理想の滑稽さを求めてテイク40。高田冬彦のストレートな性的表現に潜む不完全性への愛

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インタビュアー/田口美和
モデレーター/深野一朗
文/藤田芽生
写真/新澤遥

一度見たら忘れないある意味ショッキングな映像体験。宗教、神話、おとぎ話、ジェンダー、トラウマ、性、BL(ボーイズ・ラブ)など、現代社会が抱えるさまざまなテーマを表現する気鋭の若手アーティスト高田冬彦さん

彼の作品の特徴はストレートな性的表現に潜む鋭い批評性といえるだろう。普遍的なテーマを独自に分析し大胆に表現。どの作品も緻密に構成されながらもウィットに富んでいてユーモアが効いている。そこには間違いなく揺るぎない1本の軸が通っている。インタビュアーはタグチ・アートコレクションの田口美和さん。高田さんの根本に潜む軸に迫っていく。

アート・コレクター田口美和さんより

高田君の作品が好きという人に出会うとなぜか嬉しくて「お、あなたも!」と妙な親近感がわいてしまいます。映像作品の多くは、彼自身の部屋で撮影され、彼自身が自らの体を張ってタブー的なトピックを演じることで生み出されてきました。「全て」をさらけ出しながらも下品にならず、むしろ見ているこちらが試されているような不思議な感覚。それが中毒のモト。近年はバレエ「牧神の午後」を扱った「afternoon of a Faun」やアンデルセン童話「人魚姫」をもとにした「Cambrian Explosion」など、神話や童話、美術史などを題材に、現代の感覚をオーバーラップさせ時代への鋭い批評を含みながら独自の表現世界を展開しています。最近は自らは演出を務め他の演技者と共同する作品も制作しています。ぱっと見てわかる荒唐無稽で変態的な面白さと、隠されている巧みなメタファーを読み解く面白さが同居している彼の作品は、時には自虐的ながら常にポジティブな明るさを湛えています。

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“体”は代入可能な欲望のための装置

田口美和(以下田口):私が1番最初に見た高田くんの作品は「LOVE EXERCISE」でした。人の体をたくみに動かして人形にキスさせるだけなのに、指示された通りにしようとする体の動きと、気持ちの入ったかのような人形の動きが驚くほどにリアルでした。

『LOVE EXERCISE 』  2013年 13m08s  video

『LOVE EXERCISE 』 2013年 13m08s video

高田冬彦 (以下高田):ありがとうございます。

田口:聞きたいのは高田くん自身の出演についてです。高田くんが実際に出演している作品は多いですよね。例えば「MANY CLASSIC MOMENTS」や「Afternoon of a Faun」。一方、「無垢の歌|健康な愛」や先ほどの「LOVE EXERCISE」には出演していません。ご自身が出るものと出ないものをどう区別していますか?

高田:最近は意識的に自分が出ていない作品も制作しています。例えば、スカートめくりをしている作品「MANY CLASSIC MOMENTS」には僕自身が出演していて、それはそれでもちろん意味があります。でも同時に、体は代入可能で、他の誰かが演じていてもよく、そうすることで成り立つ欲望の装置として見てほしい、という気持ちも強いのです。僕が出ずっぱりだと、装置のコンセプトではなくて、「体を張っていてすごいね」という話で終わってしまう傾向があって。

『MANY CLASSIC MOMENTS』  2011年 3m17s  video

『MANY CLASSIC MOMENTS』  2011年 3m17s video

田口:高田くんの作品には生身の体がよく出てきますね。

高田:ぼくがずっとこだわっているのは、「ファンタジーやファンタズムみたいな幻想的なものが、今を生きている人の実存にとってどんな意味を持つか」という問いです。ファンタジーやエロスは古典ではお約束のテーマなんですけど、最近の現代美術では重要視されていない気がします。

ぼくは「自分自身がなりたい理想の体に幻想を持ちつつも、そう上手くはいかない中途半端な人たち」に共感します。例えば歌手やアイドルの曲を聞きながらその歌詞を口パクしたり、自分を重ね合わせたりするじゃないですか。だけど、ほとんどの人が実際に歌手になれるわけではない。そのならなさとか失敗し続けるところとかに人間味を感じます。CGなどで作品を作ってしまうとあまりに思い通りのものができてしまうので、失敗し続けるために生身の身体を使っています。

