「江戸文化歴史検定公式テキスト」(小学館/江戸文化歴史検定協会・編)

0

お江戸検定の初級テキストと2級テキストです。

初級編は「大江戸見聞録」、江戸に来たお上りさんにお節介なおっさんがあれこれ教えてあげる形式で、江戸の文化を広く学べる内容になっています。
2級編は「江戸吟味問答控」、お江戸検定の2級問題集です。

たとえば、、、
【問題】箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれたように、大井川は東海道の難所でした。渡るには川越人足の手を借りなければなりませんでしたが、その料金は何を基準に決められていたでしょう?
(い)水温。低いほど料金が高かった
(ろ)体重。重い人ほど料金が高かった
(は)気分。嫌な客ほど料金が高かった
(に)水位。水が多いほど料金が高かった

【問題】武家は若党や草履取りといった奉公人を召し抱えていましたが、その多くは1年単位で主家を替えることから出替奉公人と呼ばれていました。では、17世紀半ば以降、こうした出替奉公人の入れ替え日はいつだったでしょう?
(い)正月5日
(ろ)3月5日
(は)4月5日
(に)9月5日

…とか。

6-7年前にトライしましたが、落ちました😞

Default
  • File

    レイレイ

    2024/12/06 - 編集済み

    川を越すのに料金が変動したんですね、それすら知らなかった。
    体重だったら嫌だなぁ…わたし重いから(笑)
    水位なら納得する☝️

    返信する
    • File

      T. S

      2024/12/06 - 編集済み

      正解🙆 こたえは「(に)水位」でした👏

      【解説】
      江戸幕府は防衛政策上、大井川への架橋も渡船も禁じていた。江戸初期までは浅瀬を自分で渡る「自分越し」であったが、元禄9年(1696)徒渉制度が確立し、川越しは両岸の島田・金屋宿に配された川越人足により行なわれるようになる。料金は、水位で御定賃銭(公定賃銭)が決められ、天保期の記録では、人足賃は膝までの「膝通水」3文から脇下までの「脇通水」94文まで、9段階に分かれていた。肩車は人足1人分だが常水以上になると補助がつきりん分、輩台は人足4人に加え輩台の使用料が2人分加算され6人分の料金となった。なお、将軍の朱印状や老中の証文などを持つ公用の旅行者は、無料で渡れた。また、水位2尺5寸までを常水と呼び、それから2尺以上増水した4尺5才で川留めとなった。受検者の正解率80%

      返信する
    • File

      レイレイ

      2024/12/06

      水温と迷いましたが🥶

      脇下!!
      …そりゃ無理じゃあーりませんかね??
      もう肩にしがみついて一緒に浮くレベル。
      肩車も怖っ!!
      人足すごー👏

      返信する
    • File

      T. S

      2024/12/06

      こういう一般的な問題もアリマス

      (78問)
      現在でも使われる言いまわしに「見当違い」があります。この「見当」という言葉は江戸時代に使われるようになりましたが、本来は何のことでしょう?
      (い)浮世絵版画の多色摺りのための目印
      (ろ)歌舞伎役者の舞台での立ち位置
      (は)迷子を探すための目印
      (に)地図を作製するための目印

      (79問)
      東京の坂の名前には、江戸時代に由来をもつものがあります。紀伊国坂は紀伊藩邸、三宅坂は田原藩三宅家の藩邸が近傍にあったことにちなみますが、では、紀尾井坂の由来は何でしょう?
      (い)旗本・紀尾井家の屋敷が近くにあったから
      (ろ)旗本・紀ノ尾家と井上対馬守の屋敷が近くにあったから
      (は)奥女中・紀尾井の拝領屋敷が近くにあったから
      (に)紀伊藩・尾張藩・彦根藩邸が近くにあったから

      (80問)
      現在のJR東京駅の東にある「八重洲」という地名の由来は何でしょう?
      (い)江戸初期には複雑な地形の干潟だったから
      (ろ)吉原の人気遊女・八重洲が年季明け後に住んだから
      (は)オランダ人ヤン・ヨーステンの屋敷があったから
      (に)会津出身の住人たちの訛りが八重洲と聞こえたから

      返信する
    • File

      T. S

      2024/12/06

      トライしたのは6-7年前でなく、2007年、17年前でした😳ソンナマエダッタノカ
      この本に、採点結果の通知が入ってましたw
      100点満点で70点が2級の合格ラインですが、63点で落第でした、、、

      いくさの歴史は詳しいんですけど、江戸時代って平和🕊️で文化や芸術問題が多くて、ちょっと苦手でして😆

      返信する
    • File

      T. S

      2024/12/06

      けっこう、面白い問題は多いんですけどね。

      こんな問題も…

      (59問)
      幕府により派遣された条約交渉団には、明治維新を支えた多くの人材が参加しています。
      では次のうち、この交渉団が立ち寄り、記念撮影を行なったことで知られる史跡はどこでしょう?
      (い)ポンペイ遺跡(イタリア)
      (ろ)万里の長城(中国)
      (は)ギザのピラミッド(エジプト)
      (に)モヘンジョダロ遺跡(パキスタン)

