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2014 17TH SPARK MARUSSIA FERRARI MR03 J.BIANCHI
鈴鹿での悲劇 永久欠番〖17〗 ジュール・ビアンキ MARUSSIA MR03 2014年 ジュール・ビアンキはマルシャ残留 チームメイトは前年同様マックス・チルトン R6モナコGP ギアボックス交換もあり21番手スタート 他車にアクシデント/トラブルが多数発生 ビアンキの粘りの走りもあり8位フィニッシュ レース後5秒のペナルティがあり 順位落とすも自身初の9位入賞を果たす マルシャの前身2010年から参戦バージンを含め 翌2015年マノー・マルシャとして参戦する 同チームのF1史上唯一のポイントであった R15日本GP鈴鹿 決勝ウエットコンディションでコースアウトした エイドリアン・スーティル(ザウバー)車を 撤去するために出ていたクレーン車に ビアンキのマシンが衝突 頭部に重傷を負い意識が戻らないまま 9カ月にわたって治療を受けたが 翌2015年7月17日にこの世を去った 享年25歳 F1走行セッション中のドライバーの死亡事故は 1994年R3サンマリノGP ローランド・ラッツェンバーガー アイルトン・セナ以来 21年ぶりのことであった ジュール・ビアンキの事故後 バーチャル・セーフティーカー(VSC) システムの導入が開始され また頭部保護デバイスの導入が本格的に議論され 2018年からHalo(ヘイロー)と呼ばれる 頭部保護デバイスが導入されることとなった ビアンキのカーナンバー〖17〗は永久欠番となり 彼の死後初のレースとなった 2015年R10ハンガリーGPでは 各マシンに〖#JB17〗のステッカーが貼られた #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇫🇷ジュール・ビアンキ (フランス) 【決勝出走数】34回 (入賞1回) 【予選最高位】12位 2014年 MARUSSIA R09 イギリス 【決勝最高位】9位 2014年 MARUSSIA R06 モナコ 【年間最上位】⓱位 2014年 MARUSSIA 2ポイント
250402 J.BIANCHI 2014 17FW12C
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1971 2ND QUARTZO MARCH 711 R.PETERSON
ロニー・ピーターソン 初入賞 独創的フロントウイング MARCH 711 前年度プライベータでF1デビューした ロニー・ピーターソン(スウェーデン)は 1971年はマーチのワークスでエントリー マーチはエンジンをコスワースDFVと アルファロメオをドライバーで使い分け ピーターソンは主にコスワースDFV車 ティートレイと呼ばれた フロントウイングは楕円形の独特のもので フロントノーズ先端から支柱を伸ばした形 ピーターソンはR3モナコで2位初入賞 その後優勝はなかったものの 2位4回 3位1回の表彰台4回で33P 参戦2年目ながら年間ランキング2位 マーチ711の車体でピーターソン以外の ワークスドライバーは全てノーポイント ウイリアムズで711を使用した アンリ・ペスカローロが2度入賞をしている モデルはQuartzo R3モナコGP仕様 予選8位→決勝2位 ピーターソンの初入賞&初表彰台 キャリア表彰台は26回 入賞は42回 QFC品番のQuartzoの後期の発売モデル 台座に直接 車体名等がプリントされている https://muuseo.com/FW12C/items/1901?theme_id=34513
240306 R.PETERSON 1971 17FW12C
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1977 16TH SPARK SHADOW DN5B R.ZORZI
チームメイトの悲劇 R.ゾルツィ SHADOW DN5B レンツォ・ゾルジ イタリア出身 1975年 ヨーロッパF3 3位(1勝) 同年・翌1976年にウイリアムズで 各1戦 資金持ち込みでF1出場 1976年 後のアロウズチーム設立の1人 フランコ・アンブロオの支援を受けて シャドウのシート獲得 チームメイトはトム・プライス R2ブラジルGP 予選18位 決勝は完走7台のサバイバルの中 生き残りキャリア唯一となる6位入賞 悲劇はR3南アフリカGP ゾルジはエンジンが壊れコース脇に マシンを止めたが小規模な火災が発生 その火災の消火を試みたマーシャルが コースを横切りゾルジのマシンに向かう際 レース中のチームメイトのトム・プライスの マシンにはねられ死亡 プライスもマーシャルの消火器が直撃し 帰らぬ人となってしまった ゾルジはR5スペインGPまでの出場で 資金が尽きてシートを失い これがF1での最後のレースとなった モデルはスパーク ゾルジのキャリア唯一入賞の R2ブラジルGP 予選18位→決勝6位 旧型のDN5Bの漆黒マシン #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇮🇹レンツォ・ゾルジ (イタリア) 【決勝出走数】7回 (入賞1回) 【予選最高位】⑰位 1976年 WILLIAMS R1 ブラジル 【決勝最高位】⑥位 1973年 SHADOW R2 ブラジル 【年間最上位】⓰位 1973年 SHADOW 1ポイント
