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2023 10TH BBURAGO ASTON MARTIN AMR23 L.STROLL
キャリアベストもアロンソには惨敗 L・ストロール ASTON MARTIN AMR23 2023年ランス・ストロールは F1キャリア7年目 アストンマーティン3年目 引退したセバスチャン・ベッテルに代わり フェルナンド・アロンソがチームメイト 開幕前TESTより好調のアストンマーティンは アロンソがシーズン8度の表彰台も ストロースは決勝4位が最高で表彰台無し 22戦中12回の入賞で74ポイント 年間ランキング10位は これまでのキャリアベスト しかしアロンは3倍弱の206ポイント ランキング4位と予選・決勝とも 大きく離される結果となった この年アストンマーティンは 2026年から新レギュレーションの パワーユニットをHONDAを使用すると発表 おそらく2026年シーズンも残留する見込みの ストロールにとってはメルセデス以外の 初のパワーユニットがHONDAとなる見込み モデルはBBURAGO GP表記の無いRACE CAR 仕様 2023年シーズンはBBURAGOラインナップに アストンマーティン加わった 2021年より同チームのタイトルスポンサーの 一つであったアメリカの多国籍IT企業 Cognizant(コグニザント)は この年をもってタイトルスポンサーを終了した
250415 L.STROLL 2023 18FW12C
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1974 12TH SPARK SURTEES TS16 C.PACE
サーティス史上最高予選2位も途中離脱 カルロス・パーチェ SURTEES TS16 1974年C・パーチェはサーティス2年目 チームメイトはヨッヘン・マスが加入 開幕戦よりニューマシンTS16を投入 R2ブラジルGP 予選12位と出遅れるも決勝は4位に入り パーチェの地元ブラジルは歓喜 R3南アフリカGP 予選2位 チームサーティス1970年~1979年まで のべ262台の予選出走の予選史上最高位 決勝は11位に沈む この後チームオーナーで元ワールドチャンピオン ジョン・サーティスとの関係が悪化しチームを離脱 プライベーターで1戦出場の後(予選落ち) ブラバムに移籍し生涯を過ごした モデルはSPARK R2ブラジルGP仕様 予選12位→決勝4位 チームサーティスはシーズン途中で ヨッヘン・マスも移籍 資金難もあり この年は8人のドライバーを起用 TS16のマシンは翌1975年も使用されたが 入賞はパーチェの4位 1回のみであった RN-2485
250312 C.PACE 1974 18FW12C
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1967 18TH SPARK (REG PARNELL RACING) LOTUS 25 BRM C.IRWIN
幻のHONDA F1-ドライバー クリス・アーウィン LOTUS 25 BRM クリス・アーウィン(イギリス) 18歳の時にかつてイギリスにあった 名門ジム・ラッセル・レーシングスクール (現在はカナダ・アメリカにて運営)で レーシングドライバーとして腕を磨く 1966年 ブラバムからスポット参戦 地元イギリスGPで決勝7位完走 1967年プライベーター REG PARNELL RACINGと契約し本格参戦 R3オランダGPはロータスのマシン R4ベルギーGPからはBRMのマシンを使用 R5フランスGP 予選9位→決勝5位入賞 結果的にアーウィン キャリア唯一の入賞 後1968年にHONDAと契約 1967年8月末のRA300のシェイクダウンを担当 1968年HONDAのセカンドドライバーとして ジョン・サーティスと共に参戦を予定していた 1968年序盤戦はHONDAの準備が遅れ1台体制 後半戦に2台目を準備予定であったが 他カテゴリーでアーウィンは大事故を起こし 重い障害が残りレーシングドライバーを引退 アーウィンのHONDAでの参戦は幻に終わった HONDAはR6フランスGPで2台目となる 日本から送られたR302を投入するも ドライバー ジョー・シュレッサーは このGPで帰らぬ人となった モデルはSPARK R3オランダGP仕様 予選17位→決勝7位 唯一のロータスのマシンでエントリー その後供給されたBRMのマシンで入賞 アーウィンはBRM本隊からドライバー契約を オファーされるもHONDAとの契約を選んだ 2441
250214 C.IRWIN 1968 18FW12C
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2001 12TH HOT WHEELS JAGUAR R2 E.IRVINE
