自然銀・針銀鉱 (native silver/acanthite) 多田鉱山(多田銀銅山) #0056

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ほとんど黒変していますが、矢印の先に自然銀と針銀鉱が観察できます。(1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

川辺郡猪名川町を中心とする東西20km、南北25kmの広大な鉱山地帯からなる「多田銀銅山」(2015年(平成27年)国史跡指定)のうち、特に品位の高い銀を有する鉱脈を有した猪名川町銀山が一般に「多田銀山」と呼ばれています。古くは「東大寺縁起」に742年(天平14年)に東大寺大仏鋳造のための銅を採らせたといい、「多田五代記」には多田源氏の祖源満仲が970年(天禄元年)に採銅が始めたといいますが確実な記録はなく、1037年(長暦元年)に摂津国能勢郡(現大阪府豊能郡)に銅が謙譲され、その後採銅所が置かれたという記録が史料上の初見とされます。下って天正年間(1573年~1592年)には現在の猪名川町域において豊臣秀吉が鉱山開発にあたり、台所間歩、瓢箪間歩、千石間歩など、秀吉ゆかりの坑道が今も残されています。江戸時代の1660年(万治3年)に大口間歩で銀の含有率の高い良好な鉱脈が発見され、翌1661年(寛文元年)に幕府の直山となり「銀山町」が置かれ、代官所と四つの口固番所が普請され、周辺70余村は「銀山付村」として幕府の直轄領となりました。1665年(寛文4年)には銀3,600貫目(約13トン)、銅75万斤(約450トン)を産出し吹屋の数は76軒、「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいを見せたといいます。しかしその後は多量の湧水により採鉱が困難となり、1682年(天和2年)には直山から請山に変わり口固番所も廃止され、以降は村民による小規模な銅の採鉱が行われました。明治時代に入って三菱による稼行となり、1895年(明治28年)には島根県の実業家堀藤十郎が「多田鉱山」という名称で採掘特許を得、1897年(明治30年)から近代化した設備により銀・銅・鉛を生産しましたが、金銀価格の下落により1908年(明治41年)に休山、その後1925年(大正14年)に久原鉱業(後の日本鉱業)に鉱業権が移り、1944年(昭和19年)以降は日本鉱業が操業を続けましたが、1973年(昭和48年)に閉山しました。

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