銅藍・閃亜鉛鉱 (covellite/sphalerite) 幸生鉱山 #0307

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黄銅鉱および閃亜鉛鉱の一部が交代されて二次的な銅藍が形成されています。閃亜鉛鉱の一部は褐色のいわゆる鼈甲亜鉛になっています(5枚目、なお、1~3枚目のみ背景をソフトウエア処理しています。)

幸生鉱山は銅・亜鉛の鉱脈鉱床で、1682(天和2)年に発見され、1961年(昭和36年)に閉山となるまで断続的に稼行された山形県を代表する銅山です。山形県の寒河江市と最上郡大蔵村の境には十部一峠(じゅうぶいちとうげ)という峠があり、北の大蔵村側には1611年(慶長16年)に永松銅山が開かれ、南の寒河江市側では1682年(天和2年)に幸生銅山が開かれました。幸生銅山は開坑当初大阪商人泉屋吉左衛門(後の住友家)によって稼行され、1794(寛政6)年以降は幕府直轄の銅山となりました。明治維新後は小野組の経営を経て1876年(明治9年)に古河市兵衛が引き継ぎ、1891年(明治24年)に永松銅山と共に古河鉱業(株)の所有となりました。1897年(明治30年)に幸生銅山における精錬は廃止され、永松鉱山のみで精錬するようになり、1926年(大正15年)以降は幸生銅山の鉱石を足尾銅山に運び精錬するようになりました。1951年(昭和26年)に鉱量枯渇による永松・幸生の両鉱山の閉山が発表され、1961(昭和36)年に閉山しました。

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