自身2年ぶり ジャガー初の表彰台 エディ・アーバイン JAGUAR R2 2001年ジャガー2年目のアーバイン チームメイトは開幕当初ルチアーノ・ブルディ R5~はペドロ・デ・ラロサ日本参戦コンビ R7モナコGP 予選シーズンベストの6位 決勝J・ヴィルヌーブとの争いを制し3位 自身2年ぶり ジャガーは参戦2年目で初の表彰台 この時の表彰台はフェラーリの1.2フィニッシュで 1位ミハエル・シューマッハ 2位ルーベンス・バリチェロは いずれも元チームメイトであった R16アメリカGPで5位入賞と シーズン入賞は2回でランキング12位 チームはマクラーレンのデザイナー エイドリアン・ニューウェイの招集に失敗 チームオーナーの元F1ドライバー ボビー・レイホール失脚し 後任はニキ・ラウダが就任した アーバインはチームに残留 翌2002年F1ラストシーズンを迎える モデルはHOT WHEELS GP表記無い RACE CAR仕様 2年連続でHOT WHEELS から ジャガーのモデルが発売されたが 2002年のJAGUAR R3は未発売 アーバインのラストマシンは 現時点(2025年)でどのメーカーからも 量販モデルが発売されていない空白モデル 2436
250211 E.IRVINE 2001 18FW12C
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1991 (DNQ 39TH) SPARK AGS JH25B F.BARBAZZA
シーズン途中参戦 F.バルバッツァ 全戦予選・予備予選落ち AGS JH25B ファブリツィオ・バルバッツァ(イタリア出身) 1986年アメリカに活動を移し 1987年インディ500 3位表彰台 ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得 1989年全日本F3000にも参戦(6位1回) 1991年国際F3000参戦中 急遽フランスの小規模チームAGSからエントリー AGSは資金難でオーナーが変わり ベテランのステファン・ヨハンソンを解雇 資金持参のバルバッツァを起用した チームメイトはガブリエル・タルキーニ スペインGPのみオリビエ・グルイヤール R3サンマリノGPから参戦開始も 前半R8まで すべて予選落ち 後半戦予備予選組に回りこちらも通過できず チームはR14スペインGPを最後に撤退 バルバッツァはこの年F1デビューはならず 2年後1993年にミナルディから参戦する モデルはスパーク R8ドイツGP仕様 予選29位で予選落ち 前戦のフランスGPより変更された AGS発祥プロバンス地方の空をイメージした ブルー主体のカラーを纏うも結果は伴わず この後も予備予選落ちを繰り返した
250204 F.BARBAZZA 1991 18FW12C
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2004 18TH PMA JORDAN FORD EJ14 N.HEIDFELD (SEASON LIBRARY)
the story will be at a later date. 2404
250129 N.HEIDFELD 2004 18FW12C
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1955【WORLD CHAMPION】SPARK MERCEDES W196 str J.M.FANGIO〖🏆4〗
🔲🔲🔲1955🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 MERCEDES W196 str ⬜⬜J.M.FANGIO⬜⬜ 🔲🔲🔲全7戦🔲🔲🔲 【出走】6回【PP】3回 【優勝】4回【FL】3回 ファンジオ 3度目のチャンピオン モデルはSPARK 初期銀スリーブ R7イタリアGP仕様 予選PP→決勝WIN 1955年唯一のW196ストリームライン
250119 J.M.FANGIO 1955 3回FW12C
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1985 11TH PMA ARROWS BMW A8 T.BOUTSEN (BARCLAY)
ブーツェン初の表彰台2位 ARROWS BMW A8 BARCLAY仕様 ティエリー・ブーツェンはアロウズ3年目 チームメイトはゲルハルト・ベルガー ニューマシンA8はBMW M12エンジン チューナーは、ハイニ・マーダー R3サンマリノGP 予選ブーツェン初のシングルグリット5位 決勝ラスト3周でトップ走行の A・セナ(ロータス)/S・ヨハンソン(フェラーリ)が 相次ぎ燃料切れでリタイアもあり ブーツェンは3位フィニッシュ レース後トップでチェッカーを受けた アラン・プロスト(マクラーレン)が 最低重量規定違反で失格 ブーツェン初の表彰台は繰り上がり2位 ブーツェンのキャリア表彰台は15回 その後3度の入賞でランキング11位 予選・決勝ともG・ベルガーを圧倒した モデルはミニチャンプス 元々はDeLonghi(イタリア電気機器製造) ロゴのあるエンジンカバーを タバコブランドのBARCLAY仕様に変更 個人的にはじまりの1台である ARROWS BMW A8のブーツェンを もう1台所持してデカール変更実施 2373
250105 T.BOUTSEN 1985 18FW12C
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2004 18TH PMA JORDAN FORD EJ14 N.HEIDFELD
the story will be at a later date.