      (60問)
      横浜は諸外国の圧力により、幕末に「開港場」として開発された急ごしらえの町でした。幕府は外国人のために、町の中心にある施設を設置しましたが、それは何でしょう?
      (い)寺院
      (ろ)射撃場
      (は)遊廓
      (に)カジノ

      (61問)
      江戸時代の暦法は、月の満ちけを基本にした太陰太陽暦でした。江戸の蘭学者たちの間では、太陽暦で元日を祝う行事が行なわれましたが、これを何といったでしょう?
      (い)メリケン正月
      (ろ)オランダ正月
      (は)エゲレス正月
      (に)バテレン正月

      (62問)
      江戸時代、天然痘は命にかかわる病気でした。天然痘のウイルスを入手し、日本ではじめて種痘を行なったのは林宗建ですが、その普及に努めたのは、次のうち誰でしょう?
      (い)緒方洪庵
      (ろ)杉田玄白
      (は)大槻玄沢
      (に)華岡青洲

      返信する
    • File

      レイレイ

      2024/12/06

      T.Sさん酔ってます?笑
      問題書くだけで大変よ~🤣
      そして私の歴史のセンセ、fantaセンセがいないと無理な難題。

      78→ろ(歌舞伎ネタは多そう)
      79→に(適当w)
      80→は(ヨーステンなんて名が出てくるところが怪しすぎ)
      59→ろ(せいぜい中国あたりまでかなと)
      60→は(聞いたような)
      61→ろ(歴史で分からない問題はだいたいオランダと書くと当たる)
      62→い(適当)

      返信する
    • File

      T. S

      2024/12/06

      酔う前に書きました。書いたというか、そのページを写真に撮って、その文章をコピペしてるので、本の内容が簡単に書き写せるんですよ。

      前半はたぶんそれで正解だと思います。
      後半は明日答えを見ますね。

      59問
      甘く見ちゃいけませんよ👆チッチッチ

      File
      返信する
    • File

      レイレイ

      2024/12/06

      お帰りなさい~🏠️

      59問…まじか😵

      返信する
    • File

      T. S

      2024/12/07

      証拠写真↑🤭

      返信する
    • File

      tomonakaazu

      2024/12/07 - 編集済み

      うわー。
      彼らは羽織袴にすげ傘で、こんな遠くまで行ったのですね〜〜。

      他の問題、やってみます(きっと不合格!)

      【問題】出替奉公人の入れ替え日/→い(区切りが良さそう)
      78→い(そのまま過ぎるけど、)
      79→に(カンで)
      80→い(きっと海と陸の合間あたりだった?)

      60→は(聞いたような←レイレイさんに同感)
      61→に(なんとなく〜)
      62→い(読んだような←うろおぼえ)

      返信する
    • File

      T. S

      2024/12/08

      答えですー

      78問
      見当違いの語源
      答え (い)浮世絵の目印
      多価摺りの浮世絵版画を摺るためには、使用する色の数だけの板木が必要だった。この各色の版がずれないように工夫された目印が「見当」だ。
      制作するときには、まず絵師の下絵をもとに影師が輪郭線のみの主版を彫る。この段階で、右下の角にL字形の「見当」、底辺の1か所に「引き付け見当」が彫り込まれる。この版をもとに墨1色の校合摺りが何枚か摺られ、絵師が色ごとに校合摺りに指定をしたうえで色版がつくられる。
      各色版では校合摺りに摺られていたのと同じ位置に見当が彫られ、実際に招るときには使用する紙を見当に合わせて置くというわけである。
      多色摺り版画が誕生したのは、明和2年(1765)のこと。それ以前の素朴なものとは異なる、錦絵の登場であった。

      79問
      紀尾井坂の由来
      答え (に)紀州、尾張、井伊家の屋敷
      江戸城を背に、紀伊和歌山藩徳川家上屋敷(現在の赤坂プリンスホテル一帯)を左に見て、尾張名古屋藩徳川家中屋敷(上智大学一帯)と近江彦根藩井伊家中屋敷(ホテルニューオータニー帯)の間を迎賓館方向に上るのが紀尾井坂。
      武蔵野台地の東端から、さらに海上を埋め立ててできた江戸の町には坂が多い。人々の通行が盛んになると、当然道標となる名前が付けられた。
      ほかに大名屋敷に由来するものは、津ノ守坂、南部坂など。急坂で有名だった九段坂は、もともと9つの段があったから。江戸三大大火に名を残す目黒行人坂は、修験道の行人が参集する堂があったからなど、命名の理由はさまざまだ。
      また、江戸でいちばん多かったのは富士見坂で、10数か所が現在も残っている。

