フランシス真悟は情報飽和の現代アートシーンに一石を投じる

フランシス真悟は情報飽和の現代アートシーンに一石を投じる_image

インタビュー/笹川直子
モデレーター/深野一朗
会場提供/Eri's showroom
文/藤田芽生
写真/新澤遥

インターネットでどんな情報だって手に入る今、作品のイメージを見ただけで“何となくわかった気”になってしまうことはないだろうか?そんな現代のアートシーンに一石を投じているのが、アーティストのフランシス真悟さん。

これまでにアメリカやヨーロッパ、日本などで個展を開催し、「抽象と形態:何処までも顕れないもの」、「レイヤー・オブ・ネイチャー」、「Emergence: Art and the Incarnation of Space」など、多様なグループ展に参加。作品はJPモルガン・チェイス・アート・コレクション、森アーツセンターなどに所蔵されている。

彼が2017年より取り組むペインティングシリーズ『Interference』は、見る角度によって色合いが変わる。光によって変化する彼の作品はその時々によって変わる鑑賞者の心を映す鏡のようだ。幼少期からアーティストの両親のもとで育ち、常に芸術とともに生きてきた彼が考える現代アートとは?現代アート・コレクターの笹川直子さんがインタビューした。

MuuseoSquareイメージ

アート・コレクター笹川直子さんより

フランシス真悟さんの作品をまとめてちゃんと見たのは、2018年に軽井沢にあるセゾン現代美術館でおこなわれた三人展です。今までギャラリーでも見ていましたが、「Interference」シリーズは美術館という静謐な空間にピッタリで、崇高な何かを感じさせるものがありました。真悟さんとは年齢が近いこともあり、同じ時代を共有しているはずなのですが、どこか違う惑星からきた王子様のような雰囲気をただよわせている作家さんです。

スマホ上では分からない、光によって表情が変わる作品「Interference」

笹川直子さん(以下、笹川):「Interference」シリーズの作品を初めて見たのは、2018年にセゾン現代美術館で開催された展覧会「レイヤーズ・オブ・ネイチャー その線を超えて」でした。光によってキラキラと輝く真悟さんの作品からは自然との調和を感じます。

Subtle Impression(emerald, violet and blue), 2019
Oil on canvas, 100 x 86 cm (39.3 x 33.8 inch) Photo: Keizo Kioku

Subtle Impression(emerald, violet and blue), 2019
Oil on canvas, 100 x 86 cm (39.3 x 33.8 inch) Photo: Keizo Kioku

First Impression in Square, 2019
Oil on canvas,24 x 24” / 60 x 60cm Photo: Keizo Kioku

First Impression in Square, 2019
Oil on canvas,24 x 24” / 60 x 60cm Photo: Keizo Kioku

フランシス真悟さん(以下、フランシス):「Interference」シリーズのテーマは“光”です。このシリーズの作品には顔料が入っていなくて、いわば色の“spectrum”(スペクトラム)なんですね。色を塗っているというよりは、ある角度に切られた沢山の小さな粒子に光が反射をして色が決まるんです。虹の色は、雨粒に光が入る時と出る時の屈折をする角度によって決まるでしょう?原理はあれと一緒なんです。

笹川:緑っぽいと思ってよく眺めてみると若干ピンクがかかっていたりと、角度によって色が違うんですよね。

フランシス:そう、グラデーションが出来るんです。光によって絵の見方が変化する。作品を実際に見ないと本来の色は分からないのです。自然の光って、人間の身体と心に深く結びついているものだと思うんです。当たり前の話だけど、毎日の天気は常に変わり続けている。僕たちは仕事をしている時も周りの環境に無関心な時も、脳みそのどこかで自然と光をキャッチしているのだと思います。だから、家のライティングや照明とか、窓の配置とかを気にするんじゃないかな。

「Interference」は時間によって表情がコロコロと変化するし、鑑賞者の心境によっても見え方は違ったりするんです。自分自身も制作の時はしゃがんだり、あっちに行ったりこっちに行ったり、常に位置を変えながら制作しています。

笹川:絵の前に立たないと、その体験はできないのですね。

フランシス:そうです。作品は空間や時間の中に存在しています。スマートフォンの画面ではスーパーフラットになってしまう。実際の作品は画面で見るよりももっと色や形が曖昧で、深みも表情もあるんですよね。

