS 7th スカイラインの4ドア発売から1年遅れで発売された2ドアクーペGTSは、当初の4ドアモデルでの熟成不足によるネガを完全に潰し込むことに成功していたことから、全く別の車種とも言われてました。 当時の巨大勢力であったマークII3兄弟には無かった2ドアクーペはそれまでの不振を払拭させて、歴代モデルの中では最多の販売台数へ引き上げることに成功しました。 2003M Volkswagen Phaeton 旧東ドイツのDoresdenにあるガラス張りの非常に綺麗な工場で生産されていたVolkswagenの最高級車です。 主戦場と想定されていた米国市場でシンプル過ぎるデザインのVolkswagenの人気が盛り上がらないこと、欧州に於いてはグループ内にAUDIという高級ブランドを抱えていることもあって、中途半端な存在で終わってしまいました。 現在ではArteonとSUVのAtlasにその後継を担わせて、一応の成功を見ている様です。 1978M Honda Accord Saloon シビックの上級車として非常に格好良く見えた3ドアハッチバックで船出したアコードの4ドアサルーンを最初に見た時は、後方トランクを取って付けた様なデザインに思わず脱力感を感じました。 セダンはオマケの存在なのかなと思いきや、2代目ではダックテールが強調された直線基調の優れたデザインを持つセダンの方に人気の軸足が移り、3代目では低いボンネットにリトラクタブルライトとツインカムエンジンを備えたスポーツセダンへ発展、また米国市場でのベストセラーとしてホンダの屋台骨を支える存在となりました。
久本 拓司
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列車
457系 急行電車 貧乏学生時代に仙台に帰省する際に特急料金節約の為に、5時間以上かかる「急行まつしま」を頻繁に利用していました。 58系 急行Diesel Car 四国の両親の実家に帰省した際に道後温泉へ旅行した際に「急行いよ」「急行うわじま」で利用し、祖父の計らいで生まれて初めてグリーン車に乗せてもらいました。また、全線電化区間なのに何故か気動車で運用だった仙台発常磐線経由上野行きの「急行そうま」も利用したことがあります。最高速度95キロと遅いものの、爆音を轟かせての走行にはかなりの迫力がありました。 485系 特急電車 東北新幹線開業前の東北本線及び常磐線では、上野発の仙台行き「ひばり」「ひたち」会津若松行き「あいず」盛岡行き「やまびこ」青森行き「はつかり」山形行き「やまばと」秋田行き「つばさ」と485系特急列車のオンパレードでした。ひばり号は4時間切りの表定速度90キロ近い大暴走で食堂車のコーヒーが溢れる大揺れが発生してました。 ナハネ11系 寝台客車(旧型客車) 1972年秋の祖母の葬儀の際に初めて乗った寝台急行「天の川」「きたぐに」で使用されていたブルートレイン前での旧型寝台客車です。 「きたぐに」に乗車した翌日の反対方向大阪行き「きたぐに」が北陸トンネルで火災事故を起こしていたのには大変驚きました。 12000系 近鉄特急電車 鈴鹿出張時に頻繁に利用した近鉄特急、とにかくバリエーションが多くて矢継ぎ早に新車を投入す割にはこの旧型車輌も活用されています。 高校の修学旅行で近鉄特急で「おしぼり、どうぞ」の言葉を耳にした際には全員が、カルチャーショックを受けてました。 E3系 山形新幹線つばさ 山形県新庄市に在る関係会社に出張する際にお世話になる車体です。 配色は数多い新幹線車輌の中では良く、長過ぎないボンネットには親しみを感じます。福島まで(から)の速さが 、新庄までの時間を異様に長く感じさせてくれます。 10000系 東武東上線通勤電車 最寄りの朝霞駅から池袋または川越方面へ出掛ける際の足です。気が付けば乗り始めてから35年もの年月が経過しました。来年2023年3月には住み慣れたこの電車の沿線上に終の住処を構えることになります。 1980年代初頭までは床が木製の旧型電車が使用されていて非常に暗いイメージだった東武東上線でしたが、今や東急東横線の電車も乗り入れて港町横浜へも直行する非常にステータスの高い路線へと変貌を遂げました。 オハ47 旧型客車 国鉄時代の昭和20年代中盤から30年頃迄急行列車や各駅停車用として製造された旧型客車は昭和の末期まで乗降用の手動扉を開けっぱなしで全国の幹線を走行していました。 トイレの汚物も線路上へ垂れ流しでした。
久本 拓司
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おうちのクルマ