240224 R.ZORZI 1977 17FW12C
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2000 (18TH) PMA RED BULL SAUBER PETRONAS C19 P.DINIZ
ペドロ・ディニス 有終の美とはならず 最後のマシン SAUBER PETRONAS C19 2000年ペドロ・ディニスはザウバー残留 チームメイトは1998年にアロウズでも 同僚であったミカ・サロが加入 ディニスの地元R2ブラジルGPでは リアウイングが脱落するアクシデントで チームは2台とも予選終了後に欠場した ディニスの予選最高はR15アメリカGP9位 決勝最高はR6ヨーロッパGP7位 参戦初年度1995年フォルティ以来の シーズンノーポイントに終わる その資金力から多数のオファーが あったもののディニスはドライバーを引退 翌2001年はチームプロストの株式40%を 取得し共同オーナーとなったが チームを取得を目指しプロストと対立 シーズン半ばでF1界から去って行った モデルはミニチャンプス 最終戦R17マレーシアGP仕様 予選20位→決勝リタイア ディニスのF1ラストレース 車体にマレーシアの国旗が描かれている #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇧🇷ペドロ・ディニス (ブラジル) 【決勝出走数】98回 (入賞8回) 【予選最高位】⑦位 1997年 ARROWS R12 ベルギー 【決勝最高位】⑤位(2回) 1997年 ARROWS R15 ルクセンブルグ 1998年 ARROWS R13 ベルギー 【年間最上位】⓮位(2回) 1998年 ARROWS 3ポイント 1999年 SAUBER 3ポイント
240221 P.DINIZ 2000 1.999FW12C
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1969 (20TH) Quartzo (Team Gunston) BRABHAM REPCO BT24 S.TINGLE
ローデシア出身 サム・ティングル 最後の出走 BRABHAM REPCO BT24 サム・ティングル ローデシア出身 ローデシアは現在のジンバブエで F1での同国出身エントリーは3名のみ ティングルは隣国であった南アフリカGPのみを スポット参戦1963年~1969年で5回出走 1969年はプライベターTeam Gunston マシンはブラバム レプコ BT24 開幕戦の南アフリカGP 予選はタイム出した中で最下位の17位 決勝はトップから7周遅れながら8位完走 キャリア5回の中でベストリザルト ティングルはこれがF1最後のレースとなり 最終レース時の年齢は47歳であった F1本戦ではポイント獲得はならなかったものの F1非選手権では3度の入賞がある モデルはQuartzo 南アフリカGP仕様 予選17位→決勝8位 Gunstonは南アフリカタバコで ブランドカラーはオレンジ 前年の1968年にF1で初めて タバコのスポンサーカラーを マシンに取り入れたのが このプライベートチームであった
240130 S.TINGLE 1969 17FW12C
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1982 (28TH) SPARK MARCH 821 J.MASS (ROTHMANS)
ヨッヘン・マス 最後のマシン ロスマンズカラー MARCH 821 1982年マーチ・エンジニアリングは R3アメリカWEST GPより タバコのロスマンズがスポンサーが付き それに伴いカラーリングも大幅変更 R4サンマリノGPでマスはこのマシンで ジル・ビルヌーブと接触の事故となり この事故でジルは帰らぬ人となった R11フランスGP決勝で今度はマスが マウロ・バルディとの接触事故となり 自身F1からの引退を表明した F1引退後マスはスポーツカー選手権を 主戦場としてレーサーは継続して ルマン24時間では1989年の 総合チャンピオンとなっている 🏁ヨッヘン・マス (ドイツ) 【決勝出走数】105回(入賞28回-表彰台8回) 【予選最高位】 4位(3回) 1976年 McLAREN R2南アフリカ 1976年 McLAREN R4スペイン 1977年 McLAREN R2ブラジル 【決勝最高位】 優勝 1975年 McLAREN R4スペイン https://muuseo.com/FW12C/items/1477?theme_id=31619
231106 J.MASS 1982 17FW12C
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1964 13TH SPARK (SCUDERIA CENTRO SUD) BRM P57 T.MAGGS
