手塚

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手塚明治(巨人)

松本商業学校から明治大学を経て、社会人野球の中央工業、今泉産業、小口工作所でプレーする。

1949年読売ジャイアンツに入団。1年目から正三塁手の座を山川喜作と争って80試合に出場。1950年になると山川が遊撃手にコンバートされたため、手塚が三塁手のレギュラーとなりクリーンアップを打って、117試合に出場、64打点を記録した[1]。しかし、同年10月以降肩の故障が癒えた宇野光雄にレギュラーを奪われ、以降は徐々に出場機会を減らした。

1954年宇野が国鉄スワローズに移籍したため再び三塁のレギュラーを獲得し110試合に出場する。この年の最終戦である10月25日の対阪神タイガース戦では川上哲治に代わって四番・一塁手を務めた。

1955年に楠拡応とともに大洋ホエールズに移籍し、ここでも三塁手の定位置を確保し自己最多となる123試合に出場した。しかし、1956年になると打撃不振で6月半ば以降中村敏行にレギュラーを奪われしまい、同年限りで現役を引退した。

97歳の誕生日の前日である、2018年10月9日19時38分、老衰のために死去した[2]。96歳没。

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