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PACIFIC FORD PR02 #12 ANDREA MONTERMINI 1995
パシフィック・レーシングは、かつて存在したイギリスのレーシングチームで、1994年から1995年にかけてF1世界選手権に参戦しました。 パシフィック・レーシングは1980年代よりフォーミュラ・フォードやイギリスF3選手権、国際F3000選手権などに参戦し、J.J.レート選手、デビッド・クルサード選手、エディー・アーバイン選手などのドライバーを輩出してきました。1991年にはクリスチャン・フィッティパルディ選手を擁して国際F3000選手権を制覇し、F1へのステップアップを図ってきました。 当初、1993年1月に同年開幕戦からのF1参戦表明がされ、元シェブロン・カーズ氏やザクスピードのデザイナーを歴任したポール・ブラウン氏がPR01のデザインを担当し、エンジンはマーダーチューンのイルモアV10の使用、ドライバーにはミハエル・バルテルス選手と契約が完了しており、もう1人にはジャン=マルク・グーノン選手を希望していると表明していましたが、資金が充分に集められなかったため参戦を1年見合わせることになってしまいました。 1995年は、破綻したロータスの名称権を買収して「パシフィック・チーム・ロータス」として参戦しました。日本の東急グループを率いる五島ファミリーが資本参加し、東京に「パシフィック・アクセス」なる事務所を設立してアジアのスポンサー獲得に動き、また、ベルトラン・ガショー選手も自己資金を投入して共同オーナーになるなど体制強化を図りましたが、相変わらずの資金難が続きました。 ドライバーラインナップはアンドレア・モンテルミーニ選手とペドロ・ラミー選手に決定し、ガショーは共同オーナーとしてマネージメントに専念する意向でしたが、開幕直前になってラミーがティレルとの二重契約未遂でシートを失い、結局スポンサーを持ち込めるドライバーが見つからなかったため、序盤戦と終盤戦ではガショーが自らステアリングを握ることとなってしまいました。マシンはフランク・コパック氏による吊り下げウイングを廃止したオリジナルシャシーに、フォードEDエンジンを搭載したPR02を登場させました。 参戦台数の減少により予選落ち(予備予選)がなくなり、全戦で2台揃って決勝に進みました。開幕戦でモンテルミニが完走するなど、前年からある程度の進化は見せたものの入賞はできず、シーズン途中ではガショーに代わってスポンサーマネーを持ち込んだジョバンニ・ラバッジ選手やジャン=デニス・デレトラズ選手の資金で参戦を継続し、パシフィックGPと1995年日本GPでは日本の若手有望株の一人であった山本勝巳選手を起用しようとしましたが、スーパーライセンスは発給されず断念することになりました。第9戦ドイツGPのモンテルミーニと最終戦オーストラリアGPでガショーが8位で完走したのが最高成績で、結局この年いっぱいでF1を撤退しました。 (参照ウィキペディア) 当時、東急グループがF1チームに資金を提供することが話題となり、マシンのノーズ先端には、当時の東急のロゴマークが見て取れます。 #onyx #pacific #パシフィック #ford #フォード ##
17 FORMULA 1 1/43 PACIFIC TEAM LOTUSsennakazu
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SAUBER C16 FERRARI N.LARINI 1997
ザウバー・C16は、1997年のF1世界選手権に投入したフォーミュラカーです。 前年までの2年間使用したフォードのワークスエンジンZetec-Rの使用権がスチュワートグランプリチームに移ることになり、新たにフェラーリと契約を結んで、カスタマーエンジンユーザーとなりました。フェラーリが前年使用したティーポ046/1エンジンの供給を受け、スポンサーのペトロナスのバッジネーム(自社以外のメーカーが製造したエンジンの命名権を買い取り、自社の名前でコンストラクター登録を行うこと)を付けて、「SPE-01」と呼称しました(SPEは「ザウバー・ペトロナス・エンジニアリング」の略)。フェラーリエンジンの搭載は2006年にBMWがチームを買収するまで続けられました。 ドライバーはチーム2年目となるジョニー・ハーバート選手に加えて、エンジン供給の関係から、フェラーリのテストドライバーであったニコラ・ラリーニ選手がセカンドシートを獲得しました。 