241111 N.HEIDFELD 2004 18FW12C
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1976 (30TH) IXO SURTEES TS19 B.LUNGER
燃えるラウダ車に衝突 その後救出劇 ブレッド・ランガー SURTEES TS19 前年度ヘスケスでデビューした B・ランガーは1976年サーティスで レギュラーシートを獲得 チームメイトはアラン・ジョーンズ アンリ・ペスカローロなど R11オーストリアGP 予選16位→決勝10位がともにベストリザルト R10ドイツGP ニキ・ラウダ(フェラーリ)のマシンが コントロールを失い炎上 コース中央に停止 これにランガーのマシンが衝突 燃え盛るマシンからH・アートル G・エドワーズ/A・メルツァリオと共に 捨て身でラウダを救出した この事故をきっかけにランガーは 物事の捉え方が変わり 自身を反省 生きるのならば少しでも良き人間になりたい と考えるようになったと後に語っている モデルはIXO 日本のデアゴスティーニ未発売モデル レインタイヤ装着 恐らくドイツGP仕様 当初はチェスターフィールド(タバコ)が スポンサーであったがイタリアの リキュール CAMPARIに変更された R16世界選手権in Japan(日本GP)には ランガーはエントリーせず 当該マシン SURTEES TS19で日本の高原敬武が出場 1976年 R10ドイツGP N.ラウダ救出 https://youtu.be/f-zk48lN0D0
241101 B.LUNGER Formula 1 Auto Collection 1976FW12C
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1963 5TH SPARK BRABHAM BT7 D.GURNEY
チームブラバム 初の表彰台 ダン・ガーニー BRABHAM BT7 1963年前年度ポルシェ初優勝をもたらした ダン・ガーニーはワールド・チャンピオン ジャクが立ち上げたブラバムに移籍 オーナー兼ドライバーのジャックと共に ブラバムフル参戦1年目を戦った R2ベルギーGP予選2位→決勝3位 チームブラバムに初の表彰台獲得 チームブラバムの通算表彰台は124回 続くR3オランダGP決勝2位 最終戦南アフリカGP2度目の2位 さらに自身とチームブラバムに 初のファステスト・ラップも獲得した 年間ではオーナーのジャックを上回る 19ポイント ランキング5位 翌1964年もブラバムに残留し 初PPと初優勝をもたらす事となる モデルはスパーク R3オランダGP仕様 予選は14位に沈んだものの ジム・クラーク(ロータス)が独走の中 追い上げて周回遅れながら2位獲得 チームブラバム初の2位表彰台 ブラバム初期の主力マシンBT7 エンジンはクライマックス1.5ℓV8
240630 D.GURNEY 1963 1回FW12C
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1977 (24TH) SPARK SURTEES TS19 V.SCHUPPAN
ヴァーン・シュパン F1ラスト キャリアベストリザルト SURTEES TS19 ヴァーン・シュパン オーストラリア出身 1972年 BRMでF1初エントリー 1974年 エンサイン 1975年 ヒル それぞれ数戦のみのスポット参戦 1977年 サーティスから途中エントリー チームメイトはビットニオ・ビランビラ R10イギリスGP 予選23位→決勝12位 R11ドイツGP 予選19位→決勝7位 決勝7位はシュパンのキャリアベスト R13オランダGP 予選落ちした所で チームを解雇されこれが最後のF1となった シュパンのドライバーキャリアはここからで 1981年 インディー500で 3位表彰台 1983年 ルマン24時間 ポルシェ925で優勝 同年全日本耐久選手権でも 3戦中2勝をあげてチャンピオン獲得している モデルはSPARK R11ドイツGP仕様 予選19位→ シュパンのキャリアベストの決勝7位 スポンサーdurexはイギリスを中心とした 世界シェア1/4を誇るコンドームのブランド
