中島
中島治康(なかじま はるやす)は、野球殿堂入りを果たしたプロ野球選手です。
中島は、松本商業高校、早稲田大学を経て東京巨人軍で活躍しました。昭和13年春秋のリーグ戦で、打率3割5分3厘、本塁打11本、打点63という成績を残し、プロ野球史上初の三冠王を獲得しました。また、1943年途中から兼任監督を務め、同年の優勝にも導いています。
類い希なパワーと悪球打ちでボール打ちの名人として知られる。これは、次の投球を打つと決めたらどんな悪球でも絶対に変更せずに必ず打ったためで、学校の授業の時間割りのようによほどのことがない限り変更しないことに因んで、「時間割り」というあだ名もあったという[17]。得意にしていたセネタースの金子裕に対しては、ワンバウンド投球を後楽園球場右翼席に打ち込んで本塁打したという伝説がある[18]。ホームランバッターながら三振が少なく、加えて打ち気が強く四球を選ぶことを好まなかったため四球も少なかった[19]。
打撃フォームはいわゆるバケツに片足を突っ込むと言われる極端なアウトステップであったが、膝と腰を初め身体に非常に柔軟性があったことから肩が残って体が開かず、あらゆるコースの投球を自在に広角に打ち分けた[20]。カーブ打ちにも優れ、川上哲治は入団してから1年間中島の打撃を観察して学びカーブに自信を付けて首位打者を獲得するなど、カーブ打ちの生きた教科書とも呼ばれた[19]。
守っては、打者が打てそうもないとみるや思い切った前進守備を取り、その強肩でしばしば右翼手前に飛んだ打球をライトゴロにした。特に、1941年にはシーズン5度(二塁送球3・一塁送球2)のライトゴロを完成させるなど、通算20個のライトゴロを成立させている[21]。また、100メートルを11.2秒程で走る俊足を飛ばして右翼線際の飛球をよく好捕した一方で、右中間の打球に対しては判断が極端に早くて、自分が捕れないとみると絶対に捕球に走らず、「おーい、呉いけ!ゴーゴー」と全て当時の中堅手・呉波に任せた。これには呉も閉口し「班長は、みんな俺に捕らせる」とこぼしていたという[22]。
のちに、巨人の主力打者となる川上哲治・青田昇の素質を見いだしたとして、以下の話がある。
1938年シーズン途中で、一塁手のレギュラーだった永沢富士雄が負傷した。代わりがおらず監督の藤本定義が弱っていると、中島はバッティングが優れている事を理由に当時投手であった川上を使うよう進言する。こうして急遽一塁手として出場した川上はいきなり3安打を打つと、秋季シーズンからは永沢に替わってレギュラー一塁手となった[23]。
1941年秋に藤本定義と水原茂・中島の3人が、中等野球界随一の剛速球を誇る別所昭を見るために、別所を擁する滝川中学が出場した明治神宮中等野球大会を観戦した。その際に中島は中堅を守っていた青田に目を付け、滝川中監督の前川八郎に青田が卒業したら巨人に入団させるよう約束した。翌1942年に戦況の悪化のため夏の甲子園大会が中止になると、青田は中島の約束を頼りに巨人に連絡して中学を中退し、7月1日付で巨人へ入団した[24]。
声が大きく藤本定義監督から号令係を命じられたことで生まれた班長のニックネームで慕われた[18]。投手が少しでも変な球を投げると、右翼の守備位置から「どこに投げとるんだぁ、しゃんとせい!」「ストライクを放るんだぁ」と大声で怒鳴り、エースのスタルヒンに対しても四球でも出そうものなら「こら、スタ公、真ん中へ投げんか!」と同様であった[25]。一方で、投手が好調な時は「いいぞいいぞ、その調子!」と激励し続けるなど、試合開始から終了まで大声で喋りっぱなしであった[26]。また、グラウンドでは一切笑顔を見せない独特の風格に人気があった。