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1974 12TH SPARK SURTEES TS16 C.PACE
サーティス史上最高予選2位も途中離脱 カルロス・パーチェ SURTEES TS16 1974年C・パーチェはサーティス2年目 チームメイトはヨッヘン・マスが加入 開幕戦よりニューマシンTS16を投入 R2ブラジルGP 予選12位と出遅れるも決勝は4位に入り パーチェの地元ブラジルは歓喜 R3南アフリカGP 予選2位 チームサーティス1970年~1979年まで のべ262台の予選出走の予選史上最高位 決勝は11位に沈む この後チームオーナーで元ワールドチャンピオン ジョン・サーティスとの関係が悪化しチームを離脱 プライベーターで1戦出場の後(予選落ち) ブラバムに移籍し生涯を過ごした モデルはSPARK R2ブラジルGP仕様 予選12位→決勝4位 チームサーティスはシーズン途中で ヨッヘン・マスも移籍 資金難もあり この年は8人のドライバーを起用 TS16のマシンは翌1975年も使用されたが 入賞はパーチェの4位 1回のみであった RN-2485
250312 C.PACE 1974 18FW12C
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1990 (DONQ 38TH) LIFE L190 W12 B.GIACOMELI
理想と現実 W型 4気筒3列配置 12気筒エンジン LIFE L190 W12 ブルーノ・ジャコメリ 1977~78年にF1参戦経験もある イタリア人 ランベルト・レオーニ設立 ファースト・レーシング設計のL189は クラッシュテストが不通過で売却 そのマシンが1990年ライフ・L190としてF1参戦 何といってもその特徴はオリジナル W型 4気筒3列配置 V12エンジン コンパクトなのに重い… 芸術品であった 開幕戦~2戦は ワールドチャンピオン ジャック・ブラバムの次男 ゲイリー・ブラバムを起用も早々に離脱 R3~は6年ぶりにF1復帰となった ブルーノ・ジャコメリ(イタリア)を起用 ジャコメリ曰く 「こんなマシン誰が乗っても一緒さ 何ならあんた乗ってみるかい?」という感じ まともに走らないマシンは R3サンマリノGPの予備予選で 1周 7分16秒212 を記録 R13~はライフW12エンジンをあきらめて JUDD V8エンジンを搭載も好転する事は無く R14 スペインGPでライフは撤退 日本GPでライフを見ることは出来なかった LIFE L190 W12は全戦予備予選落ちも そのエンジンが人々の記憶に残るとともに 1970年後半~1980年前半活躍したドライバー ブルーノ・ジャコメリの最後のマシンであった モデルはSPARK R10ハンガリーGP 予備予選 最下位9位 大阪のモデルガレージ ロム別注モデル マシンだけでなくエンジンも再現されている #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇮🇹ブルーノ・ジャコメリ (イタリア) 【決勝出走数】69回 (入賞6回-表彰台1回) 【予選最高位】PP🏁 1980年 ALFA ROMEO R14 アメリカEAST 【決勝最高位】③位 1981年 ALFA ROMEO R15 アメリカ 【年間最上位】⓯位 1981年 ALFA ROMEO 5ポイント
250309 B.GIACOMELLI 1990 39FW12C
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2023 14TH SPARK ALPHA TAURI AT04 Y.TSUNODA
日本人ドライバー3人目のFL記録 角田裕毅 ALPHA TAURI AT04 2023年 角田はアルファタウリ3年目 チームメイトは次々代わり3名 ニック・デ・フリース ダニエル・リカルド リアム・ローソン R12ベルギーGPでシーズン3度目の10位入賞 これで角田は前年より入賞が 5回連続入賞ギリギリの10位と珍しい記録 R18アメリカGP 10位走行の角田は最終周に仕掛け 1分38秒139のファステストラップを記録 1989年 R16オーストラリアGP 中嶋悟 (LOTUS) 2012年 R3中国GP 小林可夢偉 (SAUBER) 以来日本人ドライバー史上3人目のFL FLでのポイント獲得(1P)日本人初 このGPは10位でフィニッシュ 6連続入賞10位かと思われたが レース後2人失格で8位に繰り上がった 最終的には入賞は6回で年間ランキングは14位 翌2024年も角田はチームに残留 チーム名称がアルファタウリ→RBに変更された モデルはSPARK R22ラスベガスGP仕様 予選20位→決勝18位 終盤2戦のスペシャルカラーモデル カリフォルニア出身のアーティスト ブレンダン・モンロー氏とコラボした 車体を流れるような白黒ストライプカラー 更にバンダイナムコ・アメリカ社と 1戦限りのパートナーシップを締結 マシンコックピット両サイドに 〇RX-78-2ガンダム 〇XVX-016 ガンダム エアリアル のデカールが貼られた