240611 V.SCHUPPAN 1977 18FW12C
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1970 25TH SPARK SURTEES TS7 D.BELL
ル・マン24時間 5度覇者 D・ベル F1唯一の入賞 SURTEES TS7 デレック・ベル イギリス出身 1968年 フェラーリでスポット(2戦)参戦 1969年 マクラーレン 1戦のみ 1970年 プライベーター(ブラバム)で出場後 R12アメリカGPにワールドチャンピオン ジョン・サーティスが立ち上げたチームの セカンドドライバーとして出場 予選13位からオーナー兼ドライバーの サーティスが早々にリタイアの中 トップ1周遅れながら6位入賞を果たす ベルは1974年まで毎年数戦エントリーするも F1でポイント獲得はこの時限り スポーツカーの分野では 1975年・1981年・1982年・1986年・1987年 ル・マン24時間で5度制覇 スポーツカー世界選手権でタイトルを2回 デイトナ24時間でも3回勝利している モデルはスパーク R12アメリカGP 予選13位→決勝6位 この年より参戦のチームサーティス オリジナルマシンのTS7は R7イギリスGPより使用され同等の スペックのマシンがベルにも与えられた TS7の設計にはサーティス自身も関わっている #1970年
240603 D.BELL 1970 18FW12C
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1999 16TH PMA PROST PEUGEOT AP02 O.PANIS
オリビエ・パニス F1 6年目 フレンチチームと決別 PROST AP02 前年度ノーポイントに終わったパニス 1999年もヤルノ・トゥルーリと共に プロスト グランプリに残留 R2ブラジルGPで予選13位から 2年ぶりとなる6位入賞を果たすと R7地元フランスGPでは予選3位と健闘 途中完走率の高いパニスは7戦連続の完走と 粘りの走りを見せたものの R10ドイツGPの2度目の6位と 入賞は僅かに2回に終わり シーズンで2ポイント 16位に終わった 1994年リジェ~プロストと6年過ごした フランスチームから離脱 翌2000年はウイリアムズからのオファーが 単年であったこともあって断り マクラーレンのテストドライバーとして契約 この時のテストドライバーしての働きが 再びパニスの評価を上げて 2001年はBARでF1に復帰する モデルはミニチャンプス タバコ ゴロワーズはバーコード仕様 何故か台紙の車体表記が PROST GRAND PRIX 1999 となっている
231023 O.PANIS 1999 18FW12C
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1976 (45TH) SPARK SURTEES TS19 C.ANDERSSON
F1通算 1戦限りの決勝進出 コニー・アンダーソン SURTEES TS19 コニー・アンダーソン(スウェーデン) 1974年スウェーデンF3チャンピオン 1975年ヨーロッパF3でモナコで1勝 1976年R12オランダGP スポット参戦 サ―ティスにB・ランガーの代役で出場 参戦当時の年齢は36歳の遅咲き 予選は26位でギリギリの通過も 決勝は9周でエンジントラブルでリタイア 車体はタバコブランド チェスター・フィールドがスポットポンサー アンダーソンはこの年1戦限りの出場で 翌1977年はBRMで参戦も4戦全て予選落ち 以後参戦は無くF1通算1戦限り この1976年 サ―ティスのカーNo18は 最終のF1選手権イン・ジャパン(富士SW)で 高原敬武が使用している https://muuseo.com/FW12C/items/1501?theme_id=35914
230615 C.ANDERSSON 1976 18FW12C