-
ケースデザイン #18 Rococo decoration case by DENT 続き
1852年、E.J.デントはウェストミンスターの国会議事堂の大時計(ビッグ・ベン)の製作を受注した。 が、完了する前(1853年)に亡くなくなってしまい、 養子のフレデリック・リッポン・デントが1854年に完成させた。 塔の高さ96.3m、文字盤は地上から55mにある。 イギリス最大の鐘の鳴る4面時計塔。 ロンドン市民に正確な時刻をチャイムで知らせることになった。 以降、フレデリックとリチャードが事業を継承し、E.デント&Co Ltdとなった。 ・・・・そして、1966年にはDENT社は廃業した。 高品質をイメージさせるシンプルなデザインが特徴の、DENT社のキャレッジとしては、大変珍しい、過剰とも思われるロココデザインのケースです。 凡そ、キャレッジクロックのケースのデザインバリエーションは20種類ぐらい。 さて、ロココの語源は、ロカイユ(rocaille) ロカイユとは、「岩」の意味で、貝殻で装飾された岩組を意味したとのこと。 貝殻の曲線を多用した意匠をロカイユ装飾と呼ぶようになった。 ロカイユ装飾 → ロココデザイン特徴は、植物の葉のような複雑な曲線を用いた独特の意匠だ。
Carriage Clock with Rococo decoration case DENT England 31.000円0318
-
精工舎 スリゲル 6吋高彫
最近入手したスリゲル、詳細が解からず 下呂在住の古時計博士、S氏に問い合わせました。 第一報は、「人気が高く現存が少ない希少な時計が入手でき良かったですね」 「手持ちの大正5年の精工舎型録83ページに掲載があります。 製品名は 第壱九五號 八寸高彫 です」と速報・・・ 追って頂いた第二報、「メールを送ってから間違いに気づきました。 この時計の文字盤は6インチで、カタログとは異なります。 商品名は 六吋高彫です」 「6インチの方が遙かに希少です」と、 そして数日後の追伸、「しかし、その大正5年の精工舎型録には記載がない」 「セイコーミュージアム」へ問合せては・・・とのこと。 以前の東向島「セイコー資料館」には、カタログのバックナンバーが保管・閲覧もできたのだが、 銀座の「セイコーミュージアム」にはそれはない。 セイコーのクロック部門は、セイコータイムクリエーション」に分社されている。 「うわ~、愉しみがまたふえた~」 ゆっくり調べてみよう・・・ 古時計博士のSさん、感謝です。 78F「時代のさきがけ Port Bellow」の画像にあった 「6吋高彫」が気になっていたのでした・・・・ 50年も追い続けている そして、セイコータイムクリエーションから、アンサーがありました。 明治49(1909)年のカタログに掲載されている。 八日持 六寸高彫 第262号 画像も添付されていました(7番目の画像) 「コピーデーターなの、で画像が不鮮明で済みません」とのコメントが付いていました。 120年になるのですから仕方ありません。 SEIKO の底力です。
スリゲル 六吋高彫 精工舎 80.000円0318
-
日本に於ける、「百貨店をつくった男」日比 翁助
三越は1673(延宝元)年、三井越後屋として創業。 明治になり暖簾紋を「丸越」紋とし、三井呉服店に改めた。 この書体は7・5・3と言われるㇵネが特徴である。 1898(明治31)年、のちに「百貨店をつくった男」と言われる日比 翁助が入店。 座売りを陳列販売に変える。 1904(明治37)年、株式会社三越呉服店初代専務に就任、 「デパートメントストァ宣言」をだした。 これが日本の百貨店の始まりと言われる。 松坂屋、白木屋などが次々と陳列販売に切り替え、百貨店という業態が定着していく。 1906(明治39)年、日比は海外視察を行い、ロンドンのハロッズ百貨店の経営に強い刺激を受けた。 1914(大正3)年 日本橋にルネッサンス様式の新店舗を建設。 「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチコピーも相まって「粋でお洒落な百貨店」と、人気が一層高まった。 三越のもう一つのシンボルに、入口のライオン像がある。 日比が欧米を視察した折にイギリスで発注したもので、 ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の獅子像がモデルと言われる。 (村中憲二 著「暖簾の紋章」を参照しました) 散歩?で通りがかった三越のフロントに、暖簾が懸っていて、 「デパートメントストァ宣言120周年」とのPOPがある。 「へェ~ そうなんだ・・・」と記録や記憶を辿った次第です。
「デパートメントストァ宣言120周年」 三越伊勢丹百貨店 日本橋 三越0318
-
古賀 春江の「海」
TORIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション 東京国立近代美術館 NHK日曜美術館で紹介された作品の中に、 古賀 春江の「海」を見つけて是非現物を観たいと思った訳です。 作者の春江という名前で、昭和初期に活躍した女性画家が描いた絵画とすっかり思い込んでいましたが、これもまた、浅はかな思い違いでした。 本名:古賀亀雄(よしお)1895~1933 福岡県久留米市の善福寺の住職 古賀正順の長男として生まれる。 大正から昭和初期に活躍した日本の男性洋画家。 日本における初期シュルレアリスムの代表的な画家として知られる。 後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名した。 「春江」は通称である。 さて本題の「海」は130㎝×160㎝ 1929年 シュールレアリズムの先駆者と言われた古賀春江の代表作の一つだ。 右のモダーンな水着姿の女性像の印象が強く、飛行船、潜水艦、灯台化学工場など等 絵葉書や雑誌の画像をモチーフにコラージュ風に構成されている。(水着の女性以外は、男性的なモチーフが多い) 男性洋画家と言われて私のなかの「海」の価値観は、聊かゆらぐ。 本展に出品されてはいませんが、ファンタジーな名品「煙火」(1927)をUPしました 隣のブースには、杉浦 非水の「銀座三越 四月十日開店」のポスターが並ぶ。 杉浦 非水(1876~1965)日本のグラフィツクデザインの礎を築いた。 1910年、三越呉服店の図案主任に抜擢 38歳で夭逝した天才画家、有元利夫の作品などが並ぶ・・・・ 主題やモチーフ、素材、作品が生まれた背景、時代、流派、洋の東西を越えて、自由な発想で組まれたトリオの共通点は様々で、 「モデルたちのパワー」「空想の庭」「日常生活とアート」など、34のテーマに沿って、 各美術館のコレクションから作品をセレクト。 絵画、彫刻、版画、素描、写真、デザイン、映像など総勢110名の作家による約150点の作品から組み合わされた34のトリオが、7つの章に分けて紹介される。
TORIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション 古賀 春江 「海」 東京国立近代美術館0318
-
ロートレック展 ミュージアムショップで見つけたおみやげ
・黒い上着にツバ広の黒い帽子、赤いマフラー、片手に持っステッキというトレードマークで、シャンゼリゼのカフェ・コンセール「アンバサドール」に出演:ブリューアンのポスターに因んだストールを、ミュージアムショップで見つけた。 今治で作られたオーガニックコットンのショール、きれいなオレンジ色が気に入りました。 ・関連企画として配布された「ムーランルージュ新宿座」の小冊子。 新宿駅の東南/武蔵野館通りに1931年開業した400席ほどのホールは、レビュー文化が日本に広まるきっかけを作ったとか・・・ 往時の新宿東口の地図が掲載されていて、興味深く眺めました。 伊勢丹の東半分が「布袋屋」になっている。 ・そして帰り道、新宿西口へ出て驚きました。 見慣れた風景がありません。小田急新宿駅ビルがなく、埃っぽい空間だけ。 小田急電鉄は、東急不動産と共同で 新宿西口再開発 ´22.02,日経の記事がありました。 地上48階、地下5階 高さ260mの超高層ビル。 2000億円程度で '29年完成を目指す。 追って、ハルクも再開発される・・・・ 新宿SOMPO美術館「ロートレック展」の、世紀末の余韻にいつまでも浸っている訳にはいきませんでした。 次の約束までには少し時間があったので、東口へ出て伊勢丹8Fに寄り~「DUG」を覗きました。 これは、「DUG」の項で・・・
ロートレック展 アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ 新宿 SONPO美術館0318
-
時をつかむ線 ロートレック展 続き
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック。 南仏でもっとも古い貴族・代々軍人の家系。 ロートレックの両親はいとこ同士、血の濃さが災いして体が弱く 13~14歳の時に大腿骨を相次ぎ骨折したことが原因で、身長150センチほどで成長が止まる。 17歳のとき、画家になることを決心し、動物画家ルネ・プランストーに師事。 師の作品を模写しつつ、馬や騎馬の様子を好んで主題に描く。 1874年に「第1回印象派展」が開催されるなど、パリで新しい美術動向の機運が高まるなか、貴族と下層の人々が集うモンマルトルに興味を抱き、同地を活動の拠点にする。 89年、モンマルトルにダンスホール「ムーラン・ルージュ」がオープン。 支配人から制作を依頼されたポスター《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリカ》で一躍人気画家となる。 モンマルトルのスターを素早いデッサンと大胆な構図で描いた《ムーラン・ルージュ》、 人物を醜くデフォルメすることで、都市に生きる人々の内面を表現した《ムーラン・ルージュにて》、 浮世絵の影響を受けた《ディヴァン・ジャポネ》などの代表作を生み出す。 いっぽう、娼婦たちの日常を題材とした作品を版画集『彼女たち』にまとめて出版。 娼館で女性たちと生活をともにしながら、観察者としてではなく、障害を持つ自身もその一員であるかのような共感のまなざしを向ける。 ポスターだけでなく、出版社から作品掲載の依頼も多く、人気画家の地位を不動のものとする。 晩年は、モンマルトルでの奔放な生活が招いたアルコール依存症に苦しみ、 1901年に37歳で両親に見守られながら逝去。 日本では、三菱一号館美術館の「モーリス・ジョワイヤン コレクション」に、ロートレックのリトグラフ・ポスター250点以上が収蔵されている。