250308 Y.TSUNODA 2023 1回FW12C
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1977 18TH SPARK (THEODORE RACING) ENSING N177 P.TAMBAY
徳利賽車隊 セオドールF1参戦 パトリック・タンベイ ENSING N177 1970年代当時の本拠地はイギリス領香港 1974年にエンサインのスポンサーとして F1参入していたセオドール・レーシングは 1977年チーム設立 エンサインのマシンを購入し ドライバーは新人のパトリック・タンベイを起用 パトリック・タンベイはR9フランスGPに サーティスからエントリーも予選落ち R10ドイツGPからセオドールで参戦 セオドール2戦目のR11イギリスで6位入賞 R13オランダ/R16カナダで5位入賞 R17日本(富士SW)予選12→決勝リタイアも チーム/タンベイとも上々の1年目 タンベイは翌1978年マクラーレンに移籍 エンサインはオリジナルマシンTR1を投入 エディー・チーバー/ケケ・ロズベルグ起用も 1978年早々に第一期セオドールは撤退した モデルはSPARK R16カナダGP仕様 予選12位→決勝5位 フロントノーズには香港チーム名 徳利賽車隊 この年セオドール本隊のドライバーは クレイ・レガッツォーニ 5位2回 6位1回 5ポイントでタンベイと並んだが 次点成績の差で年間順位は 17位クレイ・レガッツォーニ(エンサイン) 18位パトリック・タンベイ(セオドール)となった RN-2466
250227 P.TAMBAY 1977 23FW12C
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1974 17TH SPARK SHADOW DN3 T.PRYCE
ウエールズの星 F1初ポイント トム・プライス SHADOW DN3 トム・プライス (イギリス ウエールズ) メカニックとして働きながらF3 F2に参戦 1974年 マイナーチーム トークンからデビュー ベルギーGP 1戦限りで 決勝リタイア R8オランダGP~シャドウで本格参戦 シャドウはピーター・レブソンを失って B・レッドマン/B・ルースをスポット その後プライスを最終戦まで起用した チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ シャドウ2戦目となる R9フランスGP 予選3位(決勝はリタイア) R10イギリスGP 予選5位→初完走決勝8位 R11ドイツGP 予選11位→初入賞決勝6位 いきなり非凡な才能を見せた その後は入賞は無かったものの ジャリエに勝るとも劣らない走りを見せ 翌1975年もシャドウのシート獲得した モデルはSPARK R11ドイツGP仕様 予選11位→決勝6位 プライスの初入賞モデル プライスのキャリア入賞回数は9回 キャリアのほぼすべてをSHADOWで過ごした 発売初期のシルバースリーブ SPARKロゴ
250223 T.PRYCE 1974 16FW12C
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1984 18TH SPARK LIGIER JS23 A.DE.CESARIS
Marlboro→GITANESへ移籍 A・チェザリス LIGIER JS23 1984年チェザリスはリジェに移籍 チームメイトはフランソワ・エスノー チェザリスは父がフィリップモリス社の2 重役という事もありMarlboro契約ドライバー (本人曰く父の影響ではないと主張している) デビューからアルファロメオと マクラーレンのMarlboroチームであったが この年はフランスのリジェの移籍 タバコブランドGITANESのマシンで出場となった R2南アフリカ 予選14位→5位入賞 R4サンマリノ 予選12位→6位入賞 R6モナコ シーズンベスト予選7位(→決勝リタイア) 前半は及第点であったが 後半は一転苦戦で入賞無し 16戦中リタイア9回 年間で3ポイント ランキング18位 チームメイトのエスノーは年間ノーポイント リジェ初のルノーエンジンは不発に終わるが チェザリスは翌1985年もリジェに残留 モデルはSPARK R2南アフリカGP仕様 予選14位→決勝5位 タバコブランドGITANESデカール貼付 ルノーエンジンはリジェ初の ターボエンジン車でもあった タイヤはフランスのミシュラン チェザリスはこの年以降 1985年~1990年までは年間入賞回数が 1回または0回と低迷が続く 2453
