金鉱石 (gold ore) 山ヶ野鉱山 #0643

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鹿児島県の金山の中でも古い歴史を持つ山ヶ野金山の鉱石標本です。(背景はソフトウエア処理しています。)

山ヶ野(やまがの)金山は含金石英脈型鉱床で、薩摩藩第2代藩主島津光久の指示を受けた宮之城領主・島津久通により1640年(寛永17年)に発見され、永野金山あるいは長野金山とも呼ばれました。1751年(宝暦元年)~1829年(文政12年)の間は佐渡金山をしのぐ日本最大の産金量を誇り、最盛期には約2万人が働き、金山周辺には大規模な鉱山町が形成されたといいます。江戸時代は人力による採掘や運搬が行われていましたが、幕末に島津斉彬が西欧の鉱山技術の導入を始め、1867年(慶応3年)、薩摩藩はフランス人技師のコワニエを招き、その助言に従って水銀アマルガム法、水力や蒸気機関が導入され、1877年(明治10年)には同じくフランス人技師のポール・オジェが招かれ竪坑の掘削や輸送用道路の整備などが進められました。1904年(明治37年)から1912年(明治45年)にかけて鉱山館長を務めた五代龍作は、シアン化カリウムを用いる青化法を導入し金の回収率向上を図り、設備の電化を行うことで採掘・精錬能力を向上させ、1907年(明治40年)には電力供給のため下流の天降川に水天淵発電所が建設しました。また、精錬所を山ヶ野から永野(旧長野)へ移転させ輸送の効率化も行われ、永野精錬所と名付けられた新精錬所は最盛期には1,000名以上の従業員を抱え、当時鹿児島県内有数の大企業でした。1943年(昭和18年)金鉱山整備令により休山、1950年(昭和25年)に再開されましたが新たな鉱脈は見つからず、1953年(昭和28年)に再び休山状態になりました。1957年(昭和32年)に試掘が行われたものの再開に至らず、1965年(昭和40年)に閉山となりました。山ヶ野金山の金総産出量は28.4トンで、日本国内第7位とされています。

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