-
別子銅山 鉱石運搬曳船/愛媛県新居浜市 PC003-04
「別子銅山 鉱石運搬曳船」と記されています。 江戸時代には別子銅山の鉱石は別子山中で製錬され、産銅は基本的に人力で搬出されていましたが、1888年(明治21年)からは惣開精錬所が本格的に操業するようになり、1893年(明治26年)には住友別子鉱山鉄道の下部鉄道、上部鉄道が相次いで開通し鉱石輸送量は飛躍的に増大しました。この年以降亜硫酸ガスによる煙害が悪化し水稲が大きな被害を受けるようになり、当時別子銅山の支配人であった伊庭貞剛は新居浜市北方沖合20kmの四つの無人島からなる四阪島(しさかじま)に精錬所を移転することを決意、1895年(明治28年)には四阪島を買収し、1905年(明治38年)に新精錬所の操業を開始しました。この絵葉書は鉱石運搬のため新居浜と四阪島の間を往復していた曳船を写したもので、タグボートが何艘もの帆船を連ねて曳航しています。なお、精錬所の移転によっても煙害問題は解消せず、むしろ煙害が東予地方ほぼ全域に拡がる結果となってしまい、住友はその後も損害賠償、精錬所の操業制限、脱硫のための技術改良、排煙拡散のための6本の煙突の建築等、苦闘を重ねることになりました。最終的に煙害が解消されたのはペテルゼン式と呼ばれる硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方式による硫酸工場の設置を経て、残存する希薄な亜硫酸ガスをアンモニア水で中和する中和工場が完成した1939年(昭和14年)のことでした。 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭
-
別子銅山 東平黒石間索道/愛媛県新居浜市 PC003-03
この絵葉書は「別子銅山 東平黒石間索道」と題されています。 索道は空中に張りわたしたワイヤロープにバケットと呼ばれる搬器を吊るして建設工事資材などを運搬する設備のことで、東平(とうなる)と黒石を結ぶ全長3,575メートルの複式索道はドイツ人の索道技師ブライヘルトの指導により1905年(明治38年)に完成しました。東平は標高750m前後に位置し、大正5年(1916)から昭和5(1930)まで別子銅山の採鉱本部が置かれた地域です。貯鉱庫等の鉱山関連施設や生活に必要な施設が整備され、最盛期には5,000人余りの銅山関係者とその家族が住んでいました。黒石は索道の完成に合わせて住友別子鉱山鉄道の下部鉄道(惣開(そうびらき)~端出場(はでば)間10.3km)に新設された駅で、端出場から約1km下った場所にありました。搬器(バケット)1基は約600kgの鉱石を積むことができ、573メートルの高低差により、自重を利用して秒速およそ2.5メートルで自動運転され、途中3か所の中継所で押し出し作業による中継ぎがされていました。この索道と下部鉄道により、鉱山内の中心地東平から惣開に至る輸送ルートが確保され、鉱石のみならず、木材や生活用品も輸送されました。 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭
-
別子銅山 電気製銅所内部/愛媛県新居浜市 PC003-02
この絵葉書には「別子銅山 電気製銅所内部」とあります。 1919年(大正8年)まで別子では反射炉による銅精錬が行われていました。1889年(明治21年)から電気精錬の技術導入を行い、1906年(明治39年)には日光電気精銅所を操業させていた足尾銅山に比べて別子銅山の精銅生産技術は遅れており、別子産のK.S.銅(住友家家長住友吉左衞門の頭文字を採って製品名としていた)は電導率が低かったため電線や電機部品に使用できず、銅管、真鍮など構造材に用途が限定されていました。しかし1919年(大正8年)に新居浜電錬工場が完成、以降純度の高い電気銅の生産が可能となり、住友電線製造所への安定した原料供給が可能になりました。1925年(大正14年)には旧来の反射炉製錬が全廃されています。この絵葉書には多数の電解槽と、「アノード」と呼ばれる粗銅で鋳造された大きな陽極版を、クレーンを使って電解槽に装入する作業の様子が写っています。(この項は「愛媛県生涯学習センター」のWebサイト記事を参考にさせていただきました。) 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭
-
別子銅山 惣開全景/愛媛県新居浜市 PC003-01
この絵葉書には「別子銅山 惣開全景」とあります。江戸時代の嘉永年間(1848~1854)に別子銅山支配人であった清水総右衛門が約4.7haの新田を開発、総右衛門新開と命名された土地が、後に略されて「総開(そうびらき)」と呼ばれました。「惣開」はその後郵便表記として用いられるようになった地名です。1888年(明治21年)に精錬所が本格操業を始めてから惣開には別子銅山に関連した様々な施設が作られるようになりました。1893年(明治26年)には惣開を起点とする住友別子鉱山鉄道が開通、別子銅山の鉱石輸送の窓口になり、その後1899年(明治32年)の豪雨による別子大水害をきっかけに別子鉱業所本部および、採鉱課を除く鉱山の全施設が移転、これに伴い銀行や病院等の施設も建設され、現在の新居浜市の発展の基礎を形成しました。 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