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- SECESSION 「ウイーン・分離派」
SECESSION 「ウイーン・分離派」
ウィーン造形芸術家協会において、会員たちの間で意見の対立が生じ、
クリムトやコロマン・モーザーら若手を中心とする約20人の芸術家たちが、
「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」という有名なモットーを揚げ、
ウィーン造形芸術家協会年(1897年)にウィーン分離派を結成した。
名誉会長にはルドルフ・フォン・アルト、初代会長にはクリムトが選出される。
「分離派」という名称のグループは、既に1892年にフランツ・フォン・シュトゥックを中心にミュンヘンで結成されていた。、ウィーンでの結成の翌1898年には、ベルリンでも同様の団体が結成されている。
ウィーン分離派の主な目的は、美術市場からの独立した展覧会を開催すること、
そして他国の芸術家たちとの交流を深めることにあった。
分離派会館はヨーゼフ・マリア・オルブリヒによって設計され、
1898年11月に開催された第2回分離派展と同時に開館。
白亜のファサードに金の装飾が眩しい、
これまでに見たことのないような建造物が姿を現した。
特に人々の目を引いたのが金色のクーポラで、
実際には月桂樹の葉と実で象られているが、
「黄金のキャベツ」というあだ名で呼ばれた。
分離派会館の印象的なファサードを描いた画は、
「第2回 分離派展」のポスターで、
設計者のヨーゼフ・マリア・オルブリヒ自身によって描かれた。
クリムトの《パラス・アテナ》はこの時に展示されたものです。
展示スペースと同様に重要だったのが、
機関紙『ヴェル・サクルム(聖なる春)』の出版で、
1898年1月に創刊し、1903年の廃刊まで毎月発行されました。