MISA SHIN GALLERY TOKYO,2019 Photo: Keizo Kioku

MISA SHIN GALLERY TOKYO,2019 Photo: Keizo Kioku

作品そのものが観る人に直接働きかける

笹川:最近、コンセプトが複雑すぎる作品を目の前にすると立ち尽くしてしまう時があるんです。だから、そんなに知識がなくても「美しいな」「なんかいいな」と思える作品に出会うとホッとします。「Interference」シリーズが放つ光はとても落ち着きます。昔の宗教画のような神秘的な印象を受けるし、ただ単純に美しい作品だなぁ…と素直に感じることができました。

フランシス:僕もどんなに観ても意味がわからない作品に出会うことはある。そういうものは往往にしてアーティスト自体のマインドがクリアになっていないことが多いのではないでしょうか。解説を読んだところで、「えー、どういうこと?」となるような。

もちろんコンセプチュアルな作品を作る素晴らしいアーティストはいます。例えばドイツのハンス・ハーケ(Hans Haacke)というアーティスト。彼はクリアなマインドを持っていて、いつだって面白いアイデアを考えつきます。コンセプチュアルな作品を生み出すアーティストは、作りたいものが明確な上に優れたライターである必要があるんです。

僕は、アイデアやコンセプトを作品の中心的な構成要素とするコンセプチュアルなアートよりは、作品そのものが観る人に直接働きかける作品を作りたい。彼ら彼女らの過去の体験や気持ちに作品がダイレクトにコネクトし、眺めていると何か考えが生まれるような。僕が伝えたいことを完璧に理解してもらいたいわけではないんです。

MuuseoSquareイメージ

笹川:作品そのものに向き合ってほしい、と。作品のタイトルについてはどうお考えですか。

フランシス:タイトルは重要です。僕はなるべく抽象的なシリーズタイトルを付けるようにしています。そしてサブタイトルには、作品を見たら意味が理解できる単純なものを付けています。広がりがあるけれども、ある種のリアリティがある題名であれば、鑑賞者の色んな解釈が入る余地がたっぷりとあるんです。これが僕の理想ですね。タイトルを付けるのはすごく難しいんです。タイトルのない作品もあるんですけど、それって少し寂しいじゃないですか。良いタイトルを付けると作品に命が吹き込まれる。例えば『Blue's Silence』というタイトルは、作品にとっても合っていると思うんです。

Blue’s Silence I,2005
Oil on linen60” x 51” / 152cm x 130cm,Photo: John Berens

Blue’s Silence I,2005
Oil on linen60” x 51” / 152cm x 130cm,Photo: John Berens

心理学的にアートを語る父親と、論理的にアートを語る母親から学んだこと

笹川:私と真悟さんは同年代なんですけど、育ってきた環境が全然違います。真悟さんはロサンゼルスと東京という、2つの故郷を持っています。それに、お母様(出光真子)が実験的な映像のアーティスト、お父様(サム・フランシス)がペインターという環境で育ち、ご自身もアーティストとして活躍されているというのもとても興味深い。ご両親からどんな影響を受けたのでしょうか?

フランシス:両親がアーティストだったので、「“何かを創る”ということが仕事なんだ」と思いながら育ちました。それがとても自然だったかな。父親が絵描きだったので、僕は小さな時から彼のスタジオでよく絵を描いていました。だから絵を描くことが1つのアクティビティとして存在していたんです。

いまでも具体的に覚えているのはカラートーンについて。1つの色にもいろいろな種類があって、赤っぽい青もあれば緑っぽい青もありますよね。これを見わけて、今度はどの色にどういうトーンの色を重ね合わせるかを考える。「次はどんなコントラストが出るのだろう……」と。そういうエクササイズをしましたね。

笹川:それはいくつぐらいの記憶でしょうか。

フランシス:10代の時。父親はユング(Carl Gustav Jung)やフロイト(Sigmund Freud)から影響を受けていて、夢や無意識を大切にしていました。

Sam Francis, Untitled, 1986, 336 x 200 cm (132 1/4 x 78 3/8 in.). Private collection, Amsterdam
Artwork © Sam Francis Foundation, California/ Artists Rights Society (ARS), New York.

