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MINARDI HART M197 #21 JARNO TRULLI
#onyx #minardi #ミナルディ #hart #ハート #
21 FORMULA 1 1/43 MINARDIsennakazu
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MINARDI FORD M195B #20 PEDRO LAMY 1996
#onyx #minardi #ミナルディ #ford #フォード #
20 FORMULA 1 1/43 MINARDIsennakazu
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ARROWS HART FA17 #16 RICARDO ROSSET EUROPE GP 1996
詳細は、 「ARROWS HART FA17 #16 RICARDO ROSSET BRASIL GP 1996」 を参照願います。 このモデルは、ヨーロッパGP(ドイツ・ニュルブルクリンクにて開催)になりますが、リカルト・ロセット選手は、11位、ヨス・フェルスタッペン選手は、リタイアに終わりました。 #onyx #arrows #アロウズ #hart #ハート #germany #ドイツ #nurburgring #ニュルブルクリンク
16 FORMULA 1 1/43 ARROWSsennakazu
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ARROWS HART FA17 #16 RICARDO ROSSET BRASIL GP 1996
フットワーク・FA17は、フットワークが1996年のF1世界選手権参戦用に開発し投入したフォーミュラカーで、デザイナーはアラン・ジェンキンス氏。ドライバーは、シムテックから移籍したヨス・フェルスタッペン選手(マックス・フェルスタッペン選手のお父さん)と、前年の国際F3000シリーズ2位のリカルド・ロセット選手が担いました。 フットワークはシーズン始めにトム・ウォーキンショウ氏と、アロウズ創始者の一人であるジャッキー・オリバー氏によって買収され、そのため、チームの焦点は1997年シーズンに向けられることとなり、1996年は過渡期のシーズンとなりました。 資金不足というチーム状況が完全なニューマシンの製造を許さず、昨年型FA16に1996年レギュレーションへ適合させる改良を加えてFA17は作られました。テクニカル・ディレクターのアラン・ジェンキンス氏の開発のもと、前後ともサスペンションには最新トレンドである3本目のダンパーが追加され、両側の2本がそれぞれ左右のタイヤからの入力を受け持ち、中央の3本目のダンパーが左右同時の伸縮を制御する役割となっており、ロールとピッチを別々に制御することによってマシンの上下の動きは強く抑えるが、サスの左右それぞれの動きは柔らかく反応させ、マシンのライドハイトを一定に保つという、従来の2本ダンパーでは実現できない「アクティブサスペンションに近い効果」をもたらすとされました。 しかしジェンキンス氏はFA17の完成を置き土産に、2月いっぱいで切れたアロウズとの契約を更新せず、来季からのF1参戦を表明していたスチュワート・グランプリへと移籍してしまいました。ジャッキー・オリバー氏は「当面数か月の間は後任のデザイナー加入予定はない」と話し、以後のマシン開発は暫定的にエンジニアのアレン・マクドナルド氏が担うこととなりましたが、開幕を前にして早くもマシン開発が滞る状況となってしまいました。 1996年シーズンは、フェルスタッペンはアルゼンチンGPで6位に入りポイントを獲得しましたが、ハートV8エンジンの開発停滞、パワー不足によってチームはテールエンダーの常連となりました。 その中でフェルスタッペンは予選で常に中団に食い込むなど短期的には速さを見せることができましたが、レースでの完走率はかなり低く、シーズン前半での完走はオーストラリアGPとアルゼンチンGPのみで、リタイアの原因はマシン側の機械的トラブルの場合がほとんどで、ベルギーGPでのスロットルが戻らなくなりクラッシュの要因となるというあってはならない危険なトラブルにも遭いました。また、サンマリノGPではピットアウトの際に給油中の燃料ホースを引き裂くという惨事になりかねない事故もありました。 一方のロセットは前半を終えた時点でクラッシュも無く、新人ドライバーとして安定はしていましたが、速さが無くフェルスタッペンに予選で全敗するなど結果を全く残せませんでした。 チームは結局フェルスタッペンの1ポイントにより、コンストラクターズランキング9位でシーズンを終えました。 シーズン終了後にドライバー2名ともチームを離れフェルスタッペンはティレルへ、ロセットはローラに移籍し、翌年は前年度チャンピオンのデイモン・ヒル選手がウィリアムズからアロウズに移籍するという驚くべき決定をし、パルマラットからの支援で多額のスポンサーマネーを持つペドロ・ディニス選手がセカンドドライバーとして加入することとなり、明るい話題となりました。(参照ウィキペディア) このモデルは、ブラジルGP仕様ですが、両ドライバーともリタイアに終わりました。 #onyx #arrows #アロウズ #hart #ハート #brasil #ブラジル #
