- Railwayfan Museum
- 331F 航空館 日本の翼 YS−11 全日空商事1/200シリーズ
- 全日空商事 【1/200】【YS21156】全日空 YS−11A "オリンピア" JA8756 (ドア開閉)
全日空商事 【1/200】【YS21156】全日空 YS−11A "オリンピア" JA8756 (ドア開閉)
全日空
YS−11A
"オリンピア"
レジJA8756
わが国初の国産ターボプロップ旅客機YS-11が開発され初飛行に成功したのは昭和37年(1962年)8月30日のことである。
ANAは昭和37年(1962年)10月1日、日本航空機製造株式会社と20機購入の予備契約に調印したが後に三舵問題と呼ばれる型式証明取得のために必要な改良に手間取りYS-11に航空局から型式証明が発行されたのは東京オリンピックの開催を直日路前に控えた昭和39年(1964年)8月5日であった。
ANAは聖火リレーのためにギリシャから沖縄まで運ばれてきた聖火をYS-11で空輸することを計画していたが残念ながらANAにはまだYS-11は1機も引き渡されていなかった。
実現は一時危うく思われたが日本航空機製造株式会社から試作2号機であったJA8612をチャーターし機体に全日空とダビンチマークを塗装し機首には東京五輪マークを入れて聖火空輸特別機に仕立てた。聖火を安全に空輸するため機内に特別な台を設置するなど整備部門、客室部門は非常に苦労しパイロットも8月下旬までにYS-11限定変更試験を受けて乗務資格を取得して聖火空輸に臨んだ。
9月9日塚増治郎、藤村楠彦両機長により当時球政府の続治下にあった沖縄から鹿児島-宮崎ー(名古屋)-札幌へと聖火が運ばれ聖火リレーが実施されてANAがYS-11で運航した聖火空輸は無事成功した。
ANAにおける定期便就航は昭和40年(1965年)9月20日の大阪-高知線になったがANAは聖火空輸の成功をたたえてYS-11にオリンピアの愛称をつけて呼ぶようになった。
タイムテーブルの機種欄にANAのYS-11便が0と表示されていたのはこうしたいきさつからである。
就航初は胴体外板を接続したリベット部にキャニングと呼ばれる皺が生じたりエアコンの不調によりハットラックにエアコンの水滴が溜まり旅客の苦情が出るなど初期故障に悩まされたが日本航空機製造株式会社とともに粘り強く改善に取り組み克服していった。
YS-11はANAが育て1人前にした機体だと語るANAのOBは多い。YS-11は開発段階でオペレーションズリサーチを行った日本で始めての機体であり当時は1,200mのランウェイが多かった日本のローカル空港への離着陸を考慮して直径4.42mのダウティロートルのプロペラを装備し短距離離着陸性能が特に優れていた。YS-11は将来の航空需要の増加を見越して34インチピッチで60席と当時使われていたフレンドシップの40席の1.5倍のキャパシティーで開発されたことでローカル線の需要増にも応えることが出来た。
ペイロードを増やした改良型のYS-11Aが開発されて標準型になるとジェット化できないローカル線に最適な機材との評価が高まった。
小松一新潟ー札幌線(昭和45年)、高知一鹿児島線(昭和47年)、熊本一宮崎線(昭和48年)、東京-長崎線(昭和48年)、長崎一鹿児島線(昭和48年)、福井-名古屋線(昭和49年)、奄美大島一伊江島、伊江島一那覇線(昭和50年)、福岡-対馬線(昭和50年)、大阪-仙台線(昭和51年)、長崎-対馬線(昭和51年)、福岡一伊江線(昭和51年)、広島一鹿児島線(昭和52年)、東京一鳥取線(昭和54年)などYS-11で路線開設されたANAのローカル線は多い。反面YS-11は上昇性能が弱いという弱点にも悩まされた。
YS-11は開発段階から十分満足できる出力のエンジンがなく採用したロールスロイス製ダートエンジンも改良を重ねたものの抜本的な出力アップには至らなかった。
気温の上昇と共にエンジンの性能が落ちてくる夏場はなかなか高度があがらず便数の多かった大阪一高知線では天気の悪いときの山脈越えに苦しむなどパイロット泣かせの機種でもあった。離昇馬力を左翼に積むウォーター・メタノールの噴射で補う様を「YSはのんべえだから水割りをひっかけて景気をつけないと上がっていかないんだ」と親しみを込めるメカニックもいた。
ANAにおける一時代を築いたYS-11も日本航空機製造株式会社が182機で製造を打ち切り地方空港もジェット化が進んだことによりYS-11の後継はジェット機が担っていくことになった。
最大時32機、導入総数42機を数えたYS-11もジェット化とエアーニッポンへの移管により平成3年(1991年)8月31日、新潟一仙台線NH720便がオリンピアラストフライトとなった。ラストフライトは総飛行時間12.858時間、YS-11では4,802時間の三浦弘明キャプテンが機長、有野達也キャプテンが副操縦士を務めるダブルキャプテンで有終の美を飾った。
仙台空港では3番スポットでOLYMPIALAST FLIGHT ありがとうYS-11の横断幕を掲げてNH720便を迎え乗客へ記念品配布、乗客代表への花束贈呈、乗員への花束贈呈のセレモニーが行われた。
昭和40年(1965年)から平成3年(1991年)までの26年間でYS-11/YS-11Aの総飛行時間は約95万時間、総旅客数は約500万人であった。
オリンピアラストフライト機となったのはYS-11A-600型JA8756号機。前方にカーゴドアを持ち後部のエアステアから乗り降りする貨客型として作られたANAでは珍しい機体であった。
製品は後部ドア開閉、タラップ、記念看板、展示用滑走路付き。