-
水晶 (quartz) 西米良村板谷 #0170
小ぶりですが透明度の高い水晶のクラスターです。(背景はソフトウエア処理しています。) 西米良(にしめら)村は九州山地の中に位置する面積の96%を森林が占める山村で、板谷川付近で高品質の水晶を産出したことで有名です。
酸化鉱物 ミニチュアサイズ 宮崎県児湯郡西米良村板谷石泉亭
-
玉髄 (chalcedony) 三菱綱取鉱山 #0717
銅鉱脈中に生成した淡く紅色を帯びた乳白色の玉髄で、一部に黄銅鉱を伴っています。玉髄は非常に細かい結晶質の石英が集まり、緻密に固まったものをいいます。裏側には南部秀喜氏による墨書きがあります。南部氏は1897年(明治30年)高知県に生まれ、1917年(大正6年)に高知工業学校採鉱冶金科を卒業し三菱生野鉱山に入社して以来、1970年(昭和45年)の退職まで54年の長きにわたり三菱鉱業系の鉱山に勤務された方です。この間に日本の代表的な鉱山で3,000点以上に及ぶ鉱物標本を収集、南部氏が1972年(昭和47年)に亡くなられた後に著名な鉱物標本店主である小室吉郎氏が引き継がれ、その中から選ばれた標本に小室氏自身のコレクションを加えたものが、現在は茨城県自然博物館に南部・小室コレクションとして収蔵されています。本標本は1950年(昭和25年)前後に南部氏が採集したものとのことです。(背景はソフトウエア処理しています。) 三菱綱取(つなとり)鉱山は北上市西部に位置した金銀銅山で主として銅を産出しました。発見は1884年(明治17年)頃とされていますが、付近は古くは平安時代に金売吉次の隠し金山と呼ばれた地域で、江戸時代の享保年間(1716年~1736年)に採鉱されていたとも伝えられています。1915年(大正4年)に三菱合資会社が買収、1918年(大正7年)以降は三菱鉱業傘下となり活況を呈し、鉱員は200人〜250人、戸数も160戸を超えましたが、1940年(昭和15年)に稼行を停止しました。 1928年(昭和3年)~1940年(昭和14年)の間に35,913tの銅精鉱を産出、金12g/t、銀30g/t、銅4%の品位であったとのことです。戦後1950年(昭和25年)に鉱業権が系列の荒川鉱業株式会社に譲渡され、沈殿銅(鉱水中に溶けた金属銅)の採取を行っていたようで、本標本はその頃に採集されたものということになります。
酸化鉱物 岩手県北上市和賀町横川目 キャビネットサイズ石泉亭
-
轟石 (todorokite) 池代鉱山 #0712
轟石は日本におけるマンガン鉱床・鉱石研究の第一人者であった地球科学者吉村豊文により1934年(昭和9年)に北海道の轟鉱山で発見された本邦初の新鉱物です。結晶水を含む二酸化マンガンを主成分としますが、カリウム、カルシウム、ナトリウム、バリウム、ストロンチウム、銀、鉛、コバルト、ニッケルといった様々な元素を含有しています。黒色繊維状(羽毛状)結晶が轟石です。轟石は日本近海の深海底で見つかるマンガン団塊(マンガンノジュール)の主成分でもあります。(背景はソフトウエア処理しています。) 池代(いけしろ)鉱山は、後期中新世 (およそ700万年前)の安山岩質凝灰岩が、低温強アルカリの熱水により交代した酸化マンガン鉱床で、1955年(昭和30年)に開坑されましたが、現在では閉山されています。
酸化鉱物 静岡県賀茂郡松崎町池代 スモールキャビネットサイズ石泉亭
-
水晶 (quartz) 宮田又鉱山 #0046