16 FORMULA 1 1/43 ARROWSsennakazu
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PACIFIC ILMOR PR01 #33 PAUL BELMONDO 1994
パシフィック・レーシングは、かつて存在したイギリスのレーシングチームで、1994年から1995年にかけてF1世界選手権に参戦しました。オーナーはキース・ウィギンス氏。 このモデルの1994年、「パシフィック・グランプリ」としてF1に初参戦しました。レースドライバーはベルトラン・ガショー選手とポール・ベルモンド選手、テストドライバーにオリバー・ギャビン選手で戦いました。 シャシーは1991年にレイナードがF1参戦を狙った際にロリー・バーン氏とパット・シモンズ氏が設計したものを譲り受け、ポール・ブラウン氏がPR01へと改良、これにイルモアのザウバーが昨年の前半に使用していた型落ちのV10エンジンを搭載しました。当時のイルモアはメルセデスの出資を受け、ザウバーとワークス契約を結んでいたため、パシフィックにはほぼ技術的サポートは、なされませんでした。 PR01は、当時はまだ珍しいほうの部類だったベネトン型の、フロントウイングを吊り下げるノーズを持つ特徴的なマシンではありましたが、3年前の設計のシャシーとイルモアの型落ちエンジンのマシンは競争力に欠け、2台そろって決勝に出場したのはカール・ヴェンドリンガー選手のクラッシュでザウバーが欠場したモナコGPとシムテックのアンドレア・モンテルミーニ選手がクラッシュしたスペインGPのみでした。ベルモンドが予選を通過したのはこの2回だけで、ガショーも決勝進出は5回だけでした。第7戦フランスGP以降は、資金難でマシン開発が停止した影響で2台とも予選通過できず、結局完走は無しに終わりました。 1994年はアイルトン・セナ選手やローランド・ラッツェンバーガー選手らの重大死亡事故が相次いだため、シーズン中にも次々とレギュレーション変更が実行され、元々準備不足であるチームはさらに苦しめられました。(参照ウィキペディア) #onyx #pacific #パシフィック #ilmor #イルモア #uk #イギリス
33 FORMULA 1 1/43 PACIFIC RACINGsennakazu
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FORTI FORD FG01B #22 LUCA BADOER EUROPE GP 1996 ①
フォルティは、1995年から1996年にF1世界選手権に参戦していたイタリアのレーシングチームで、正式名称はフォルティ・コルセ。オーナーはグイド・フォルティ氏。 チームはイタリアF3選手権で4度のタイトルを取り、1987年から国際F3000選手権にも参戦、優勝キャリアを持ち、国際F3000時代には野田英樹選手が在籍したことで知られている。 1995年に国際F3000のドライバー、ペドロ・ディニス選手とともにコンストラクターとしてF1にステップアップしました。 ドライバーはディニスと3年ぶりのF1シート獲得となったロベルト・モレノ選手でしたが、実質的に大きなスポンサー資金を持つディニスのためのワンマンチームでありました。 ディニス/モレノのブラジル人コンビとなりましたが、この布陣を『裕福なブラジル人(ディニス)が貧乏なブラジル人(モレノ)を雇っている』かの風刺記事を書くメディアも多く、これはチームが新人であり経験も速さも無いディニスがNo.1で、表彰台経験を持つモレノが完全なNo.2扱いを受けるという実績とは逆の序列が敷かれていたことに起因しています。 シャシーはFG01、エンジンはフォード・コスワース・EDを搭載しました。 FG01は、当初他チームより60kg重いという短所のあるマシンでありましたが、開幕戦直前にテクニカル・ディレクターとして加入したセルジオ・リンランド氏がディニスを支援するスポンサーからの豊富な資金を活かし、風洞で改良を施しました。しかしリンランド氏は在籍3か月余りで「家族がイタリアでの生活になじめなかった」ことを理由に、5月にチームから離れてしまうという問題が起きました。 以後はチームの技術部門トップ(顧問)だったジョルジョ・スティラーノ氏が、FG01の開発を引き継ぎ、軽量化やサイドポンツーンの変更、フロントノーズを吊り下げ型ステーを持つウイングに変更など大きな変更を施したBスペックシャシーへの改造を加えながらのF1初年度となりました。 しかし基本性能の低いシャシーであり、予選最高位はオーストラリアGPのモレノの20位、決勝最高位は同グランプリのディニスの7位とノーポイントとなりましたが、ディニスは中盤以降完走を続け、チームの戦闘力はパシフィック・グランプリを抜くなどゆっくりながらも成長を見せました。チーム完走率では最終戦でフットワーク・アロウズを上回り、最下位を脱しました。 改良パーツはディニスのマシンを優先して投入され、モレノはシーズンを通して苦戦を強いられました。