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- ポール・マッカートニーとウィングス『バンド・オン・ザ・ラン』
ポール・マッカートニーとウィングス『バンド・オン・ザ・ラン』
【2024年6月8日ON AIR】
アナログ音源専門プログラム「33rpm」。
6月はロックのゴールデン・エイジ、1970年代洋楽ロックをピック・アップします。1950年代に誕生したロックン・ロールは、1969年を境として70年代に入ると巨大産業として発展。そのスピリットは別として、黄金時代を迎えます。今回は、音楽界の世界遺産、ポール・マッカートニーとウィングスの『バンド・オン・ザ・ラン』です。
音楽ファンならずとも知らない人はいないであろう超大物、ポール・マッカートニーは、1942年6月18日ジェイムズ・ポール・マッカートニーとして、リヴァプールに生まれました。父親はバンド経験もあり、家でピアノを弾くこともありましたが、小さい頃に興味は示しませんでした。もめ事が好きではなくて少し内気な少年は、14才で母親を失った後ギターに興味を示し、その寂しさから逃れるように朝から晩まで練習に励みます。
エルヴィス・プレスリーの登場で音楽への情熱は高まり、1956年夏、運命の出会いを迎えます。教会のパーティーでギターをバンジョーのコードで弾き歌う、ジョン・レノン。二人は意気投合して、一緒に活動するようになり、クオリー・メン、ムーン・ドッグスからシルヴァ―・ビートルズへ発展。1962年ザ・ビートルズとしてメジャー・デビューすると世界制覇を果たします。
ところが67年、彼らを育て上げたマネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなると4人の結束は揺らぎだし、それぞれが別行動をとるようになっていきます。そんなメンバーをひとつに束ねようとしたのが、もめ事嫌いのポール・マッカートニー。「もう一度原点に戻って(ゲット・バック)」との願いから、セッションしながら曲を作ってゆこうと4人を集めたのが、1969年1月に行なわれた「ゲット・バック・セッション」でした。
しかし結局ビートルズは解散、ポールは70年にソロ・アルバム『マッカートニー』を発表しますが、「ビートルズを捨てた男」としてバッシングに合ってしまいます。
71年にはポール&リンダ・マッカートニー名義で『ラム』をリリースすると、シングル曲「アンクル・アルバート~ハルセイ提督」が全米チャートで1位を獲得しました。そしてビートルズ時代から遠ざかっていたライブ活動を模索して、新バンド、ウィングスを結成。イギリス国内の大学でサプライズ・ライヴなどを始めますが、音楽経験皆無の妻を加入させたことで、関係者からは失笑を買ってしまいます。
数々の困難を乗り越え1973年にリリースしたアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』から「マイ・ラヴ」が全米No.1に輝く大ヒット、ここから快進撃が始まります。続いて『バンド・オン・ザ・ラン』から、タイトル曲や「ジェット」などが次々ヒット、アルバムも全米・全英とも頂点を極め、グラミー賞を受賞しました。75年に『ヴィーナス・アンド・マース』、76年『スピード・オブ・サウンド』を全米をNo.1に送り込み、絶頂期を迎えますが、79年の『バック・トゥ・ジ・エッグ』をもってウィングスは解散。
再びソロ・アーティストとして活動しながら、現在も第一線で活躍し、ギネス世界記録で”ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家”として認定されています。
ポール・マッカートニーとウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』
SIDE A
「バンド・オン・ザ・ラン」
「ジェット」
「ブルーバード」
「ミセス・ヴァンデビルト」
「レット・ミー・ロール・イット」
SIDE B
「マムーニア」
「ノー・ワーズ」
「ピカソの遺言」
「西暦1985年」
ポール・マッカートニーとウィングスのアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』いかがでしょうか?ちなみに、ミュージシャンとしてイギリス史上初のビリオネアとなったポールですが、『バンド・オン・ザ・ラン』がヒット中の1974年8月に収録されたスタジオ・ライヴ『ワン・ハンド・クラッピング』が6月14日に正式アルバムとしてリリースされるそうです。
https://www.universal-music.co.jp/the-beatles/
ビートルズ 日本オフィシャルサイト