赤鉄鉱 (hematite) 赤谷鉱山 #0668

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こちらの標本は同じ赤谷鉱山の赤鉄鉱でも少しタイプが異なり、赤鉄鉱の粒子を含む変成石灰岩の母岩上を鱗片状の赤鉄鉱(雲母鉄鉱)が覆っています。(1~4枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

赤谷(あかだに)鉱山は江戸時代後期の天明年間に開発が開始され、明治中期までは銅鉱が採掘されていました。 1890年代に入り鉄鉱の開発が始まり、1899 年(明治 32 年)に官営八幡製鉄所が当時鉱区を所有していた三菱合資会社から赤谷鉱山を買収、1902年(明治34年)に鉱床開鑿に着手しましたが、八幡製鉄所の原料鉄を中国大陸(清・大冶鉄山)から輸入するよう方針が転換され、1904年(明治36年)に工事は中止となり、八幡製鉄所による赤谷鉱山開発は3年あまりで終わりました。 大正時代に入り赤谷鉄山の再開発が計画されましたが、第一次世界大戦終結後の不況により開発は再度中止されました。満州事変勃発後の1932年(昭和7年)頃から赤谷地区の鉱山開発が活発化し、赤谷鉱山は1934年(昭和9年)2月に設立された日本製鉄へ引き継がれ、1937年(昭和12年)に始まった日華事変により内地の地下資源開発が急務とされていたこともあり、1938 年(昭和 13 年)から第三次開発が行われ、翌年1939年(昭和14年)には日鉄鉱業が事業を引き継ぎ、 1941 年(昭和 16 年)に本格操業が開始されました。 1942年(昭和17年)からは朝鮮人、中国人労働者の強制徴用により増産体制を整え、1942年度(昭和17年度)から1943年度(昭和18年度)には年間10万トンの生産を達成しました。終戦後は生産量が激減しましたが、冬季の鉱石輸送に関する対策工事を施して通年操業に移行、年間 約3 万トンに減退した生産量を倍増させ、更に 1960 年(昭和 35 年)から銅鉱の生産も開始しましたが、その後鉱量の減少や金属価格の低迷を受けて経営は難航、1977(昭和52)年に閉山しました。

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