白く艶のある水晶の群晶です。 宮田又鉱山は、1722年(享保7年)に発見され、1737年(元文2年)に宮田銅山として稼行が開始されました。1800年代初頭の享和年間以降は鍋倉鉱山として久保田藩の直山となりましたが採掘結果は芳しくなく、以後長い間放置されました。明治以降も昭和初年に至るまで複数の鉱山主が経営を試みましたが断層が多く湧水が沸き易い地質であったため、その採掘は多くの困難を伴いました。1939年(昭和14年)に国策会社である帝国鉱業開発株式会社が買収、軍需の増加を背景に最新設備を導入し、近隣の荒川鉱山が1940年(昭和15年)に閉山したことに伴う人員の流入もあり、全盛期を迎えました。 1949年(昭和24年)、GHQの財閥解体指令により帝国鉱業開発が解体され新鉱山開発株式会社が宮田又鉱山を継承し、日本の復興と経済発展に貢献しつつ規模を拡大しましたが、1965年(昭和40年)に鉱脈枯渇により閉山となりました。
酸化鉱物 秋田県大仙市協和 ミニチュアサイズ石泉亭
-
紫水晶 (amethyst) 南牧村 #0709
小さな晶洞の中に淡い色の紫水晶が析出しています。他にも方解石が見られます。(1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 南牧村は「なんもくむら」と読みます。南牧村は「なんもくむら」と読みます。(長野県南佐久郡にある南牧村は「みなみまきむら」です。)
酸化鉱物 ミニチュアサイズ 群馬県甘楽郡南牧村石泉亭
-
水晶 (quartz) 水晶岳 #0681
透明度の高い両錐水晶です。 水晶岳(すいしょうだけ)は、富山市南東部に位置する標高2,986mの飛騨山脈(北アルプス)の山で、山上で水晶が採れることからこの名があります。また、山肌が黒いことから別名を黒岳といい、日本百名山に選定されています。
酸化鉱物 富山県富山市有峰 サムネイル石泉亭
-
錫石 (cassiterite) 大正鉱山 #0707
硬質の珪質砂岩に胚胎した石英脈の空隙に、錫石の自形結晶が晶出しています。(背景はソフトウエア処理しています。) 大正鉱山は高取鉱山の支山として荒川鉱業㈱が採掘していた鉱山で、錫石を採掘していましたが、1986年(昭和61年)に高取鉱山の休山に伴い閉山となりました。
酸化鉱物 茨城県東茨城郡城里町塩子 ミニチュアサイズ石泉亭
-
紫水晶 (amethyst) 中馬砕石 #0562A
こちらも#0156と同じくラベンダー色の紫水晶です。(背景はソフトウエア処理しています。) 本標本の産地である中馬砕石は#0156の産地である串木野鉱山にほど近い場所にあります。
酸化鉱物 鹿児島県いちき串木野市 スモールキャビネットサイズ石泉亭
-
紫水晶 (amethyst) 串木野鉱山 #0156
串木野鉱山産のラベンダー色の紫水晶です。紫水晶は、水晶を構成する二酸化ケイ素(SiO2)の一部が三価の鉄イオン(Fe3+)に置換され、更に鉄を取り囲む酸素の1つの電子が天然放射線によって損失し四価の鉄イオン[FeO4]4-となり、これにより形成された色中心(カラーセンター)が光のスペクトル中の黄色を吸収するためにその補色である紫色を示すとされています。鉱脈型の金鉱山では美しい紫水晶を産するところが少なくありません。 串木野鉱山は総産出量国内第4位(約56トン)の主要金鉱山で、狭義には西山坑(一坑)、芹ヶ野坑(二坑)からなり、北西に位置する荒川鉱山、羽島鉱山と併せた広義の串木野鉱山は東西12km,南北4kmの範囲に分布していました。鉱床は熱水で変質した輝石安山岩中に胚胎した浅熱水性含金銀石英-方解石脈で、銀に富んだ黒色の縞状部や斑点部を含む「銀黒鉱」と、白色粘土鉱物を伴う「おしろい鉱」を金銀鉱石として産出しました。