可能性を求めて旅だったイタリアで、待ち受けていた運命的な出会い
石見(以下、I):長谷川さんは、イタリアで靴職人としての第一歩を踏み出されましたが、そもそもイタリアに行かれたきっかけは何でしたか?
長谷川氏(以下、H):僕が社会に出た頃はちょうど就職氷河期で、仕事の選択肢がかなり限られていました。学生時代に旅行して「良い」と感じたイタリアに行けば、可能性が広がるのではないかと考えました。
I:では、最初から職人を目指されていたわけではなかったのですね。
H:はい、そういう感じではないです。元々ファッションが好きだったのと、生計を立てる必要もあったので、並行輸入の仕事を自分で始めました。
I:イタリアに着いてすぐに、お仕事をされたのですか?
H:いや、着いてから半年くらいは、語学学校に行きました。イタリア語は大学時代にも勉強していたので、基礎はわかっていましたが、経験を通してしか身に着かないことが多くて。それで、仕事しながら習得する方が早いなと思って始めました。
I:それにしても、海外で一から仕事を始めるなんて、勇気がいりそうですね。
H:いや、割となんてことなかったです。学生の間に何度か並行輸入を試していて、知識はある程度あったし、当時(2002年)はレートが良かったので、あとは自分のタイミングの問題でした。
I:そこから、どういう展開で靴の道に進まれることになったのですか?
H:仕事を通して出会った人達と付き合っていくうちに、Silvano Lattanzi(シルバノラッタンジ)に繋がりが出来て、勤めることになりました。
I:シルバノラッタンジでは、どれくらいの期間お勤めになったのですか。
H:3年ほどです。
I:確か、他のブランドでも働かれていたと記憶しています。
H:はい。バリーニ(スティバレリアサボイア)やメッシーナから受注しているアルドという職人や、元々スフォルチェスコ城の横でオーダー靴店を構えていたバッリチェッリという職人の元を出入りしていました。
I:実際に靴作りに携ってみて、どういうところに惹かれましたか?
H:ひとつの部屋の中で、すべてが作られるのが、すごいと思いました。材料さえあれば、座ったままで一から十まで出来上がってしまうところが、一番の魅力ですね。
Bontaの工房内の様子。道具がきちんと整理されているのが印象的
「靴職人」の地位が冷遇されていた20世紀のイタリア。ファッション業界で語られてこなかった歴史の影
I:イタリア時代を振り返ってみて、印象に残っていることはありますか?
H:そうですね……職人で、衝撃を受けた人はいます。マルケという町にあるシルバノラッタンジの工場で、暫く缶詰めになって製作していた時期に、同僚に「アウトワーカーの職人がいるから、一緒に会いに行こう」と連れていかれたのが、畦道を車で爆走してやっとたどり着くような、周りに何もない丘の上にぽつんと建ったボロボロの家でした。そこにいたおじいさんの職人は、ほとんど自分の村のことしか知らなくて、驚きました。
I:まるでジブリの世界の住人ですね。そんな人が現代のイタリアにいるのは、確かにびっくりしますね。
H:そうなんです。そのおじいさんは、シルバノラッタンジからすべての工程を任されるほどの職人なのに、きっと自分の仕事の対価さえわかっていない。僕に対しても「何のために、こんなところにわざわざ来たんだ」と言っていました。
I:本当に、製作だけと向き合ってこられた方なのですね。
H:はい。多分、昔は靴作りしか出来なかったという背景もあると思います。僕の知っている昔ながらの職人さんは口を揃えて、「別に靴を作りたいわけじゃない。他に出来ることがないだけだ」と言います。
I:それは意外ですね。
H:イタリアでは、昔は「靴職人は政治に口を出すな」と言われていたくらい、地位の低い職業とされていました。これはあくまで僕の想像ですが、今は職人の数が減ったことで、重宝されるようになったのだと思います。ミラノのバリーニ(スティバレリアサボイア)やメッシーナのアウトワーカーの1人であるアルドも、今になってようやくまともな賃金を貰えるようになったと言っていました。
I:現代の華々しいファッション業界では、あまり語られることのない部分ですね。
H:そうですね。
I:その靴職人のおじいさんにお会いになったことは、長谷川さんに何か影響を残していますか?
