金銀鉱石 (gold-silver ore) 佐渡金山 #0171

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本標本は昭和40年代に佐渡・相川海岸で採集された高品位の金銀鉱石礫です。白色石英質の母岩中に粗粒の輝銀鉱が濃集した銀黒が発達しています。標本上部の自然破断面(2~3枚目)の赤矢印の先には直径約1.5mmの自然金(エレクトラム)が観察できます。切断面の赤矢印先(4~5枚目)にも数粒の肉眼サイズの自然金(エレクトラム)を目視できます。6枚目の青矢印先には輝銀鉱粒数粒が、7~8枚目の緑矢印先には、直径最大2mmに達する粗粒輝銀鉱が密集しているのが観察できます。

佐渡金山は西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山等、佐渡島に複数存在した金山、銀山の総称で、その中で最大規模のものが相川金銀山でした。相川金銀山の開発は16世紀末に始まったと考えられており、その後徳川幕府直轄金銀山として採掘され、江戸期金銀貨原料の主な供給源になりました。明治以降は官営となり、西洋の先進技術を導入して近代化が図られましたが、1896年(明治29年)に三菱合資会社(後の三菱鉱業、現三菱マテリアル)に払い下げられ、三菱資本の下更なる機械化が進められ、1940年(昭和15年)には佐渡金山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀が産出されました。戦後は資源枯渇が目立つようになり、1952年(昭和27年)に三菱は佐渡鉱山の大規模な縮小を決定、1989年(平成元年)に休山となりました。

相川市街地の東側に露出した鉱脈群があり、これが自然の浸食作用で崩落して斜面を流れ下り、相川海岸に多量の金銀鉱石礫として集積しました。これらの鉱石礫は金銀の品位が高く、江戸~昭和初期には地元住民の収入源にもなっていたそうですが、昭和50年代に防波堤が築かれ、消波ブロックが設置されたため、鉱石礫は今では採集不可能とのことです。

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