それとつながる話として、常に身体スケールで作品作りをしたいと思っています。例えばぼくの部屋の広さは四畳半。そこでよく作品を作っているんですけど、この四畳半の広さは身体のスケール最低限の広さなんです。

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田口:「鋭い社会批評性もあるけれど、高田くんの作品を見るとホッとする」と友人からよく聞きます。自分の実感で捉えられる世界から物事が離れていく中で高田くんの作品は、根本部分に人間味があってみるとホッとするのかもしれないですね。いま話してくれたような身体との地続き感がポイントなのかもしれません。作中で使用する、ちょっとハリボテ感がある感じの小物もご自身で作られていますよね。

高田:そうですね。綺麗な小物ばかりが出てくるファンタジーを作ったところで個人的には面白くないですし、それはハリウッドがやればいいと思っています。でも、やっぱりちょっと心を動かされるくらいの綺麗さは欲しくて、その匙加減に苦労はします。出来損ないだけどキュンとくるような。

田口:話を聞けば聞くほど高田くんの作品からは愛を感じます。人間性とか失敗とかも含めて愛。歪んでても愛は愛。不格好でも格好悪くてもやっぱり愛。だから見た人がすごいポジティブな気持ちになるんだと思います。

ファンタジーから垣間見る愛すべき人間性

田口:高田くんの作品はとにかく印象的なものが多いけれど、アイデアはどうやって出していますか。

高田:ノートにいっぱい書き出しています。なんていうか、作品のテーマが1つだけだとつまらなくて。悩んでいるうちに3つくらいのアイデアがカシャってはまる時がくるんですね。そうすると作品は面白くなるしより強くなるのかなと。

田口:気になるトピックを書き溜めているんですね。「VENUS ANAL TRAP」のインスピレーションはどこからきたのでしょうか。

『VENUS ANAL TRAP』  2012年 2m40s video

『VENUS ANAL TRAP』 2012年 2m40s video

高田:ハエトリソウです。実はぼく、食虫植物に詳しいんです(笑)。毒々しいものが昔から好きなんですけど、僻地や特殊な貧しい環境に特化した植物に魅力を感じます。ぼく自身も、悪い環境を逆転させたいみたいな欲望もありますし、シンパシーを感じるんです。

それでいうと牽強付会(けんきょうふかい)かもしれないんですけど、制作のモチーフにしたブリトニー・スピアーズ浜崎あゆみも、逆境を逆手に取り強みに変え再生する、みたいなイメージがあり、そのあたりに共感しているのだと思います。こうした「強い女性」のイメージはキャリアの節々で作品化しています。(「WE ARE THE WOMEN」など)

田口:少し話は変わるんだけれど、作品によく金粉などのゴールドカラーが登場しますよね。

高田:金粉は祝福の意味ですかね。ディズニー的な、陳腐だけどまばゆい多幸感が好きなんです。

ディズニーといえば、人を見た目の良し悪しで判断するルッキズムの問題と結びつけて考えてしまいます。一方に美しく正しい王子様とお姫様がいて、他方に醜く悪い魔女がいる世界。

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高田:それはある意味とても差別的な世界だとも思いますが、同時に強く惹かれてしまう自分もいるわけです。いわゆるポリティカル・コレクトネス的な「みんなが平等に!」という思考が頭の半分を占めつつも、とはいえ一筋縄ではいかないよなぁ、とも思うんです。やっぱり愛って偏りみたいなものじゃないですか。差別と愛は近いところにあると思うんです。そういう人間の欲望のすがたを捉えたいです。

田口:「MANY CLASSIC MOMENTS」の音楽(チャイコフスキー)も、「眠れる森の美女」を選んでいますね?