最高位2位ドライバ― トニー・マッグス 自身最後の入賞 BRM P57 トニー・マッグス 南アフリカ出身 1960年ヨーロッパジュニアフォーミュラで ジョー・シフェールと同点でチャンピオン F1での南アフリカ人初入賞・初表彰台獲得者 過去に同国の表彰台獲得ドライバ―は ジョディ・シェクターと2人のみ 1962年・1963年にクーパーで 2位表彰台を各1回 記録している 最高位2位ドライバ―の1人 1964年はプライベートチームで BRMの型落ちマシンP57で5戦にエントリー この時のBRMのレギュラードライバーは グラハム・ヒル / リッチ・ギンザー マッグスはR6ドイツで予選16位→決勝6位 R7オーストリアで予選19位→決勝4位 いずれも予選下位から追い上げての入賞 オーストリアでの4位が 自身F1での最後の9回目の入賞であった 翌1965年 2年ぶりの開催の地元 南アフリカGPに参戦してF1からは引退した #F1-1964年
230417 T.MAGGS 17 1/43FW12C
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1981 (23RD) SPARK MARCH 811 D.DALY
複雑怪奇 マーチ・レーシング デレック・デイリー MARCH 811 1980年イギリスのレーシングチーム RAMはウイリアムズFW07のマシンで 参戦していたが マーチ創設者の一人である マシンデザイナーのロビン・ハード手を組み 【マーチ・グランプリ】を設立 しかしこれは1970年代に参戦した 【マーチ・エンジニアリング】とは無関係 1981年ハードはRAMのF1参戦のために マシンをハードが持つ別会社 【マーチ・エンジンズ】にて設計 最終的にRAMレーシングが 【マーチ・レーシングチーム】として 70代とは違うマーチでの参戦と複雑 当初はE・サラザールとD・デイリーの 2台体制であったが連続の予選落ち サラザールがエンサインに離脱後 デイリー1名体制となりチームは改善 ポイント獲得はならなかったものの 決勝最高位はR9イギリスGPの7位 モデルはR10ドイツGP仕様 (予選21位→決勝リタイア) アイルランド発祥のビール醸造会社 Guinness(ギネス)がメインスポンサー #F1-1981年
D.DALY 350 17 1/43FW12C
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2011 (20TH) SPARK SAUBER C30 FERRARI P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230328 P.DE.LA.ROSA 17 1/43FW12C
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1968 (26TH) SPARK (TEAM GUNSTON) BRABHAM BT20 J.LOVE
F1歴史上唯一 南ローデシア ドライバ― ジョン・ラブ BRABHAM BT20 ジョン・ラブ 南ローデシア出身 南ローデシアはアフリカ南部に位置する 旧イギリスの植民地で現在のジンバブエ こちらの出身ドライバ―はF1史上唯一 ラブは南アフリカGPのみを 毎年スポット参戦するドライバ― 1962年~1972年までエントリー 1964・1966年は南アフリカGPが未開催だが 1964年のみ代役でイタリアGPに エントリーも予選落ちしている このモデルは1968年のマシンで 1966・1967年のチャンピオンマシンである ブラバムBT20を購入してプライベート TEAM GUNSTONより参戦 フロントサス横に自身の名前を 赤地に白文字で【JOHN LOVE】と大きく 描かれたオレンジ色のマシンで 予選17位→決勝9位完走している ラブはF1では前年の1967年に 自身唯一の入賞を2位表彰台で飾っており 1964年の初代含む1969年まで 6度の南アフリカF1選手権チャンピオン #F1-1968年
230312 J.LOVE 17 1/43FW12C
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1982 (28TH) SPARK MARCH 821 J.MASS
マーチだけどマーチじゃない ヨッヘン・マス F1ラストイヤー 1982年1年F1を離れたヨッヘン・マスは マーチ・グランプリで復帰 このマーチはRAMが母体となっており 1970年代のマーチ・エンジニアリングと異なる この複雑な状況な為 マーチだけどマーチじゃないと 母国のイギリスでは言われている モデル仕様の開幕戦南アフリカGPは グリーンとブラックのカラーリングで メインスポンサーの1つとして フランス手巻きタバコ リズラ+が付いている しかしマスは個人契約で マールボロドライバ―の為 ヘルメットとスーツには同社のロゴが添付 更にこのマシンの後半戦はタバコの ロスマンズがスポインサーとなる マーチの名称 タバコスポンサーなど なんともややこしい1台が ヨッヘン・マスの最後年 ドイツのマニアック車リリースの レースランド別注シリーズ 🏁ヨッヘン・マス (ドイツ) 【決勝出走数】105回(入賞28回-表彰台8回) 【予選最高位】 4位(3回) 1976年 McLAREN R2南アフリカ 1976年 McLAREN R4スペイン 1977年 McLAREN R2ブラジル 【決勝最高位】 優勝 1975年 McLAREN R4スペイン #F1-1982年