C16はシーズン当初競争力を発揮しましたが、シーズンが進むにつれて潤沢な資金を持つライバルたちに比べて開発が進まず、その戦闘力は低下していきました。 1997年のシーズン成績は、計4人のドライバーが出走しましたが、このモデルのニコラ・ラリーニ選手は全17戦の前半5戦のみ出走して解雇となりました。また、チームのポイントのほとんどが相方のジョニー・ハーバート選手の活躍によるもので、コンストラクターズは7位でした。 (参照ウィキペディア) このモデルは、長年、ONYX製でしか製品化されていませんでした。他のザウバーモデルは全てミニチャンプス製で製品化されていたのですが、このC16だけ版権の問題だったのでしょうか、当時F1ミニカー=ミニチャンプス派だった私にとっては、スッキリしない悶々とした日々を送っていました。 数年前にやっと製品化されて喜んだのですが、ダイキャスト製の価格高騰により、今度は価格的に手が出せず、再び悶々とした日々を送っていました(笑)。 で、それから数年を経てやっとのことショップのセールで手に入れることが出来ました。 たったそれだけなのですが、私にとっては思い出深いモデルの1台です。 #minichamps #sauber #ザウバー #ferrari #フェラーリ #germany #ドイツ #italy #イタリア
17 FORMULA 1 1/43 SAUBER PETRONASsennakazu
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MARUSSIA FERRARI MR03 JULES BIANCHI MALAYSIA GP 2014
このミニカーは思い出の多いモデルのうちのひとつです。 2014年10月5日、ジュール・ビアンキ選手は、鈴鹿の日本GPで大きなアクシデントに遭遇し脳外傷を負い、意識を失ったまま緊急搬送、そして手術が行われました。その後人工昏睡状態に置かれたまま治療が進められ安定が認められたため、11月に母国イタリアの病院に移送され治療を続けられていましたが、9ヶ月後の翌年7月17日に意識が戻らないまま亡くなりました。25歳の若さでした。 事故が起きた時、私も友人と娘と観戦していましたが、大型台風の接近の影響による強い雨風で、セーフティカー先導の周回でもウォータースクリーンでほとんどの車体が見えない状態でした。15時00分からのスタートでしたが、セーフティカー、レース、赤旗の繰り返しで、ほとんどレースは成り立たない状態でした。40周を超えた頃から雨も強くなり、辺りもかなり暗くなり、視界もひどくなった時、場内放送で第一の事故(エイドリアン・スーティル選手)の一報がありました。その後、観客に何の説明のないまま赤旗中断、そして終了になりました。ジュール・ビアンキが目の前を通過しない、と周りの観客が騒いでいましたが、「ほとんど見れなかったねぇ」と、渋々退場ゲートに向かい、大渋滞の中クルマで帰りました。そして、その車中のラジオで彼の事故があったことを知らされました。とてもショックで、いつものレースの結果や話題もなく沈黙の中帰ったのを覚えています。 彼は、フェラーリ・ドライバー・アカデミーの最初の所属ドライバーなので、実力からいって、将来はフェラーリドライバーになっていたと思います。幼馴染で同じアカデミーのシャルル・ルクレールが彼の死後にフェラーリ入りをしたので代わりに夢を叶えたのでしょうね。 彼のカーナンバー『17』は、永久欠番になっています。 #spark #marussia #julesbianchi #ferrari
17 FORMULA 1 1/43 MARUSSIAsennakazu
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KEIHIN NSX CONCEPT-GT SGT 2015 RD-1 OKAYAMA
スタイリングもメタルカラーも素晴らしくカッコいいですね。 数年前、鈴鹿に行った時にショップで『訳あり品』として売られていたのを何の躊躇いもせず思わず買ってしまいました。 一応、ショップの方に聞いてみたら一部空力パーツが取れているとのこと、自宅に帰って瞬間接着剤で直しました(笑) このご時世、新品ミニカーも高騰していて手が出せません。収集するにはセールかセコハンか、このような『訳あり』新品モデルを探すかありません。でもそれも収集する上での楽しみのひとつです。 #ebbro #sgt #honda #ホンダ
17 SGT 1/43 KEHIN REAL RACINGsennakazu