1970M Toyota Publica Subaru 360の次がこのパブリカで、同じ車体の800ccと1000cc搭載モデルを乗り継ぎました。 360には無かったWindow Washer 機能が付いていたことから、時々クルマを停めて雑巾で前の窓を拭く手間が無くなりました。 1974M Toyota Corolla (KE30) 史上最多の販売数を誇った30カローラは、例に漏れず我が家の愛車の遍歴にも、その名を連ねてました。 複数代に渡ってジェリー藤尾氏がCMキャラクターを務めており、国民的な大衆車としての位置付けを不動のものとしてました。 1981M Toyota Carina 「足のいい奴」「やったね、千葉ちゃん」「鬼に金棒、ツインカムターボ」のフレーズが懐かしいカリーナ1500STも我が家の愛車でした。基本的にはセリカと共通で、1500ccの3AUエンジンはカリーナの車体に対しては非力ながらハンドリングの非常に良いクルマでした。 ジェリー藤尾氏同様にトヨタは千葉真一氏を複数代のカリーナのイメージキャラクターに起用しており、しかも「足のいい奴」のキャッチフレーズは3代に渡って共有され、イメージの定着に貢献していました。 現在では伝統的な車種のブランドを簡単に消してしまい、ユーザーにブランドイメージが根付く前に車名を取っ替え引っ替えと、全く訳が判らない状態になってるのが残念です。 1989M Toyota Starlet 思わず担ぎたくなる青春のスターレット。 うちで乗っていたのはターボではありませんがEFIの100馬力のハイメカツインカムエンジンは軽量ボディには充分なパフォーマンスを発揮していました。 2011M Daihatsu Mira e:S 父が定年退職後に仙台から藤枝へ引越してからは、ダイハツの軽自動車ミラジーノ、ミラクォーレ、そして最後にこのミライースを乗り継ぎました。 発売時の2011年頃はエコカー減税が導入されてハイブリッド車の百花繚乱時代へ突入してましたが、そうした中で高額なハイブリッド技術を使用せずに、徹底的な軽量化と空力特性の追求等で超低燃費及び低価格を実現したのがミライースで、後席ヘッドレストの省略や後部座席バックレストを車体へ固定する為の1本ピン形状のストライカーには大変驚かされました。 低価格なので非常にノイジーではなくて、爽快なツインカムサウンドだと前向きに思い込んでしまえば非常に走りの楽しいクルマへと変貌します。
久本 拓司
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飛行機②
トランスワールド航空 ボーイング747-100 最終塗装版TWAのクラシックジャンボ機です。 空路認可取得したものの幻に終わったセントルイスから成田への直行便で帰省してみたかったです。 トランスワールド航空 ボーイング767-300ER 老朽化した747の代替機として導入された767は、米欧間のTrans Atlantic 路線の主力機として数多くのエアラインに採用されてます。 2-3-2のエコノミークラスのシートレイアウトはミドルマンの悲劇を14%に引き下げた超優秀なワイドボディ機で、大き過ぎないことで乗降時間も短めなことから、私のお気に入りの機体です。 ロイヤルヨルダン航空 ロッキードL1011-500 昭和50年に田中角栄元首相等が贈収賄で逮捕されたロッキード事件のきっかけになっていたトライスターです。 予定通りに全日空ではこの機体が採用されたものの、全世界的には貨物スペースの不足や整備性の問題もあって同時期のマクドネルダグラスDC-10に完敗でした。 更に直後での双発機の洋上運行距離規制緩和により、3発機の需要も無くなり、ロッキード社はこのトライスターをもって旅客機市場から完全に撤退しました。 機能面はさておいて、デザイン的には武骨なDC-10を凌駕していたと思います。 ルフトハンザ航空シティライン ボンバルディアCRJ700 21世紀初頭からブラジルのエンブラエル社と共にDC9や727等の代替機種として急速に普及したカナダのボンバルディア社の小型リージョナルジェット機は航空会社の効率化と経営の安定化に貢献しています。 ノースウェスト航空 ボーイング747-400 1995年にアメリカへの海外赴任が決まったことで30歳にして初めてパスポートを取得し、人生初の国際線で搭乗した飛行機でした。 その後の一時帰国でも利用し、駐在終了時では人生唯一のファーストクラス搭乗という幸運にも恵まれました。
久本 拓司
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Hot Wheels No16
Hot Wheels 2021M Ford Mustang Mach-E 1400 1984M Toyota Sprinter Trueno 1600GT (AE86) 1999M Honda S2000 1998M Nissan Silvia Super Silhouette (S15) 1991M Mazda MX5 Miata (Eunos Roadster) 1976M Honda Civic(SB1) 1997M Porsche 911 Carrera Cabriolet 2023M Nissan Fairlady Z
