Shimomotoyama3
今まで収集した考古資料・化石・鉱物標本等を紹介していきたいと思います。
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今まで収集した考古資料・化石・鉱物標本等を紹介していきたいと思います。
旧石器時代の始まりは、人類が石器を使い出した頃にある。
現生のチンパンジーですら簡易な石道具を使用するので、その起源は相当古いであろう。
少なくとも起源が300万年前以上に遡るこの時代区分は、最終氷期末葉のヤンガードリアス(16,000年前ごろ)まで続く。
旧石器時代の対比として、新石器時代という区分があるが、その違いは磨製石器使用の有無だという。
しかし、旧石器時代においても局部磨製石斧の使用が判明しており、その定義も今後揺らいでいくかもしれない。
ところで、現生人類は旧石器時代において、猿人→原人→旧人→新人という順に進化を遂げたとされていたが、最近では互いに混血していた事が判明している。
特に出アフリカを遂げた現生人類は、旧人段階にあったネアンデルタール人と混血していたことが、最新のバイオインフォマティクス技術によって判明している。
更に現代の東アジア人は、ネアンデルタール人との混血率の割合が高いとのこと。
ネアンデルタール人の主要な分布地は、ヨーロッパから西アジアにかけてなので、現生人類におけるその歪な地域差も興味深い所だ。
6万年前に出アフリカをした現生人類は、ネアンデルタール人などと混血しつつ4〜5万年前までにはユーラシア大陸全域とオセアニア地域に行き渡り、2万年前までには南北アメリカ大陸まで進出していた事が分かっている。
日本においては、確実な旧石器時代の遺物は4万年前に遡るという。(一応、前期旧石器に属すのではないかというものが大分県で出土しているようだが…。)
一方で、縄文人の祖先の大部分は大体1〜2万年前頃に流入したものではないかと推定されている。
縄文人と血統的に繋がらない旧石器人も、数多く日本に流入していたようだ。
日本において最終氷期の終焉とともに到来した縄文時代は、海外の考古学では新石器時代に分類される。
しかし、海外の新石器時代が農耕や文明を伴う比較的大規模なものになる事に対して、
縄文時代は細々とした狩猟採集生活に特化している点が特徴である。
最終氷期の終焉と共に、土器の使用が始まるのも縄文時代の特色である。
土器自体は中国南部で最も古いものが出ているが、いわゆる縄文土器の用途は出現初期の土器のもの(動物性油の抽出)と異なり、主にドングリ類の煮炊きに使われている。
これは大型獣の狩猟一辺倒であった旧石器時代と全く異なる様相を呈しており、最終氷期の終焉で日本列島が大陸と切り離され、列島の気候・植生が大きく変わった事が強く影響している。
島嶼化によって大型獣は滅び狩猟対象は小型化、石器が小型になり、さらにそれだけでは生活できないので植物の利用が進んだ。
縄文土器は出現期には模様が簡素であったのだが、草創期から早期の南九州や、前期以降の東日本で芸術性の高いものが作られるようになる。
土偶や石棒といった呪術的なプリミティブアートも作られるようになる。
土偶や人型製品の起源は西日本なのだが、著しい発展を見せるのはやはり東日本である。
縄文文化は、最も温暖であった縄文中期(約6000年前)に最盛期を迎えるも、その後は寒冷化によって衰退の一途を辿る。
中期に36万人いた人口が、晩期(約3000年前)には8万人に減ってしまった。
縄文時代後半期の慢性的な食糧不足は稲作受容の土壌を作り、のちに弥生時代に突入するのである。
縄文人は特徴的な人々であった。
身長が低くがっちりとした豆タンク体型に寸詰まりの頭というユニークな人相をしており、メラネシア人などと共通する簡素な構造の歯を持ち、比較的彫りの深い顔をしていた。
最新の遺伝分析によって、縄文人は現在のアンダマン諸島に分布している狩猟採集民と系統的に近縁である事や、狩猟採集生活に適応した結果、体質的に太りやすくなった事も判明している。
そして沖縄人や北海道のアイヌが縄文人の影響を強く受けているとされ、実際骨格的にも縄文人にそっくりである。
逆に近畿や四国では縄文人の遺伝子が希薄である事も判明した。
縄文時代晩期の最終末に突入した頃、西日本の環日本海地域の縄文遺跡から、次々と稲作の痕跡が発見されるようになる。
島根県で出土した2800年前の稲籾圧痕が、現段階においては我が国最古の稲作の痕跡となる。
ところで、栽培用の稲には水稲と陸稲があり、いずれも弥生時代に日本にもたらされたものとなる。
これは、中国東北部の遼東半島周辺で夏家店下層文化を形成していた人々が、中国長江流域から齎された水稲稲作技術を携えて紀元前1000年頃に朝鮮半島を南下、
朝鮮南部に分布していた雑穀農耕民や縄文人と混血しつつ、紀元前500年前後の日本列島に進出を始めた際に齎されたものによると現代の考古学では考えられている。
初期の水田は、北部九州の玄界灘沿岸部で実験的に作られた。
従来の考古学では、弥生早期の初期水田を形成していた人は縄文人が主体で、弥生前期以降にそれを渡来人集団が徐々に置換していったものと考えられていたのだが、
最新のゲノム解析や古人骨計測の見直しの結果、北部九州の弥生中〜後期の「渡来系弥生人」と呼称されていた古代人集団は、実際には縄文人とかなり混血していた事が判明した。
従って、弥生文化はいわば大陸と縄文のキメラであり、両者の明瞭な区別は非常に難しい。
例えば、弥生時代中期の北部九州で見られる翡翠製勾玉は、いずれも縄文時代の翡翠製大珠を再利用していたことが判明している。
また、弥生土器自体も純粋な大陸の製法では作られていない。
一方で、列島内における弥生文化の伝播スピードは非常に早いものであった。
弥生前期には、北部九州から2000km以上離れた本州最北端の津軽半島で、既に技術的に高度な水田が作られていた。
当地では亀ヶ岡文化の後継と考えられる土偶祭祀も継続しており、やはり両者の融合があったことが想定される。
高度な水田技術が必要な水稲の伝播ですらその速さなのだから、陸稲の伝播はもっと早い。
縄文晩期末には中部高地に到達しており、縄文〜弥生時代には、現代人の想定よりも遥かに密な地域間ネットワークが形成されていたのである。
弥生時代は金属器の時代でもあった。
青銅や鉄、果ては金などいずれも主に弥生時代に齎されている。(なお、日本最古の青銅器は縄文後期の山形県で出土しており、渡来人はもっと古い時期からいた可能性が高い。)
中国や朝鮮製の舶載鏡を使った青銅器祭祀は北部九州・近畿地方で発達し、鋳造技術も発達し独自の倭鏡を製作するに至る。
しかし、弥生時代における青銅器や鉄器は実用品というよりも威信材と用いられるに留まり、まだ不完全なものであった事は否めないだろう。
弥生後期にはかなりの技術水準に到達していたと言えるものの、製鉄も含め金属器時代の本格的な到来は古墳時代まで待つ必要がある。