串木野鉱山の歴史は17世紀半ばに遡るといわれますが、1906年(明治39年)に中小の採掘業者が保有していた鉱区を三井鉱山合名会社が買収・統合し、1914年(大正3年)に我が国最初の全泥青化製煉工場を建設する等、鉱山の近代化を進めました。1928年(昭和3年)に当時休山となっていた芹ヶ野金山の譲渡を受け、1934年(昭和9年)には芹場鉱山の再開発を開始、1939年(昭和14年)には、1日で1,300トンの鉱石を採掘し、年間1,397kgの金を産出しましたが、1943年(昭和18年)、金山整備令により操業を休止しました。戦後は1949年(昭和24年)に操業を再開、1950年(昭和25年)に三井鉱山から分離し神岡鉱業(後の三井金属鉱業)の傘下に入り、1964年(昭和39年)に三井串木野鉱山として独立、1965年(昭和40年)頃には出鉱量が年間15万トンに達しましたが、その後鉱石品質の低下により1989年(平成元年)には年間採掘量は1万トンに減少しました。1994年(平成6年)以降、串木野鉱山での採掘は行われず、1997年(平成9年)に金鉱山としての操業を終えました。この間、串木野鉱山では坑道を利用したテーマパークの開設(ゴールドパーク串木野、1988年開設、2003年閉鎖)、我国唯一の全泥青化製煉法を採用した貴金属精錬事業の継続、リサイクル事業展開等を行っています。
酸化鉱物 鹿児島県いちき串木野市 ミニチュアサイズ石泉亭
-
錫石 (cassiterite) 錫山鉱山 岩屋坑 #0613
銀白色の錫石が網状に含まれています。(1枚目~6枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 錫山鉱山は1655年(明暦元年)に島津家の家臣、八木主水佑元信によって発見され、1701年(元禄14年)に薩摩藩の経営となりました。1853年(嘉永6年)には山師山元三九郎が御手山湧上り鉱床を発見、藩主島津斉彬の命により翌1854年(嘉永7年)にかけて約14万8千斤(約89トン)もの錫を産出し「十万斤」(充満金)時代と呼ばれる好景気を迎え、鉱夫は遠く尾張(愛知県)や美濃(岐阜県)、伊予(愛媛県)などからも多数集められ、1854年(嘉永7年)頃には約300人が働いていたといわれ、薩摩藩の財政を支えました。維新後の1874年(明治7年)には錫山鉱山の鉱区権が鹿児島県から島津家へ移り、1886年(明治19年)に岩屋疎水坑掘削に着手、1898年(明治31年)に自稼制が廃止されて島津家の直営となり、稚児ヶ滝選鉱製錬所に着工、1905年(明治38年)頃に完成しました。 昭和に入ってからは協和鉱業が経営、1979(昭和54)年には産出量84.5トンと全国第2位の実績を誇りましたが、1986年(昭和61年)に中国のダンピング等により錫価格が暴落し、1988年(昭和63年)に開山後330年余にして閉山しました。錫山には藩の奉行所跡や、鉱山の神を祀った大山祇神社、錫を採掘した坑道跡など、当時の盛況を偲ばせる数多くの遺構が残っています。
酸化鉱物 鹿児島県鹿児島市下福元町岩屋 スモールキャビネットサイズ石泉亭
-
水晶 (quartz) 西米良村板谷 #0580
この地域に特有の、透明度の高い細身の水晶の群晶です。 西米良(にしめら)村は九州山地の中に位置する面積の96%を森林が占める山村で、板谷川付近で高品質の水晶を産出したことで有名です。
酸化鉱物 スモールキャビネットサイズ 宮崎県児湯郡西米良村板谷石泉亭
-
錫石 (cassiterite) 見立鉱山 #0578