高田:「眠れる森の美女」はぼくが1番好きなディズニー映画です。自分の作品づくりの大きなテーマとして「自分と他者の壁」とか「思春期」とかがあります。そういうものが童話の中には盛り込まれています。

例えば眠れる森の美女やラプンツェルでは、年頃の少女がある一定の期間閉じ込められるけれど、その後何かきっかけがあって再生し、世界と関係を結び直す。これは性の目覚めの暗喩だったりします。僕が思うに、大人になってもこうした「閉じこもり→再生」という経験はなんども繰り返されるのではないでしょうか。

昔話はある種キラキラした上等な世界と、極端に悪い世界のブレで物語が構成されます。お城と王族、森の小人と床下の鼠のような。そういう階級やクラスの違うものが一瞬不思議な魔法によってつながる瞬間があるんです。面白いことに、真ん中があまり出てこないんです。

田口:両極端を見せることで中間にいる私たちが色々揺れることができる。

高田:その通りです!ぼくも自己愛と自虐の間で常に揺れている人間ですが、そうした思春期的な情緒不安定を埋め込む器として物語はあるのではないでしょうか。そういう意味で言うと、ぼくの汚部屋からファンタジーを立ち上げるのも同じようなことなのかな、なんて思います。ドテカボチャが馬車になる、みたいな。

『Afternoon of a Faun』  2015-16年 5m27s  video

『Afternoon of a Faun』 2015-16年 5m27s video

理想の滑稽さには映像美が必須

田口:「新しい性器のためのエクササイズ:#2 のびのびカルバン」は、パンツを二人で奪い合う作品でした。これは、領土争いなどの社会的なテーマも内包しているのでしょうか。

高田:あえて社会的なテーマを狙っているわけではありません。性の暗示をさせたいというぼくの興味です。布が引っ張られては伸びてまた戻って最後はぐにゃっとなる。こうしたテンションと弛緩、というモチーフは他の作品でも繰り返していますね。

『新しい性器のためのエクササイズ : #2のびのびカルバン』 2019年 2m03s  video   コラボレーター:藤田一樹

『新しい性器のためのエクササイズ : #2のびのびカルバン』 2019年 2m03s  video コラボレーター:藤田一樹

田口:見る人によって色々な意味に捉えられるのは良い作品の条件ですよね。上手なメタファーというか、見る側が試されます。ちなみに高田さん、パフォーマンスや演劇とコラボレーションはしないのですか?

高田:そういう話はあります。ただ、パフォーマンスの製作をしていると毎回途中で映像にシフトしちゃうんです。ぼくの映像作りに関していうと、40回くらい撮り直しするんですね。ライティングとか、カメラの微妙な角度の調整とかを何度もして理想の滑稽さを作り出してるんです。これがパフォーマンスとなると全方位から見られてしまうのでコントロールできないんです。ぼくがやりたいことをパフォーミング・アーツでやるとあまりにも生々しくなりすぎてしまうんです。

田口:そもそも、どうしてアートの道に進んだのですか?

高田:映画監督になりたかったんです。デヴィッド・リンチスタンリー・キューブリックに影響を受けました。ファインアートに行った理由は、個人規模で作品づくりができるからです。

田口:そうだったんですね。高田くんの映像はもちろん映像として素敵なんだけど、例えば普通の映像だったらある「つなぎ」の部分がなくて一枚絵のような絵画的な美しさを感じます。

高田:多くのペインターたちから影響を受けています。ボッシュとか、カラヴァッジョとか、ゴヤとか、ウィリアム・ブレイクとか。シュルレアリスム全般はすごい好きだし、奇想的、幻想的な美術や文学には大体ハマります。

田口ポール・マッカーシーの映像作品「Painter」と高田さんの作品は個人的には似ていると思う部分があるのですが、意識していることはありますか?

高田:もちろん影響は受けています。ですが、マッカーシーやマイク・ケリーに関しては、ある種のパンクムーブメントがベースにあると思っています。それにつきもののマッチョイズムが実は苦手で、そこがぼくとは違うかもしれません。また、マッカーシーもディズニーを参照していますがおそらくかなり批判的な立場ですよね。ぼくはもっと普通のファンの立場から作っている気がします。ファンなんだけど愛が強すぎて原作を歪めちゃった、みたいな。

時代を切り取る作品を作る

田口:高田さんは若いアーティストの作品を見ますか?

高田:国内外含めて見ています。

田口:見るのはギャラリーでしょうか。

高田:海外の作家に関しては主にインターネットですね。それでいうと、自分がブリトニーに扮した「LEAVE BRITNEY ALONE!」のYouTubeっぽい雰囲気の作品はおそらく世界同時多発的に出てきていて、似たような傾向の作家が何人かいるようです。先にやられたなーという悔しさと、大きな読みとしては自分は間違えてなかったなという確信を得ました。アーティストには10年スパンで時代を切り取るベタな絵が必要なんです。例えば50年後の人が見たときに「この作品は10年代ぽいね!」と言われるような。

『LEAVE BRITNEY ALONE!』  2009年 3m34s video

『LEAVE BRITNEY ALONE!』 2009年 3m34s video

田口:時代を切り取るのは大切ですよね。これから先は何がやりたいですか?

