閃亜鉛鉱・黄銅鉱・黄鉄鉱 (sphalerite/chalcopyrite/pyrite) 尾小屋鉱山 #0365

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石英質の母岩に鼈甲亜鉛を含む閃亜鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱の結晶が混在しています。

尾小屋鉱山は古くは1682年(天和2年)頃に金山として採掘が行われたとのことで、1704年~1710年(宝永年間)にも採掘が試みられましたが金品位が低く本格的な開発は行われなかったようです。明治維新後、1878年(明治11年)に尾小屋の「松ヶ溝」で銅鉱の露頭が偶然発見され、1881年(明治14年)に加賀藩の家老であった横山家の13代横山隆平が鉱業権を買い取り、「隆宝館・尾小屋鉱山」を創業しました。1903年(明治36年)には粗銅生産量が1,000トンを超えましたが、その後大正時代になると労働争議の頻発により経営が行き詰まり、1931年(昭和6年)に日本鉱業の所有となりました。第二次世界大戦中は労働力や物資の欠乏により生産量が低迷しましたが、戦後は採鉱、選鉱、製錬の一貫操業により業績が回復、1950年(昭和25年)頃から1962年(昭和37年)にかけては従業員1,000人前後、年間粗銅生産量が2,000トンを超え、当時日本最大を誇りました。最盛期の1955年(昭和30年)頃には尾小屋を中心に周辺の人口は最大5,000人を数え、商店街、劇場、映画館、パチンコ屋、鉱山病院などの施設を有する一大鉱山街を形成していました。しかし良質鉱の枯渇、製錬コスト上昇、外国から安価な銅の輸入増大などにより次第に経営が悪化し、1962年(昭和37年)に尾小屋鉱山本山が閉山、1971年(昭和46年)には最後まで残った大谷支山も閉山となりました。

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