H:うーん、影響がないとは言えないですね。彼の生活には憧れます。手を動かすだけの、いわゆる職人の仕事に専念するのが、最終目標ではありますが、現実的に考えて今は難しいと思っています。そうなるのに何年かかるだろうという感じです。
I:生活のために商売も大事だけれど、まず職人であり続けることが、ひとつの理想であるということですか?
H:はい、そうですね。実は、靴作りは、そのための種蒔きだと思っています。作った足数が増えれば増えるほど、それだけ後からのメンテナンスも必要になるので、最終的には引退した後も、作った靴の修理だけでやっていけるようにしたいと思っています。もちろん、現役でいる限りは、種を蒔き続けるつもりですがね。
長谷川さんが理想とされるのは、昔ながらの手法をとった靴づくり。たとえば、鳩目は、今の製法では裏に金具が使われているが、本来は写真にあるように、金具がなく、補強の革が張られていた。また、フェイシングステッチはただの飾りではなく、補強の革を繋ぎ止めるという役割を果たしていた。
イタリアの職人に「何故ここはこうなる?」と聞いても、「それはそうだから」という答えしか返ってこない
I:長谷川さんはイタリアから帰国後、ギルドの山口千尋さんの元で更に学び、附属の靴専門学校では教鞭も執られていましたが、ギルドでは、イタリアの工房との違いを感じましたか?
H:ノウハウが確立されているところが、大きな違いでした。イタリアの職人に「何故ここはこうなる?」と聞いても、「それはそうだから」という答えしか返ってこない。
I:感覚で伝えて、感覚で覚えるという感じですか。
H:そうですね。数値化されていませんでした。反対に、ギルドでは「ここは何ミリ」という風に、統計から数字を割り出していて、それに従えば、バランスとしては一定のレベルの靴が仕上がるように出来ていました。イタリアでも、キャップの長さの比率くらいは基準がありましたが、ギルドでは、中底の加工等、かなり細かい部分まで数字で決まっていました。教える時に伝わりにくいから、数値化する必要があるのだろうと思います。
I:そうですね、もしそれが無ければ、再現性が低くなりそうですね。
H:ただ、効率よく人を育てるという意味では、イタリアとギルドのどちらの方法が効果的なのだろうと、考えることはあります。
I:確かに、情報が整理されていると吸収しやすいのも事実だし、自分で学び取ったものこそ財産になるというのも、これまた事実ですね。長谷川さんご自身は、二つの異なるやり方を踏まえて、今はどのように取り組んでいらっしゃるのですか?
H:今までやってきた中で、基本となる数値は頭にあるので、一度それをベースに線を引いてみて、「こっちの方が良いかな」という微調整は感覚でしています。
I:なるほど。今ふと気になったのですが、製作現場でそれほど感覚的に技術が継承されているとしたら、ブランドはどうやって一貫性を保つのでしょうか? 長谷川さんは、修理でたくさんの有名ブランドの靴をばらされているので、そういった部分もよくご覧になっているのではないですか?
H:そうですね。実は、同じブランドでも職人によって、ピンからキリまで、個体差はあります。ただ、一人の職人さんが作ったものに限定して見れば、一貫性はあると思います。
製作中、修理中の靴や、ラスト(木型)の数々。
アイロンで、蝋をヒールやコバに浸透させる。
ハッポウミシン 修理用の機材。革が靴の形状になった後も、どの部分も好きな方向に縫えるミシン
圧着機 修理用の機材。ヒールやソールを圧着するための機械。
職人として抱えるジレンマ。”完成度”と”商売”のバランスを見極める難しさ
I:長谷川さんは、一人の「職人」という立場から独立されましたが、早い段階からお店を持つことを視野に入れていたのですか?
