水晶 (quartz) 尾平鉱山 蝙蝠坑 #0447

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水晶の柱状結晶の胴部~基部の周囲および内部に緑泥石(chlorite)の一種であるクーク石(cookeite)を含み、ファントムも見られる通称「まりも水晶」と呼ばれる標本です。

尾平鉱山は大分・宮崎の県境近く祖母山麓の奥岳川上流にあり、古生代のペルム紀付加体や結晶片岩、蛇紋岩などとそれを覆う中新世の火山岩類に中新世の花崗岩類が貫入して生成された気成スカルン鉱床で、古生層および各種火成岩中の錫鉱脈と鉛・亜鉛の接触交代鉱床からなります。1547年(天文16年)に銀が採掘されたという記録が残っていますが、公式には1617年(元和3年)に岡藩(中川氏)の直轄事業として蒸籠山(こしきやま)坑での錫の採掘が始まったのが開山とされています。岡藩は1635年(寛永​​​​​​13年)に江戸幕府の命により、城下町(古町)に銭座を設けて1636年(寛永13年)から1639年(寛永16年)の4年間にわたって「寛永通宝」を鋳造、尾平鉱山産出の錫が通貨の鋳造に使用されていました。江戸時代を代表する通貨である「寛永通宝」には尾平鉱山産の錫が使われていました。その後は明治、大正期に至るまで動力が水力以外に無いなど、採掘技術の進歩がなく産出量が低下しましたが、1935年(昭和10年)に上田鉱業から鉱山を譲り受けた三菱鉱業が三菱尾平鉱山として鉱山設備を近代化し、積極的な探鉱を行って三菱本・昭和等錫鉱の新鉱脈を発見し産出量が飛躍的に増加させ最盛期を迎えました。1941年(昭和16年)には金属錫390.84t、総出鉱量53,222tの年産量を記録しています。昭和10年代から20年代にかけて鉱山街には最大3,500人近い人口があったと云われ、長屋が立ち並び、小中学校、病院、飲食店、カフエ、映画館、ダンスホール、テニスコートなどを備えた市街が形成されていました。しかし1944年(昭和19年)の錫鉱業整備令で休山し、朝鮮戦争時の1950年(昭和25年)に再開しますが高品位の錫鉱脈を掘りつくし、出鉱量が激減、1954年(昭和29年)に閉山となりました。近代の尾平鉱山は三菱尾平鉱山以外にも複数存在しており、このうち蔵内金属鉱業が稼行した蔵内尾平鉱山は、1897年(明治30年)に薑谷(はじかみだに)一帯の借区権を入手して錫鉱採掘を始め、戦時中一時休山したものの1946年(昭和21年)に稼行を再開、1959年(昭和34年)に鉱脈枯渇により閉山するまで錫・鉛・亜鉛を採掘しました。

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