230310 J.MASS 350 17FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI
AGS 3年目ガブリエル・タルキーニ 開幕戦サバイバル 8位完走 資金難で参戦も危ぶまれたAGSであったが チームオーナーも変わり何とかエントリー G・タルキーニはAGS 3年目 AGS初年度の1989年に6位入賞の経験持つ チームメイトはステファン・ヨハンソン 3戦目よりファブリツィオ・バルバッツァ 開幕戦アメリカGP フェニックス市街地 前年の成績(Y・ダルマスの9位)により 予選からのエントリーで22位で通過 決勝は4週遅れながら8位完走 モデル仕様のR4モナコGPで シーズンベストの予選20位で通過 決勝はギアボックストラブルでリタイア このGPが1986年から参戦AGS 最後の49回目の決勝進出となった 数少ないAGS(フランス)スポンサーの中 フロントウイングにイタリアのBBURAGO この時代のモデル発売を狙っていた? このモデルはタルキーニ ヨハンソン車が 販売されたがバルバッツァの リリースのアナウンスが無い SPARKは以前よりマイナードライバ―も しっかりリリースしてきたので 何か版権の問題なのか…不明 #F1-1991年
230308 G.TARQINI 17 1/43FW12C
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1975 18TH CP MODEL SHADOW DN7 J.P.JARIER
シャドウ 2戦限りのマトラエンジン ジャン・ピエール・ジャリエ SHADOW DN7 1975年シャドウに残留したJ・P・ジャリエ チームメイトはトム・プライス ジャリエは開幕2戦 予選連続PPを獲得 ジャリエとチームシャドウ初の快挙 しかし開幕のアルゼンチンはスタートできず R2ブラジルGPもトラブルでリタイア R4スペインGPは観客を巻き込む事故が発生 ジャリエは4位走行中に途中で打ち切り 入賞を果たすもハーフポイントの1.5ポイント シーズンでの入賞はこの1回限り R12オーストラリアGPではブラバムとヒルとの 争奪戦に勝ちマトラV12エンジンを獲得 ニューマシンのSHADOW DN7を導入 しかしもともとコスワースエンジンを搭載の DN5の車体がベースの為 マトラV12では マシンの重量バランスが狂い直線が伸びず 僅か2戦のみでマトラとの関係解消した モデルはCP MODELで2戦限りの マトラエンジン搭載のDN7をリリース SHADOW DN7はジャリエのみが決勝で走行した #F1-1975年
230218 J.P.JARIER 1975 1回FW12C
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1990 (32ND) SARK AGS JH25 G.TARQINI
ガブリエル・タルキーニ 2年越しの14戦連続予備予選落ち 前年の1989年AGSでF1初ポイント獲得の G・タルキーニは1990年もAGSに残留 チームメイトはヤニック・ダルマス R3サンマリノGPよりニューマシン AGS JH25を投入したが予備予選の壁が厚く 開幕から6戦連続予備予選落ち タルキーニは前年度のR9ドイツより 14戦連続の予備予選落ち AGS地元のR7フランスGPでは予備予選通過 したものの予選通過はならず 1989年R8イギリスGP含め16戦連続不通過 1990年R8イギリスGPで初の決勝進出含め この年の決勝進出は4レースのみ 決勝はモデル仕様のR10ハンガリーGPの 予選24位→決勝13位 が唯一の完走 資金難で参戦継続が危ぶまれたが 1991年もタルキーニはAGSで参戦 #F1-1990年
G.TARQINI 17 1/43 AGSFW12C
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1978 16TH SPARK SHADOW DN8 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ シャドウ移籍 チーム主力離脱の混乱の中 5位入賞2回 1978年シャドウはチームの主力が離脱 新たにアロウズを立ち上げチーム内が混乱 ドライバーはC・レガッツォーニと H・J・シュトックのベテランコンビ 前半は前年A・ジョーンズが初優勝を もたらしたSHADOW DN8で戦い レガッツォーニはR2ブラジルGPで 予選15位→決勝5位入賞(モデル仕様) R4モナコGPより新車DN9を投入も デザイナーのトニー・サウスゲートが アロウズに移籍に伴い熟成進まず 予選落ちを4回(年間で5回)と不振 年間では5位2回 4ポイントで16位 DN9はアロウズA1とデザインが酷似 どちらもサウスゲートのデザイン SHADOW はデザインの盗用であると訴え 法廷闘争に持ちこみ勝訴したが チームの成績は上昇せず 2人のドライバ―ともシャドウを離脱し 翌1979年レガッツォーニはウイリアムズへ移籍 #F1-1978年 #1978年
230116 C.REGAZZONI 1978 17FW12C