なお契約上、改良パーツやスペアカーだけでなく、モレノのマシンそのものも希望した場合はディニスが使用できる優先権があり、そのためイタリアGPでは再スタート時にモレノのマシンがディニスに提供されたため、モレノはレースへの参加すら断念せざるを得ませんでした。(全日本F2選手権に参戦したり、1990年の日本GPでは2位を獲得するなど実力のある選手でしたが、スポンサー資金に恵まれない苦労人でした。) このモデルの1996年シーズン開幕後、チームマネージャーとしてチェーザレ・フィオリオ氏が加入しましたが、ディニスが多数のスポンサーと共にリジェチームへと移籍した事で資金難に陥いりました。 また、この年より予選の107%ルールが施行されたため、予選を通過出来ずタイムアップの為のマシンアップデートもままならないほどフォルティは苦戦を強いられた。 ドライバーは新たにルカ・バドエル選手とアンドレア・モンテルミーニ選手を起用し、エンジンはフォード・コスワース・ZETEC-Rを搭載、シャシーは前年の改良型FG01B(=FG02)、サンマリノGPからジョージ・ライトン氏設計のFG03を投入しましたが戦闘力の低さは相変わらずでした。 スペインGP以降、「シャノン」という会社から大規模なスポンサードを受けることになり、同社のスポンサード開始により、マシンのカラーリングが黄色①からシャノンのイメージカラーであるグリーン②へと変更されました。 これによりチームの財政状況が改善されると思われましたが、実際にはスポンサーフィーは支払われず、コスワースへのエンジン代金の支払いが滞り、その結果、第10戦イギリスGPで2人揃って予選落ちした後、エンジン供給を止められてしまい、シーズン半ばに撤退を強いられました。二人そろっての予選落ちはここまでで4回、完走は3回のみと完走率も低く散々なものでした。 なお、フォルティが撤退時まで使用したエンジンは、翌1997年に新規参入したマスターカード・ローラF1チームにあてがわれましたが、満足に資金を確保できないチームにコスワースも力を注がなかったため信頼性は無く、直線テストですら問題が生じる個体でした。(参照ウィキペディア) この頃は、新規参入しては、1〜2年で消えていくプライベーターの新興チームが多くありました。夢と希望を持ってスタートしたものの膨大な資金を要するF1ビジネスに翻弄されて落ちていく悲劇。このチームもその一つでした。。 #onyx #forti #フォルティ #ford #フォード #spain #スペイン
22 FORMULA 1 1/43 FORTI FORDsennakazu
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FORTI FORD FG03 #23 ANDREA MONTERMINI SPANISH GP 1996 ②
詳細につきましては、別展示の 『FORTI FORD FG01B #22 LUCA BADOER EUROPE GP 1996 ①』 を参照していただけますでしょうか。 お願い致します。 #onyx #forti #フォルティ #ford #フォード #spain #スペイン
23 NEW SPONSOR SHANNON FORMULA 1 1/43sennakazu
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FOOTWORK ARROWS HART FA16 #9 GIANNI MORBIDELLI CANADA GP 1995
フットワーク・FA16は、フットワークが1995年のF1世界選手権参戦用に開発し投入したフォーミュラF1カーで、デザイナーはアラン・ジェンキンス氏です。 チームは1994年中からフォード・ゼテックRエンジン獲得を希望し奔走していましたが、フォードはこのエンジンの独占供給先にザウバーを選んだため、アロウズは代替策としてプライベートビルダーであるハートのV8エンジンを搭載することになりました。そのため、アラン・ジェンキンス氏は急遽設計図面の作り直しを迫られました。 しかし、ハートエンジンはコンパクトで軽量で、少ない予算の中で最高の性能を発揮することになりました。 フロントサスペンションには前年も使用されたモノコイルスプリング+ツインダンパーが設置されました。FA16の良さはセットアップが決まった時の軽快性で、ハートエンジンも中速コースにマッチングしていたことで、コース特性が似たタイプであるカナダ/ジル・ヴィルヌーヴ・サーキットとオーストラリア/アデレード市街地コースでジャンニ・モルビデリ選手が好成績を挙げました。 ドライバーは、チーム2年目を迎えるジャンニ・モルビデリ選手と、スポンサーを持ち込んだ井上隆智穂選手がドライブしました。チームの資金不足のため、モルビデリはシーズン中盤第8戦からの7レースではスポンサーを持ち込んだ新人マックス・パピス選手と交代させられまし。 1995年シーズンは、モルビデリの活躍で第6戦のカナダGPで6位に入り1ポイントを、最終戦オーストラリアGPではアロウズにとって1989年アメリカGP以来6年ぶりとなる3位表彰台を獲得し、FA16のポテンシャルを完全に引き出しました。しかし井上隆智穂とパピスはFA16を使いこなせずに終わっています。 