ストラヴィンスキー 春の祭典 ドラティ

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指揮者アンタル・ドラティは、自身がハンガリー人でもあり、
民族性の高い東ヨーロッパ系の作曲者の作品、そしてロシアもののバレー音楽に
傑出した技量を示す人物であった。
ハンガリー動乱以降の一時代における、ハンガリーのクラシック音楽界の
棟梁のような存在でもあった。悲しい運命を背負った亡命音楽家たちを励まし続けた。
おそらく人間的にも素晴らしい人物であったのだろう。
アメリカの凋落してゆく楽団を復興させる実績にも優れ、彼の音楽的情熱が、
単なる一指揮者という枠を超えて、楽団員の統率力に長けていることを証明した事実も忘れてはならない。
指揮者という職業には、その人の生き様というものが必ず投影されると考える。
それは、一個人の演奏者が楽器を演奏するスタイルと根本的に異なるものだからである。
時には政治性と向き合わなければならないときもあるかもしれない。
そのようなことすべてを含めて、指揮者のあり方が問われ、評価されるのではないだろうか?
ドラティの音楽には、人間の熱き情念が常に感じられる。
このストラビンスキーの「春の祭典」および「ペトル−シュカ」、
そして別CDでの「火の鳥」を聴いても同じ思いである。
楽団から引き出す音の力には絶句させられる。
このアメリカの5大オーケストラにも入っていないデトロイト交響楽団のオーケストレーションは、
実に完璧なものとなっているのである。一つ一つのパートに極めて高い技量が求められる
「春の祭典」でも曖昧な楽器の音出は一切なく、驚くべきレベルに達しているのである。
音は良い意味でのアメリカの楽団の出力の高さをしっかりと披露していて、しかも
アメリカの楽団にありがちなゴツゴツ感もない。
テンポ設定においてもわざとらしい過度な演出はなく、極めて理にかなったものである。
それでいて、この曲固有の、異教徒たちの野蛮な儀式を想起する反近代的ともいえる興奮も
見事に表現している。そしてこの興奮は、すべて、ドラティにより計算されたものなのである。
この作品はバランスを崩すと危険なのものなのだ。
この辺りにドラティの真骨頂を感じ、彼の音楽家としての偉大な資質をかいま見ることができる。
1981年の録音状況も驚くほどすばらしい。

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