Sam Francis, Untitled, 1986, 336 x 200 cm (132 1/4 x 78 3/8 in.). Private collection, Amsterdam
Artwork © Sam Francis Foundation, California/ Artists Rights Society (ARS), New York.

フランシス:心理学的にアートを語る父親とは違って、母親は論理的にアートを語っていました。母親とはよく銀座のギャラリーを一緒に回りました。今も小さい子がオープニングレセプションにいたりしますよね。僕もああいう存在でした。楽しかった時もあれば、つまらなかった時もある(笑)。母親とは「どのアートが好きか」といった好みの話や、「このオブジェはなんなのか」「コンセプチュアル・アートと抽象画の違い」といった話をしました。

“Woman’s House” 1972,  13min.40sec., 16mm,  Idemitsu Mako

“Woman’s House” 1972, 13min.40sec., 16mm, Idemitsu Mako

笹川:全く違うアプローチを受け継いでいるんですね。真悟さんの人間性的にも作品にも。今に伝わっているなと思うことはありますか?

フランシス:小さい頃から母親と議論を重ねるうちに、僕はスーパーコンセプチュアルなアーティストではないことがわかってきました。そういう風には、僕のパーソナリティ的になりたくてもなれなかったんですね。

先ほどもお話しましたが、僕はオブジェそのものが自立していることが大切だと思っています。例えや説明や批評がなくてもオブジェ自身が何かを訴えかけてくるような。これは家族との議論の末にわかったことです。

クリエイトは発見から生まれる。アートは探求の連続だ

笹川:最近、「発明とクリエイトすることは同じ地平線上にある」という話を聞きました。技術や論理はパキッと白と黒にわけられるものではなく、もっと曖昧さを含んでいると。

フランシス:アーティストは発明家みたいに“完全に新しいもの”をこの世に出さないとつまらないと言われます。ちょっとロマンチックに感じるかもしれないけれど、僕もそう思います。作品を作っていると失敗することもあります。逆に失敗から出てくる新しいアイデアや発見は沢山あります。

例えば、「Interference」シリーズの中でも、MISA SHIN GALLERYで開催されていた個展「Subtle Impressions」に展示した作品には蝋が入っているんです。意図していたものではなく、蝋が入っているコップにテレピンを入れて、そのまま色を塗ってしまった。後になって、「どうしてこんなにスムーズに広がったんだろう?」と考えたときに、「あ!あの時の蝋か!」と。

さらに、アルキドメディウムというオイルの配分を少なくしたら質感が変わり、筆を重ねる回数が減ったんです。これで何が起きたかというと、コントラストがぐっと出やすくなった。失敗から新しい発見が生まれていく。これもアートの面白いところですよね。

MuuseoSquareイメージ

笹川:まさに発明ですね。真悟さんがこれからどのような“新しいもの”を作るのか楽しみにしています。今後挑戦してみたいことはありますか?

フランシス:最近はビデオ作品を作ったりしていました。あとは、本も書いてみたいです。評論的なものではなく、ストーリーのあるものを。

この間キューバの有名なバレリーナ、アリシア・アロンソ(Alicia Alonso)さんが亡くなりました。彼女がインタビューで語ったことが“Don’t think about how old you are.Think about what you want to do.How are you going to do it and how you can keep doing it.”。年齢を考えず何をやりたいか、それをどうやるか、どうやってそれを続けることができるかを考える。これが彼女の生き方だったんですね。

実際、彼女は98歳まで生き、亡くなる直前まで色んなことに果敢にチャレンジしました。新しいものや違うことにチャレンジし続ける。そういう気持ちがないとね、やっぱり。

—おわり—

公開日:2020年2月28日

更新日:2021年5月6日

Moderator Profile

File

深野一朗

現代アート・コレクター。 国内外のアートコレクターとギャラリーのためのオンライン・プラットフォーム 「CaM by MUUSEO」をプロデュース。主な著書は『「クラシコ・イタリア」ショッピングガイド』(光文社)。

Contributor Profile

File

藤田芽生

エディター・ライター。現在はベルリンにてフリーランスで活動中。ファッション、ストリートカルチャー、音楽、アートあたりが得意分野。中世ヨーロッパの歴史オタク。虎が好き。

終わりに

深野一朗_image

このインタヴューの後、私は笹川さんがコレクションなさったフランシス真悟さんの作品を実際に拝見する機会に恵まれた。笹川さんがご紹介文で「崇高な何かを感じさせる」と仰り、インタヴューの中で「昔の宗教画のような神秘的な印象を受けるし、ただ単純に美しい作品だなぁ…と素直に感じることができました」と仰っているが、私もまったく同じ感想を持った。この「崇高な何か」とは何であろうか?