石英質の母岩中に細かな錫石の結晶が濃集している部分があります。(1~5枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 見立鉱山は宮崎県北西部の日之影町(ひのかげちょう)にあった錫鉱山です。1631年(寛永8年)に発見され、本格的に採掘されるようになった元禄元年 (1688) 当時は鉱山夫をはじめ家族や行商人など多くの人々で賑わたといわれ、女郎屋鋪(じょろうやしき)などの地名も残っています。宝暦年間(1751年~1763年)には錫2,000斤(約1.2t) を生産したとの記録があります。1921年(大正10年)に鉱山は旧延岡藩主内藤家からイギリス系資本家(E.ハンター)の手に渡り、設備が近代化され錫のほか鉛、亜鉛、タングステンなどの鉱物を産出しました。全盛期を迎えた1931年(昭和6年)には錫精鉱556tを生産し、鉱山従業員世帯340戸、従業員465人、人口1,232名に達し、山峡には鉱山住宅と選鉱住宅、鉱山事務所、集会所、物品販売所、診療所、外国人技師と鉱山主であったハンターのための宿舎兼クラブハウスなども建設されました。しかし、国際情勢の悪化により英国資本による維持が難しくなり、1940年(昭和15年)以降ラサ工業傘下の東洋鉱山により採掘が続けられましたが、1945年(昭和20年)終戦とともに休山しました。戦後1949年(昭和24年)に旧鉱滓(選鉱スライム)からの錫回収に着目し1951年(昭和26年)から選鉱所の復旧に着手、1954年(昭和29年)から本格的な操業が再開されましたが、鉱床の品質低下と旧鉱滓の減少により、1969年(昭和44)に閉山しました。
酸化鉱物 宮崎県西臼杵郡日之影町 ミニチュアサイズ石泉亭
-
水晶 (quartz) オシガハエ #0349A/B
オシガハエ産の比較的透明度の高い水晶2点です。 宮崎県北西部にある日之影町の仲町地区にあるオシガハエ(押八重、押ヶ八重、尾小八重)は、 大崩山(おおくえやま、標高1,644m)周辺にある水晶産地の一つです。大崩山はカルデラ火山の地下部分が地表に露出したもので、ペグマタイトの岩脈や岩床が発達しており, 水晶の自形結晶はこれらの晶洞を中心に産出します。
酸化鉱物 宮崎県西臼杵郡日之影町見立押ヶ八重 ミニチュアサイズ石泉亭
-
水晶 (quartz) 尾平鉱山 晶洞坑 #0706
尾平鉱山では、断面に桜の花のような模様が観察される水晶(桜水晶)が晶洞坑をはじめとして幾つかの鉱坑から見つかっています。白濁した基部と透明な結晶端部を持つ細かな水晶が多方向に折り重なって群晶を形成しています。(背景はソフトウエア処理しています。) 尾平鉱山は大分・宮崎の県境近く祖母山麓の奥岳川上流にあり、古生代のペルム紀付加体や結晶片岩、蛇紋岩などとそれを覆う中新世の火山岩類に中新世の花崗岩類が貫入して生成された気成スカルン鉱床で、古生層および各種火成岩中の錫鉱脈と鉛・亜鉛の接触交代鉱床からなります。1547年(天文16年)に銀が採掘されたという記録が残っていますが、公式には1617年(元和3年)に岡藩(中川氏)の直轄事業として蒸籠山(こしきやま)坑での錫の採掘が始まったのが開山とされています。岡藩は1635年(寛永13年)に江戸幕府の命により、城下町(古町)に銭座を設けて1636年(寛永13年)から1639年(寛永16年)の4年間にわたって「寛永通宝」を鋳造、尾平鉱山産出の錫が通貨の鋳造に使用されていました。江戸時代を代表する通貨である「寛永通宝」には尾平鉱山産の錫が使われていました。その後は明治、大正期に至るまで動力が水力以外に無いなど、採掘技術の進歩がなく産出量が低下しましたが、1935年(昭和10年)に上田鉱業から鉱山を譲り受けた三菱鉱業が三菱尾平鉱山として鉱山設備を近代化し、積極的な探鉱を行って三菱本・昭和等錫鉱の新鉱脈を発見し産出量が飛躍的に増加させ最盛期を迎えました。