250221 A.DE.CESARIS 1984 26FW12C
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1974 (33RD) SPARK SURTEES TS16 H.KOINIGGO
F1決勝2戦目で壮絶事故死 H.コイニク SURTEES TS16 ヘルムート・コイニク(オーストリア) フォーミュラ・フォード/ツーリングカーを経て 1973~1974年はルマン24H参戦も連続リタイア 1974年R12地元オーストリアGP プライベーターで参戦も予選落ち R14カナダGPサーティスより参戦 サーティスはこの年コイニクで8人目ドライバー チームメイト デレク・ベルは予選落ち コイニクは予選22位→決勝10位完走 R15アメリカGP ワトキンズ・グレン・サーキット 予選23位で通過 チームメイト J・ドレム26位 決勝10周目に悲劇 サスペンショントラブルで曲がり切れず 三段ガードレールに接触したマシンは 最下段を突き破って直進 コイニクはマシン上部もろとも切断され 残念ながら即死 享年25歳 原因はガードレールの構造上の欠陥とされている 同サーキットでは前年の同じ10月6日に フランソワ・セーベル(ティレル)も事故死 2年連続で残念な事故が起こってしまった モデルはスパーク R14カナダGP仕様 予選22位→決勝10位 以前はお台場ビーナスフォート内にあった 京商ビレッジが有明に移転して購入 1度目は熟考し購入スルーしたのですが コイニクのマシンがどうしても気になって 再び翌日来店購入した想い出のある1台 2452
250220 H.KOINIGGO 1974 19FW12C
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1977 (31ST) SPARK SHADOW DN8 J.OLIVER
4年ぶり1レースのみのF1復帰 ジャッキー・オリバー SHADOW DN8 1977年シャドウは途中ドライバーが変更 トム・プライス(事故)→アラン・ジョーンズ レンツオ・ゾルジ(資金切)→リカルド・パトレーゼ パトレーゼは当初参戦のF2を優先し数戦欠場 R8スウェーデンGPは代役として 当時はシャドウの経営陣の一人であった ジャッキー・オリバーが4年ぶりにF1復帰 予選16位通過→決勝9位完走 これがオリバーのF1最後のレースとなった 同年F1非選手権では5位入賞を果たしている シャドウはアラン・ジョーンズの初優勝など 23ポイント獲得で創設以来最高の成績 しかしオリバー含む主要スタッフが離脱 オリバーはチームを離れた5人を中心に A アンブロジオ (フランコ・アンブロオ) R リース (アラン・リース) O オリバー(ジャッキー・オリバー) W ウォス (デイブ・ウォス) S サウスゲート(トニー・サウスゲート) アロウズを設立し1978年から参戦(~2002年) フットワークやTWRに売却しながらも オリバーは1999年までチームに携わった #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇬🇧ジャッキー・オリバー (イギリス) 【決勝出走数】49回 (入賞5回-表彰台2回) 【予選最高位】②位 1968年 LOTUS R7 イギリス 【決勝最高位】③位(2回) 1968年 LOTUS R12 メキシコ 1973年 SHADOW R14 カナダ 【FastestLap】🏁1回 1968年 LOTUS R9 イタリア 【年間最上位】⓮位 1973年 SHADOW 4ポイント
250219 J.OLIVER 1977 16FW12C
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1967 18TH SPARK (REG PARNELL RACING) LOTUS 25 BRM C.IRWIN
幻のHONDA F1-ドライバー クリス・アーウィン LOTUS 25 BRM クリス・アーウィン(イギリス) 18歳の時にかつてイギリスにあった 名門ジム・ラッセル・レーシングスクール (現在はカナダ・アメリカにて運営)で レーシングドライバーとして腕を磨く 1966年 ブラバムからスポット参戦 地元イギリスGPで決勝7位完走 1967年プライベーター REG PARNELL RACINGと契約し本格参戦 R3オランダGPはロータスのマシン R4ベルギーGPからはBRMのマシンを使用 R5フランスGP 予選9位→決勝5位入賞 結果的にアーウィン キャリア唯一の入賞 後1968年にHONDAと契約 