      80問 八重洲の由来
      答え (は)ヤンヨーステン

      慶長5年(1600)、豊後国志生に大平洋横断中に遭難したオランダ船リーフデ号が漂着。
      イギリス人航海士のウィリアム・アダムズと、オランダ人船員のヤン・ヨーステンは徳川家康から江戸に招かれ、外交・貿易の顧問として重用された。アダムズは現在の日本橋室町に屋敷を与えられ、三浦按針の日本名を名のった。
      一方のヤン・ヨーステンは、日比谷堀端に屋敷を与えられ、和田倉門から日比谷までの内堀の河岸は、彼の名にちなんで八代洲河岸、八重洲河岸と呼ばれるようになった。
      ところで、現在八重洲と呼ばれている場所と、当時ヨーステンの屋敷のあった場所とは違う。昭和になって町名変更が重ねられるなかで、移動してしまったのだ。

      60問 開港した横浜に作られたもの
      答え (60)遊郭
      安政6年(1859)6月2日、長崎・箱館とともに横浜が開港した。それまでの横浜は、半農半漁の小村にすぎず、戸数もわずか100万たらずだった。横浜の建設は急ピッチで進められる。
      4か月後には、波止場や運上所(税関)、外国人居留地や日本人街が完成、貿易の発展とともに本格的な町づくりが進んでいく。
      町の中心に位置する運上所わきの一画で、遊女屋が仮営業を始めたのは、開港直後の6月10日のこと。12月には太田屋新田地内の埋立地に遊廓が建設された。翌年、遊廓に通じる土手通り(吉原道)には、引手茶屋が軒を並べたという。
      遊廓のなかで、もっとも有名なのが影機。シヤンデリアをつるすなど贅を尽くした外国人専用の遊廓だが、昼間は日本人の見物も許可された。

      61問 太陽暦で元日を祝うぎょうし
      答え (ろ)オランダ正月
      もともと長崎出島のオランダ商館で行なわれていた新年の行事が、阿蘭陀正月と呼ばれていたもの。ヨーロッパの慣習に従って太陽暦の1月1日を祝っていたのだが、長崎に遊学した大槻玄沢がこれをまね、江戸に帰って始めたのが、ここでいうオランダ正月である。
      寛政6年閏11月11日(新暦1795年1月1日)、玄沢の家塾芝蘭堂で行なわれたのが最初で前野良波・桂川能郡・司馬西灘・黒屋光が夫らが参加したといわれる。このときの様子を描いた『老蘭堂新元会図』には、壁に掲げた西洋医学の祖ヒポクラテスの肖像を前に、ナイフとフォーク、ワイングラスが並ぶ宴席のさまが表わされている。以後、玄沢の息子の製戦が没する天保8年までつづけられた

      62問 天然痘の普及に努めたのは?
      答え (い)緒方洪庵

      2年間の長崎遊学後、緒方洪庵は大坂に蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を開く。洪庵の名声は高く、門人は3000人を数えるともいわれ、塾生には橋本左内・大村益次郎・福沢諭吉らの名が並ぶ。
      洪庵は種痘の普及にも力を尽くし、嘉永2年(1849)、牛痘痛が長崎にもたらされると4か月後には入手し、大坂で種痘を行なう。その後、種痘接種は門人らにより全国で開始された。
      杉田玄白は、前野良沢らとオランダの解剖書『夕ーヘル・アナトミア』を翻訳、『解体新書』として刊行した。大槻玄沢は、杉田玄白・前野良沢の弟子で、家塾「老蔵堂」は当時、歯学の中心的役割を果たした。母や妻の被験協力を得て麻酔剤を開発した華岡青洲は、世界ではじめて、全身麻酔下での乳がん摘出手術を成功させた。

      返信する
    • File

      fanta

      2024/12/09

      79、80問バッチシ👌って遅っw😆

      改めて紀尾井坂って歩いたことないんで、
      そのうち散策してみたいです。

      交渉団がモヘンジョダロ寄ってたら
      渋いな~と笑

      華岡青洲の妻…って文庫本がそう言えばありますね。映画や舞台にもなってるかな。

      返信する
    • File

      T. S

      2024/12/09

      紀尾井坂、あのへんもなかなか良いですよ。大久保さんが殺された清水谷公園のあたりとか、当時の雰囲気が残っていると思います。
      近くには、旧赤プリの李王朝の華族館の洋館だとか、すこし移動したら今のプルデンシャルのビルのところがホテルニュージャパン跡地で、そこは226の料亭幸楽の跡地とか、戻って迎賓館とか、見所がたくさんある地域ですね。

      返信する