1941年(昭和16年)には金属錫390.84t、総出鉱量53,222tの年産量を記録しています。昭和10年代から20年代にかけて鉱山街には最大3,500人近い人口があったと云われ、長屋が立ち並び、小中学校、病院、飲食店、カフエ、映画館、ダンスホール、テニスコートなどを備えた市街が形成されていました。しかし1944年(昭和19年)の錫鉱業整備令で休山し、朝鮮戦争時の1950年(昭和25年)に再開しますが高品位の錫鉱脈を掘りつくし、出鉱量が激減、1954年(昭和29年)に閉山となりました。近代の尾平鉱山は三菱尾平鉱山以外にも複数存在しており、このうち蔵内金属鉱業が稼行した蔵内尾平鉱山は、1897年(明治30年)に薑谷(はじかみだに)一帯の借区権を入手して錫鉱採掘を始め、戦時中一時休山したものの1946年(昭和21年)に稼行を再開、1959年(昭和34年)に鉱脈枯渇により閉山するまで錫・鉛・亜鉛を採掘しました。
酸化鉱物 大分県豊後大野市緒方町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
-
水晶 (quartz) 尾平鉱山 蝙蝠坑 #0447
水晶の柱状結晶の胴部~基部の周囲および内部に緑泥石(chlorite)の一種であるクーク石(cookeite)を含み、ファントムも見られる通称「まりも水晶」と呼ばれる標本です。 尾平鉱山は大分・宮崎の県境近く祖母山麓の奥岳川上流にあり、古生代のペルム紀付加体や結晶片岩、蛇紋岩などとそれを覆う中新世の火山岩類に中新世の花崗岩類が貫入して生成された気成スカルン鉱床で、古生層および各種火成岩中の錫鉱脈と鉛・亜鉛の接触交代鉱床からなります。1547年(天文16年)に銀が採掘されたという記録が残っていますが、公式には1617年(元和3年)に岡藩(中川氏)の直轄事業として蒸籠山(こしきやま)坑での錫の採掘が始まったのが開山とされています。岡藩は1635年(寛永13年)に江戸幕府の命により、城下町(古町)に銭座を設けて1636年(寛永13年)から1639年(寛永16年)の4年間にわたって「寛永通宝」を鋳造、尾平鉱山産出の錫が通貨の鋳造に使用されていました。江戸時代を代表する通貨である「寛永通宝」には尾平鉱山産の錫が使われていました。その後は明治、大正期に至るまで動力が水力以外に無いなど、採掘技術の進歩がなく産出量が低下しましたが、1935年(昭和10年)に上田鉱業から鉱山を譲り受けた三菱鉱業が三菱尾平鉱山として鉱山設備を近代化し、積極的な探鉱を行って三菱本・昭和等錫鉱の新鉱脈を発見し産出量が飛躍的に増加させ最盛期を迎えました。1941年(昭和16年)には金属錫390.84t、総出鉱量53,222tの年産量を記録しています。昭和10年代から20年代にかけて鉱山街には最大3,500人近い人口があったと云われ、長屋が立ち並び、小中学校、病院、飲食店、カフエ、映画館、ダンスホール、テニスコートなどを備えた市街が形成されていました。しかし1944年(昭和19年)の錫鉱業整備令で休山し、朝鮮戦争時の1950年(昭和25年)に再開しますが高品位の錫鉱脈を掘りつくし、出鉱量が激減、1954年(昭和29年)に閉山となりました。近代の尾平鉱山は三菱尾平鉱山以外にも複数存在しており、このうち蔵内金属鉱業が稼行した蔵内尾平鉱山は、1897年(明治30年)に薑谷(はじかみだに)一帯の借区権を入手して錫鉱採掘を始め、戦時中一時休山したものの1946年(昭和21年)に稼行を再開、1959年(昭和34年)に鉱脈枯渇により閉山するまで錫・鉛・亜鉛を採掘しました。
酸化鉱物 大分県豊後大野市緒方町 スモールキャビネットサイズ石泉亭