高田:もっと大きいものを作りたいです。例えば長編映画のような作品を。いきなりは無理ですけど、まずは30分とか40分くらいの長さの作品を撮りたいなと強く思っています。いわゆるストーリーありきのものではなくて、デレク・ジャーマンのようなアートフィルムにはなると思いますが。やらないと後で後悔するんじゃないかなと。

—おわり—

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公開日:2020年4月8日

更新日:2021年1月6日

Moderator Profile

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深野一朗

現代アート・コレクター。 国内外のアートコレクターとギャラリーのためのオンライン・プラットフォーム 「CaM by MUUSEO」をプロデュース。主な著書は『「クラシコ・イタリア」ショッピングガイド』(光文社)。

Contributor Profile

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藤田芽生

エディター・ライター。現在はベルリンにてフリーランスで活動中。ファッション、ストリートカルチャー、音楽、アートあたりが得意分野。中世ヨーロッパの歴史オタク。虎が好き。

終わりに

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田口さんがインタヴュー相手として高田さんを選ばれた時、意外な感じがした。美術館で拝見する「タグチ・アートコレクション」とはかけ離れている気がしたからだ。しかし、「高田くん、やばいよね!?」といつも興奮気味に語る田口さんは、高田さんの作品を八点もコレクションされている。ひょっとして、日本いちの高田冬彦コレクターではないだろうか。

田口さんに限らず、高田ファンには男性よりも女性の方が多い気がする。私事で恐縮だが、僕が運営していたアートスペースで、一夜限りの「高田冬彦ナイト」というイベントを企画されたのも、女性コレクターの方だった。高田ファンには何故にこうも女性が多いのか?

高田さんの受け答えの中には何度か「再生」という(或いはそれを想起させる)言葉が出てくる。それは例えば、閉じているものが開くイメージ(「MANY CLASSIC MOMENTS」のスカートや「VENUS ANAL TRAP」のハエトリソウ)や縮んでいるものが伸びるイメージ(「新しい性器のためのエクササイズ:#2 のびのびカルバン」のパンツや「Love Phantom」の胸)に見て取れる。それらは単に性的な暗喩というよりも、もっと根源的な再生のイメージと言っても良いだろう。

僕にとって更に興味深いのは、「WE ARE THE WOMEN」(2013)や「Ghost Painting」(2015)に表れる「生首」のイメージだ。生首とは、身体から切り離された頭部にほかならない。この「首を切断する」「頭部を切り離す」という行為を「再生」の契機と考えたのが、フランスの哲学者で思想家のジョルジュ・バタイユである。バタイユによれば「頭部」とは近代合理主義の象徴であり、それを生の身体から切り離すことによって、原初的な生の歓喜を取り戻すことが出来るという。彼が1937年に結成した秘密結社の名前はズバリ「無頭人」である。

そして、当時その「無頭人」に参加していた日本人アーティストが岡本太郎だ。ダダイスム・シュルレアリスム研究者の塚原史(1949-)は、太郎の「太陽の塔」が「いけにえとして首を切断される瞬間に、みずからの死とひきかえに新しい生命である太陽を産みだそうとしている」女性=母である、という大胆な解釈を提案している。その背景には「無頭人」におけるバタイユの儀式志向がある。読者の皆さんは、是非「太陽の塔」をよくご覧頂きたい。頭部が切断され、その切断面を隠すように黄金のマスクが被さっているのが分かるだろう。他にも太郎には、頭部が切断されて、そこから子どもが湧いて出ているかのような、その名もズバリ「母の塔」という作品もある。

このようなことから、僕は高田さんの「生首」というモチーフを見逃すことが出来ない。高田さんがどこまでご自覚なさっているかは存じ上げないが、僕はこの生首に、より一層高田さんの「再生」への希求を感じる。塚原が言うまでもなく、「再生」は女性だけがなしうることだ。そして高田ファンに女性が多いのは、それを本能的に感じ取っているからではないだろうか。僕にはそう思えてならない。

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