H:いや、それはないですね。基本的には、僕はずっとイタリアで職人をしたいと思っていましたが、家庭の事情で日本に帰ってくることになって。こっちで、イタリアにいる時と同じように仕事できそうな場所がなかったので、「じゃぁ、もう自分でお店を始めてしまえ」という感じでした。
I:潔いですね。
H:いや、もう、直感ですね。
I:直感と言っても、やはり頭の中にビジョンがあるからこそ、踏み出せるのだろうと思います。
H:うーん。一歩先くらいまでは見えているかもしれないけど、そこから先は全部手探りですよ。
I:そうですか。僕は、お話しを伺っていて、むしろ先の先まで見据えていらっしゃるという印象を受けました。例えば、これは普段から思っていることですが、長谷川さんのブログは、戦略として上手い例だと思います。
H:僕が開店した当初から書いているものですね。
I:はい。実は、ブログを拝見したのが、僕がBontaさんを知ったきっかけでした。これほど詳細まで明確に靴の構造や特徴について書かれているものはなかったので、「是非このお店に頼みたい」と思って足を運びました。
H:ありがとうございます。
I:やはり、僕のようにブログを見ていらっしゃるお客様は多いのではないですか?
H:そうですね。そういう方は多いです。僕自身、欲しい情報がネット上で見つからないことがあったので、痒い所に手が届くような記事を書けば、注目してもらえるだろうと考えて始めました。修理のレベルは他よりも高いという自負があるから、認知さえしてもらえば、そこからは繋がっていくのではないかと思いました。
I:まさにそれが当たったわけですね。
H:そうだと嬉しいです。これはやり始めてからわかったことですが、一度ブログの記事として纏めておけば、投稿して時間が経ってからでも、それを読まれたお客様が来てくださいます。
I:最後に、仕事は好きですか、嫌いですか、それとも愛していますか?
H:うーん。好きです、面白いので。ただ、常に時間との闘いです。時間を掛ければ掛けるほど良いものが出来ますが、そうすると商売にはならないというジレンマがありますね。
革靴の製作、修理という仕事の”奥深さ”を楽しそうに語る長谷川さん
本物のクラフトマンが備える、センスの根源とは?
今回お話を伺い、長谷川さんは靴作りだけでなく、環境選びや将来設計においても、理想の実現のために、一歩ずつ着実に、そして時には大胆に、歩まれているのだと感じました。「多くの選択肢の中から、ベストと思える一つを選ぶためなら、努力を惜しまない」という姿勢が、どんな話題のときも垣間見えました。
また、お客様の要望を叶えつつ、靴として美しい形を提供できるのは、幅広い知識と技術から、その一足に最適な方法を導き出すことが出来るからだと思います。
「職人、長谷川一平」のセンスの根源は、物事と丁寧に向き合う姿勢と、最良を見つけることの出来る、職人としての引き出しの多さにあるのかもしれないと感じました。
ーおわりー
Bonta
靴職人の長谷川さんが大阪・梅田に開いた工房。
オーダーメイドの靴作りから、革靴の修理まで、技術に裏付けされた丁寧な仕上がりが評判である。
===靴職人・長谷川さんの経歴===
2002年 渡伊
シルバノラッタンジで靴作りをスタートし、ラストメイキング、パターンメイキング、底付けを含む、すべての工程を学ぶ
シルバノラッタンジ在籍中からミラノの靴職人の元を訪ね歩く。
コモリ、メッシーナ、バリーニ(スティバレリアサボイア)等に通ううち、バリーニとメッシーナのアウトワーカーだったアルドやバッリチェリと出会い、2人の元を頻繁に訪ずれて、その腕を磨いた
2006年 帰国 中国のメーカーに就職
(2006〜2008年在籍。日本社がギルドから50メートル程の場所に有り、会社から出向しギルドで学ぶ)
2007年 山口千尋氏主宰のギルドで、イギリス式ハンドソーン・ウェルテッドを学び、附属の靴専門学校で約1年間講師を務める
2010年 Bontaを創業
終わりに
世の中で美しいとされている靴で、長谷川さんが、ばらして修理したことのないものはない、と言っても過言ではありません。ビスポークシューズを製作し、修理されることで、圧倒的な知識量と経験値を積み上げてこられたのだと、改めて感じました。