現代アートで崇高といえば、アメリカ人画家バーネット・ニューマン(1905-70)が1948年に雑誌に寄稿したエッセイ「崇高はいま」が有名だ。ニューマンはここで、19世紀以降の近代絵画が造形性や形式性からの逃避のみに力を注いできたことを批判し、絶対的なもの、宗教的なもの、更には崇高なるものを提示することの重要性を訴えた。

更にポストモダンの論者として有名なフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、戦後アメリカ抽象表現主義の作品を例に「崇高な芸術」を巡る理論を展開したが、とりわけ知られているのはニューマン本人を論じたものである。ここでリオタールが参照しているのが、イギリスの政治哲学者エドマンド・バーク(1729-97)の『崇高と美の観念の起源』(1757)及びバークの議論に影響を受けたドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)の『判断力批判』(1790)である。

バークは「崇高」と「美」という「しばしば混同されがちな」概念を心理学的な観点から峻別し、カントは「崇高」と「美」を明白に対立する概念として位置づけた。もっともバークやカントにおける18世紀の崇高の概念は自然を対象とするものであって、それが芸術を対象とするようになったのは20世紀になってからだが、特にバークの議論をニューマン論に接続するリオタールのやり方は、真悟さんの作品を考えるうえで大いに参考になる。

バークによれば「美」とは「小ささ」や「僅かさ」から生じるもので、それらは「繊細」から生まれる。この「繊細」は、その対象物の「構成部分が多様に変化すること」で保証され「これらの部分が互いに他と、いわば融合している」ということによって成立するという。このように「繊細な構造を有し、力強さの外見があらわでないこと」こそが「美」を生ぜしめる条件になっていくという。

一方バークは「崇高」の条件として次の三つを挙げている。それは「曖昧」がもたらす不安な印象であり、「欠如」であり、そして至上や壮麗を突き動かす「闇のような力」である。「曖昧」と「欠如」と「闇」。即ちバークの崇高とは「恐怖」を根底にしている。

このように書くと、真悟さんの作品は一見「美」そのもののように見える。しかし笹川さんも私も同じく「崇高な何か」を感じている。一体どこに美の対立概念である崇高、すなわち恐怖の要素があるというのであろうか。ここで参考になるのがリオタールによるニューマン論でのバークの援用である。リオタールによれば、確かにニューマンの絵画に恐怖を表彰するものはない。しかしそこで起きている端的な「出現」が、感覚能力を「喪失」することへの恐怖と不安を引き起こすがゆえに、ニューマンの絵画は崇高だという。リオタールによる崇高な経験とは、感覚能力を喪失した無感覚の状態に陥ることにほかならない。

このリオタールによるニューマン論は、そのまま真悟さんの絵画にあてはまるのではないかと私は考える。実際に真悟さんの作品を目の前にすると、まさに感覚が失われていくような、不思議な体験をする。まさにリオタールが言うところの崇高なものがそこにある。読者の皆さまには、是非彼の作品の前に実際に立って貰いたい。笹川さんと私が同様に受けた「崇高な何か」。スマホではわからない絵画の秘密が、きっとお分かりいただけると思う。

(注)上記に当たり星野太さんの論文『感性的なものの中間休止--ジャン=フランソワ・リオタールの崇高論における時間論的転回』及び著書『崇高の修辞学』(月曜社)を参照させて頂いた。星野さんによればバークやカントによって規定された崇高は「美学的崇高」で、リオタールやアメリカの美術史家ロバート・ローゼンブラムによる現代アート理論における崇高もこの延長にある。しかし、そもそも古代、(偽)ロンギノスの『崇高論』という著作において初めて示された「崇高」の概念は、広い意味での言語活動一般に関わったものであり、星野さんはこの元祖ともいえる崇高の系譜を「修辞学的崇高」と呼び、その系譜を探求したのが『崇高の修辞学』である。

Read 0%