CARL ZEISS JENA DDR TESSAR F2.8/50mm

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CARL ZEISS JENA DDR TESSAR F2.8/50mm

『CARL ZEISS』・・・『LEICA』と並ぶドイツレンズの双璧!と言うよりも世界中でも憧れのレンズとして君臨しています。
これ等ドイツレンズは、優秀ではあるにですが、その人気ゆえに、中古品であっても高価な為に、簡単に手に入るレンズとは言えません。
その中では、上手く買うと1万円半ば以下で高美優することが出来る『「TESSAR」は憧れを現実にしてくれるレンズとして、高い人気を誇っています。

そのレンズが、この「鷹の目テッサー」と言う異名を持つ大変有名なオールドレンズ、『CARL ZEISS JENA DDR TESSAR F2.8/50mm』です。

その名に恥じないシャープな写りは今も確かな存在感を放っていて、 フイルムカメラは勿論の事、アダプターを介してデジタルカメラで、オールドレンズの実力を存分に楽しませてくれます。
オートフォーカスは使えませんし、露出もマニュアルが基本、最新のデジタルカメラに馴れてしまった者にとっては、便利なカメラとは正反対の扱いにくいレンズですが、使っているうちにきっとこのレンズ(大きく言えばすべてのオールドレンズ)の虜になること間違いなしです。自身でピントを合わせ、撮った写真は個性豊かに、味わい深くそこにある空気感を映し込んで、デジタルカメラでは得られない世界を見せてくれます。

これこそが写真を写すという事、写真の醍醐味だと気づかされる。このテッサー、さらにオールドレンズたちの魅力なのでしょう。

「Planar(プラナー)」や「Sonnar(ゾナー)」と共に、カール・ツァイスを代表する銘レンズとして名を馳せる「Tessar(テッサー)」。
100年以上の長い歴史の中、様々なモデルが登場していますが、入手性の高さや、M42マウントによる高い互換性から人気を集めているのが、Carl Zeiss Jena Tessar 50mmF2.8と言う事になります。

第二次世界大戦後、ドイツが東西に分裂した際に、東ドイツ側のツァイスはCarl Zeiss Jena (カール・ツァイス・イエナ) を名乗るようになりました。
そもそも、イエナはカール・ツァイスの創業地。

イエナは東ドイツに属する位置にあったため、カール・ツァイスも東西2つに分裂することになってしまったのでした。
とはいえ、1950年代までは東側カール・ツァイスと西側カール・ツァイスは盛んに交流していたといわれています。

余談ですが、ライカの本拠地ヴェッツラーはドイツ国内でも比較的西寄りにあったため、第二次世界大戦後も西ドイツに属することになりました。

東西に分裂したとはいえ、1960年くらいまでのCarl Zeiss Jena (カール・ツァイス・イエナ) は一眼レフ用レンズをリードする存在で、レンズ自体の素性はよく写りもなかなかのものです。

参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=WsB_niKvnvM
https://www.youtube.com/watch?v=SwKlShjxQkk

【Carl Zeiss Jena Tessar  50mm F2.8 の概要】
メーカー : Carl Zeiss Jena (カール・ツァイス・イエナ)
マウント : M42マウント
構成 : 3群4枚
生産国: 旧東ドイツ

参考資料―Tessarの歴史

【誕生から戦前期まで】
Tessar(以下 テッサー)は1902年、カール・ツァイスのパウル・ルドルフ(Paul Rudolph)博士によって考案されました。博士は、1890年にツァイス・アナスチグマット(後にプロター(Protar)と改名)を、1899年にはウナー(Unar)を製作していましたが、これらの製品に満足することなく、更なる改良を目指していました。

そして、ウナーの前群とアナスチグマットの後群を組み合わせることで、それぞれの光学的利点を活かす事が出来ると考え、劇的な成功を収めたレンズの開発に成功しました。このような経緯で誕生したレンズが“テッサー”です。
[出典:flickr(@Ur Cameras)]

当初、テッサーはf/6.3のレンズでしたが、1917年にf/4.5、1930年にはf/2.8の明るさまで改良が行われました。テッサーの成功は、他のメーカーにも多大なる影響を与え、テッサーの特許が切れる1920年以降には、ツァイス以外のメーカーからも、数々の「テッサー型」のレンズが登場しています。有名なテッサー型のレンズとして

ライツ エルマー(登場時は絞り位置はテッサーより前方)
フォクトレンダー スコパー(後にテッサー型以外にもスコパー銘を採用)

等が挙げられるでしょう。これ以外にも、3群4枚で後群張り合わせというテッサー型の特長的なレンズ構成から見ると、国内メーカー初期のレンズラインナップにも多くの採用例が見られます。

ツァイス自身もテッサーの完成度にはかなりの自信があったとみられ、有名な「鷲の眼レンズ」のキャッチコピーや、ツァイスの意匠にもテッサーの後群をモチーフとしたデザインを採用していました。

ブリティシュジャーナル年鑑(1937)
[出典:flickr(@ Nesster)][

【ツァイスの戦後分断以降】
ドイツの敗戦をもって、カール・ツァイスも分断され、西側諸国では、西側がカール・ツァイスを、東側がカール・ツァイス・イェーナを名乗る事となります。

これ以降のテッサーに関し、東西陣営のスタンスには面白い変化が見られます。
西側のカール・ツァイスは、一眼レフカメラ用交換レンズとしてテッサーを積極的にラインナップする機会は減少させ、それに反してコンパクトカメラや携帯電話の撮影用レンズ等、小型で他品目に応用できるレンズとしてテッサーを採用する機会が増加しました。

一方、東側のカール・ツァイス・イェーナは一眼レフカメラ用交換レンズのラインナップにテッサーを継続させ、以後に登場したパンカラー(Pancolar)と併売される体制が続きました。

これにはパンカラーとの開放F値の違いという点は無視できませんが、興味深い事に、パンカラーにマルチコーティングが施されるようになっても、テッサーはモノコーティングのまま発売が継続されました。製造コスト的な側面も有ったかも知れませんが、カール・ツァイス・イェーナはテッサーの性能の高さから、マルチコーティング化を見送ったとも思われます。


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