1967年8月末のRA300のシェイクダウンを担当 1968年HONDAのセカンドドライバーとして ジョン・サーティスと共に参戦を予定していた 1968年序盤戦はHONDAの準備が遅れ1台体制 後半戦に2台目を準備予定であったが 他カテゴリーでアーウィンは大事故を起こし 重い障害が残りレーシングドライバーを引退 アーウィンのHONDAでの参戦は幻に終わった HONDAはR6フランスGPで2台目となる 日本から送られたR302を投入するも ドライバー ジョー・シュレッサーは このGPで帰らぬ人となった モデルはSPARK R3オランダGP仕様 予選17位→決勝7位 唯一のロータスのマシンでエントリー その後供給されたBRMのマシンで入賞 アーウィンはBRM本隊からドライバー契約を オファーされるもHONDAとの契約を選んだ 2441
250214 C.IRWIN 1968 18FW12C
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◆COKE077◆ TINY x SPARKY 1970 PORSCHE 917 KH KYALAMI 9H TEAM GUNSTONE【Coca-Cola】
〖TINY x SPARKY〗 1970 PORSCHE 917 KH KYALAMI 9H TEAM GUNSTONE 【Coca-Cola】 RACING DRIVERS: 🛞JOHN・LOVE 🛞RICHARD・ATTWOOD ◆COKE077◆
250213 Coca-Cola KYALAMI 9H TEAM GUNSTONE 1970年FW12C
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2015 【WORLD CHAMPION】SPARK MERCEDES F1 HYBRID W06 L.HAMILTON〖🏆11〗
🔲🔲🔲2015🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 MERCEDES F1 HYBRID W06 ⬜⬜ L.HAMILTON⬜⬜ 🔲🔲🔲全19戦🔲🔲🔲 【出走】19回【PP】10回 【優勝】11回【FL】07回 通算3度目のワールドチャンピオン ドライバーズタイトル2連覇 前年度チャンピオンにも関わらず CAR No.は継続して〖44〗を選択 開幕戦ハットトリックでの勝利から シーズン1度もポイントリーダーを 譲ることなく2年連続2桁(11勝)勝利 モデルはR16アメリカGP 予選2位→決勝 WIN この勝利で2年連続 自身3度目の ワールドチャンピオンを獲得 2015 WORLD CHAMPIONボード付
250209 L.HAMILTON 2015 7回FW12C
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1962 17TH SPARK(ECURIE MAARSBERGEN)PORSCHE 718 C.G.DE.BEAUFORT
オランダ人ドライバー F1初入賞 C.G.DE.ボーフォール PORSCHE 718 カレル・ゴダン・ド・ボーフォール(オランダ) オランダ貴族かつ政治家の出生 幼少期は マールスベルゲンという名のお城に住み 東京ドーム約34個分の広大な敷地を所有 1957年 自身のプライベートチーム エキュリー・マールスベルゲンを立ち上げ ポルシェ RSKでオランダGPに参戦 F1初のポルシェマシンでの出走 1961年から本格参戦を開始 1962年開幕戦地元オランダGP 予選14位→決勝6位自身初入賞 オランダ人ドライバーにとっても初入賞 R4フランスGPでも6位入賞 翌1963年も2度の入賞はいずれも6位 生涯4度の入賞すべて6位 2024年現在においてもオランダ人ドライバー 入賞回数はフェルスタッペン親子に次ぐ3位 オランダ人F1ドライバーのパイオニア 一発の速さは無いものの堅実な走りで この時期としては異例の生涯完走率84.6% モデルはSPARK ドイツにあるPORSCHE MUSEUM限定 R4フランスGP仕様 予選17位→決勝6位 フロントはナショナルカラーのオレンジで オランダ国旗をデザインしている このGPは現在までにポルシェチーム唯一の 勝利をダン・ガーニー(アメリカ)があげている
250205 C.G.DE.BEAUFORT 1962 PORSCHE MUSEUMFW12C
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1991 (DNQ 39TH) SPARK AGS JH25B F.BARBAZZA