井上は、レースでの戦いそのものではない場面で取り上げられるばかりでありました。 ①モナコGPでは、プラクティス後にロープでマシンを牽引されてピットに戻る最中、オフィシャルカーに衝突されて横転するアクシデントに見舞われました。幸運にも彼はまだヘルメットを装着したままだったため怪我すること無く、決勝に参加することができました。 ②ハンガリーGPでは井上自身がレスキューカーに跳ねられました。彼のFA16はエンジントラブルで停止し、消火器を持って火を消そうとした井上にコースカーがぶつかりましたが、このときも彼は大きな怪我をすることはありませんでした。 チームはモルビデリの奮闘により5ポイントを獲得。これはティレルと同ポイントであったが、モルビデリが表彰台に上ったことで最高位でまさり、ティレルより上位となるコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えました。ドライバーズランキングは、モルビデリ14位、他の2人はランク外でした。(参照ウィキペディア) このモデルは、カナダGP仕様ですが、この派手な蛍光色のカラーリングが気に入っています。また、前年の鈴鹿でシムテックからF1デビューした井上隆智穂選手ですが、最初は「こいつ誰?」って感じで、テレビでも認知度は低かったと思いますが、この年からアロウズでフル参戦して彼を知り、海外で努力してきた奴なんだと感心したのを記憶しています。それと前述のように、オフィシャルカーに2回も轢かれるなど、笑っちゃいけないのですが、当時大受けでした! 今でもYouTube 上でネタにされていますね(笑) #onyx #footwork #フットワーク #arrows #アロウズ #hart #ハート #canada #カナダ
9 FORMULA 1 1/43 FOOTWORK HARTsennakazu
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PACIFIC FORD PR02 #12 ANDREA MONTERMINI 1995
パシフィック・レーシングは、かつて存在したイギリスのレーシングチームで、1994年から1995年にかけてF1世界選手権に参戦しました。 パシフィック・レーシングは1980年代よりフォーミュラ・フォードやイギリスF3選手権、国際F3000選手権などに参戦し、J.J.レート選手、デビッド・クルサード選手、エディー・アーバイン選手などのドライバーを輩出してきました。1991年にはクリスチャン・フィッティパルディ選手を擁して国際F3000選手権を制覇し、F1へのステップアップを図ってきました。 当初、1993年1月に同年開幕戦からのF1参戦表明がされ、元シェブロン・カーズ氏やザクスピードのデザイナーを歴任したポール・ブラウン氏がPR01のデザインを担当し、エンジンはマーダーチューンのイルモアV10の使用、ドライバーにはミハエル・バルテルス選手と契約が完了しており、もう1人にはジャン=マルク・グーノン選手を希望していると表明していましたが、資金が充分に集められなかったため参戦を1年見合わせることになってしまいました。 1995年は、破綻したロータスの名称権を買収して「パシフィック・チーム・ロータス」として参戦しました。日本の東急グループを率いる五島ファミリーが資本参加し、東京に「パシフィック・アクセス」なる事務所を設立してアジアのスポンサー獲得に動き、また、ベルトラン・ガショー選手も自己資金を投入して共同オーナーになるなど体制強化を図りましたが、相変わらずの資金難が続きました。 ドライバーラインナップはアンドレア・モンテルミーニ選手とペドロ・ラミー選手に決定し、ガショーは共同オーナーとしてマネージメントに専念する意向でしたが、開幕直前になってラミーがティレルとの二重契約未遂でシートを失い、結局スポンサーを持ち込めるドライバーが見つからなかったため、序盤戦と終盤戦ではガショーが自らステアリングを握ることとなってしまいました。マシンはフランク・コパック氏による吊り下げウイングを廃止したオリジナルシャシーに、フォードEDエンジンを搭載したPR02を登場させました。 参戦台数の減少により予選落ち(予備予選)がなくなり、全戦で2台揃って決勝に進みました。開幕戦でモンテルミニが完走するなど、前年からある程度の進化は見せたものの入賞はできず、シーズン途中ではガショーに代わってスポンサーマネーを持ち込んだジョバンニ・ラバッジ選手やジャン=デニス・デレトラズ選手の資金で参戦を継続し、パシフィックGPと1995年日本GPでは日本の若手有望株の一人であった山本勝巳選手を起用しようとしましたが、スーパーライセンスは発給されず断念することになりました。第9戦ドイツGPのモンテルミーニと最終戦オーストラリアGPでガショーが8位で完走したのが最高成績で、結局この年いっぱいでF1を撤退しました。 (参照ウィキペディア) 当時、東急グループがF1チームに資金を提供することが話題となり、マシンのノーズ先端には、当時の東急のロゴマークが見て取れます。 #onyx #pacific #パシフィック #ford #フォード ##
17 FORMULA 1 1/43 PACIFIC TEAM LOTUSsennakazu