久本 拓司
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Hot Wheels No15
Hot Wheels 1991M Mercedes Benz 500E 2007M Subaru WRX STI 1969M Copo Corvette 1994M Bugatti EB110 S5 1984M Chrysler Daytona 日系自動車メーカーの関係会社として自動車部品を生産している当社が、かつては米国ビッグ3の一角のクライスラーと取引を行っていたことからミズーリ州コロンビア市に拠点を構えておりまして、そこが私の最初の海外駐在先でした。それ故にこの「G Body = デイトナ」の存在が奇しくも自分の海外への扉となっていた、とも言えます。 1980〜90年代のクライスラーは三菱自動車を傘下に置いていたこともあり三菱自動車ブランド車とのプラットフォームや部品を共用しており、そのせいか典型的なアメ車というより欧州または日本車の雰囲気が感じられます。 私が赴任した1995年にはクライスラー事業も終焉を迎えて代替事業が成り立たなかったことから、2年間を拠点閉鎖の為に費やすことになりました。そんな状況下のアメリカ大陸のど真ん中ヘ1人だけで放り出された孤独感よりも勝手気儘に過ごせたのは、きっと若さの成せる術だったと思います。 1992M McLaren F1 2020M Porsche Taycan Turbo S
久本 拓司
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ちょっと気になり、買いました②
1989M Honda Integra Rxi 平成上皇陛下が自ら30年近くに渡ってハンドルを握られていらっしゃいました。シングルカムながら16バルブヘッドで電子制御燃料噴射装置を備えたZC型エンジンは強力120馬力と低速からの太いトルクで、Vtec仕様とはまた一味の違う美点を備えていました。5速MTとパワステ無のRxiを選択されていたことは、間違いなく昭和の走り屋の「象徴」でもあり続けたいとの気概が強く感じられます。 1978M Honda Prelude 「スペシャルプライベートカー、音楽ゴダイゴ」のCMで登場した「川越ベンツ」。 発売時ではCVCCの⒈8リッターエンジンが90馬力しか無いということで単純にショボいエンジンを載せていたシビックを大きくした様な魅力の無いクルマにしか見えませんでしたが、時間の経過とともに低重心の優れたデザインが目に留まる様になりました。 その後の次世代モデルは爆発的な売行きを維持し、1994Mの4代目Si Vtecは私の愛車となりました。 1987M Chrysler Lebaron Coupe (J -Body) 初めて海外駐在したMissouri州Columbiaの工場で当社がこの車の内装部品を手掛けていました。 私が駐在した直前の1995年7月に生産終了となりましたが、長期間販売されていたことから頻繁に路上で見かけました。コンバーチブルの方が数多く売れたらしく日本へも輸入されていたそうです。 当時のクライスラーは三菱自動車を傘下に置いていたことからエンジン等を供用しており、デザイン的にも生粋の米国車とは違う雰囲気が感じられます。 2015M Toyota Alphard 北川景子とモッくんの「ちょっとはしゃぎ過ぎじゃ無いですか」のCMを観てサウンドオブミュージックの音楽が耳にこびり付いた挙句に無性にザルツブルクへ行きたくなり、足を運んでしまいました。 気が付けば政治家や有名芸能人や大企業の重役の移動手段として重宝される様になり、「いつかはクラウン」を始めとする日本のセダン市場を完全に駆逐させる存在へ変貌を遂げてました。 2005M Honda Legend 長らく続いた国産乗用車の280馬力規制に風穴を開けた記念すべきクルマ。300馬力の3.5リッターV6エンジンにSH AWDの組み合わせは欧州の高級セダンに肩を並べ、カーオブザイヤー受賞という栄冠にも輝きました。 今にして思えば525万円という新車価格はバナナの叩き売りの様なレベルに感じられます。 2015M Nissan NV200 Taxi トヨタのジャパンタクシーの対抗馬として日産が社運を賭けてリリースしたNV200ですが、日本人の眼からはタクシーに見え難いことから、2021年に生産中止となりました。 欧州等では空港を拠点とするタクシー会社には全高の高いワゴンはシャトル的な需要が高いことから、生産中止は勿体無い話しの様に思われます。 トヨタのジャパンタクシーは見かけ程のスペースが無いことからシエンタの方を好んで選択する業者も多く、タクシーの使い勝手としてはNV200の方に優位性が感じられます。
久本 拓司