シーズン途中参戦 F.バルバッツァ 全戦予選・予備予選落ち AGS JH25B ファブリツィオ・バルバッツァ(イタリア出身) 1986年アメリカに活動を移し 1987年インディ500 3位表彰台 ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得 1989年全日本F3000にも参戦(6位1回) 1991年国際F3000参戦中 急遽フランスの小規模チームAGSからエントリー AGSは資金難でオーナーが変わり ベテランのステファン・ヨハンソンを解雇 資金持参のバルバッツァを起用した チームメイトはガブリエル・タルキーニ スペインGPのみオリビエ・グルイヤール R3サンマリノGPから参戦開始も 前半R8まで すべて予選落ち 後半戦予備予選組に回りこちらも通過できず チームはR14スペインGPを最後に撤退 バルバッツァはこの年F1デビューはならず 2年後1993年にミナルディから参戦する モデルはスパーク R8ドイツGP仕様 予選29位で予選落ち 前戦のフランスGPより変更された AGS発祥プロバンス地方の空をイメージした ブルー主体のカラーを纏うも結果は伴わず この後も予備予選落ちを繰り返した
250204 F.BARBAZZA 1991 18FW12C
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1974 7TH SPARK McLAREN M23 D.HULME〖🏆1〗
デニス・フルム ラストイヤー 最後の勝利 McLAREN M23 1974年フルムはマクラーレン7年目 チームメイトはロータスより エマーソン・フィッテパルディが移籍 ワールドチャンピオン コンビ サードドライバーはマイク・ヘイルウッド 開幕戦アルゼンチンGP 予選10位 決勝 終盤2位を走行 地元の英雄カルロス・ロイテマン(ブラバム)に トラブルが発生 ラスト2周でパスし そのままチェッカー 自身通算8勝目 R5ベルギーでファステスト・ラップ R12オーストリア 決勝2位以外の入賞は 6位が5回と精彩を欠き エマーソンの2度目のチャンピオンを 見届けて自身はF1から引退した モデルはSPARK Marlboro加工 開幕戦アルゼンチンGP 予選10位→決勝WIN 自身最後の8勝目 8勝は全ての国(サーキット)が異なる デニス・フルム以降~現在まで ニュージーランド出身ドライバーの勝利は無い #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇳🇿デニス・フルム (ニュージーランド) 【決勝出走数】111回 (入賞61回-表彰台33回) 【予選最高位】🚩PP 1973年🟥McLAREN R03 南アフリカ 【決勝最高位】🏆️優勝(8回) 1967年🟩BRABHAM R02 モナコ 1967年🟩BRABHAM R07 ドイツ 1968年🟥McLAREN R09 イタリア 1968年🟥McLAREN R10 カナダ 1969年🟥McLAREN R11 メキシコ 1972年🟥McLAREN R02 南アフリカ 1973年🟥McLAREN R07 スウェーデン 1974年🟥McLAREN R01 アルゼンチン 【FastestLap】🏁FL(9回) 1966年🟩BRABHAM R05 オランダ 1967年🟩BRABHAM R01 南アフリカ 1967年🟩BRABHAM R06 イギリス 1971年🟥McLAREN R10 カナダ 1972年🟥McLAREN R09 オーストリア 1973年🟥McLAREN R02 ブラジル 1973年🟥McLAREN R07 スウェーデン 1973年🟥McLAREN R08 フランス 1974年🟥McLAREN R05 ベルギー ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 👑WORLD CHMPION👑 1967年 BRABHAM (2勝/11戦) ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 2413
250202 D.HULME 1974 1回FW12C
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1955【WORLD CHAMPION】SPARK MERCEDES W196 str J.M.FANGIO〖🏆4〗
🔲🔲🔲1955🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 MERCEDES W196 str ⬜⬜J.M.FANGIO⬜⬜ 🔲🔲🔲全7戦🔲🔲🔲 【出走】6回【PP】3回 【優勝】4回【FL】3回 ファンジオ 3度目のチャンピオン モデルはSPARK 初期銀スリーブ R7イタリアGP仕様 予選PP→決勝WIN 1955年唯一のW196ストリームライン
250119 J.M.FANGIO 1955 3回FW12C