ポスター アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 1800円 +0318
-
a small repeating carriage clock , cc - 158 #2
前段で紹介しましたものと同タイプの a small repeating carriage clock を入手しました。 2台並べて画像にしました。 脱進機は lever escapement 8日巻きムーブメント gong straiking movement No 18305 のシリアルナンバーが刻まれています。 plain strike 正時+30分(短音×1) 時打ちは、plain strike で、正時+30分(短音×1)リピーター付き、 アラーム機能(アラームの操作は、裏面のダイヤルでセット、ここが違うところ) エナメルの文字盤に金彩細工の縁取りがあり、 4隅の飾柱はコリント様式で象られている。 パリ・古き良きベルエポックの時空を彷彿とさせます。 SIZE はハンドルダウンで 12㎝h のスモールサイズ 年代は、前段と同じ1885(明治15~6)年頃のものと考えています。
a small repeating carriage clock FRANCE web auction0318
-
F・L・ライトの作品は、日本に4ッある 「自由学園明日館」
グリーン・マイルさんから頂いたコメントがきっかけで、池袋「自由学園・明日館」久しぶりに行って来ました。 自由学園は 1921年、F・L・ライト(1867~1959)によって設計された。 1934年に自由学園が南沢村(現東久留米市)に移るまで校舎として使用された。 清々しい芝生の前庭越しに見える、高さを抑えて水平線を強調した屋根が載る建物のシルエット。 三角にせり上がった中央部では、縦長の窓と、幾何学的な建具の装飾が目を引く。 F・L・ライトの初期の作風「プレーリースタイル(草原様式)」を代表する建物と言える。 自由学園がこの地に設立されたのは、1921(大正10)年4月。 2021年4月に、同校とこの建物は100周年を迎えた。 創立者は、ジャーナリストであった羽仁もと子・吉一夫妻。 夫妻は子ども自身に自発的意思をもたせ、実力ある役に立つ人間をつくる目的のもとに、キリスト教の精神に基づいた学校創立を決意した。 羽仁夫妻にライトを推薦したのは、建築家の遠藤新。 帝国ホテル設計のために来日していたライトの助手を務めていた遠藤は、 友人でもある羽仁夫妻をライトに引き合わせたのだ。 自由学園明日館の向い側にある「婦人之友社」は、羽仁もと子・吉一夫妻が1903年に創刊した雑誌「家庭之友」(後に「婦人之友」に改訂)から始まった出版社。 もと子は「家計簿」の創案者としても知られる。 社屋の設計は遠藤 新の息子、遠藤 楽による。 さて、羽仁夫妻がライトに設計を依頼したのが1921年1月のことで、同年の4月には開校の予定。 ライトは急いで建物の計画をまとめたものの開校時にはまだ工事中、壁の仕上げも終わっていない状態だったという。 しかしライトは開校を心から喜び、「その名の自由学園にふさわしく自由なる心こそ、この小さき校舎の意匠の基調であります」という祝辞を寄せた。
「プレーリースタイル」建築 F・L・ライト 西池袋 自由学園明日館0318
-
Frank Lloyd Wright 世界を結ぶ建築 Panasonic 汐留美術館
アメリカ近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライト(1867–1959) ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなすこともある) 「生前から世界で最も多くの出版物が出されている建築家の一人」といわれ、自然とのかかわりを重視する「有機的建築」という独自の思想を持つた建築家だ。 「カウフマン邸(落水荘)」や「グッゲンハイム美術館」「ジョンソン・ワックスビル」で知られるライトは、「帝国ホテル二代目本館(現在明治村に一部移築保存)」や「自由学園」を手がけ、熱烈な浮世絵愛好家の顔も持つ、日本と深い縁で結ばれた建築家だ。 2012年にフランク・ロイド・ライト財団から2万点以上の図面を含む膨大な資料が、ニューヨーク近代美術館とコロンビア大学エイヴリー建築美術図書館に移管され、 建築はもちろんのこと、芸術、デザイン、著述、造園、教育、技術革新、都市計画に至るライトの広範な視野と知性を明らかにすべく調査研究が続けられてきた。 当展は帝国ホテルを基軸に、多様な文化と交流し常に先駆的な活動を展開したライトの姿を詳らかにする回顧展。 Frank Lloyd Wright 世界を結ぶ建築 Panasonic 汐留美術館
世界を結ぶ建築 Frank Lloyd Wright 入館料 1200円0318
-
最近入手しました、ニューカマー
Square Fluted Colum ケーススタイルのキャレッジクロック。 縦溝彫が施された 四隅の飾り柱、文字盤を覆う繊細な草花紋様の金線細工 象牙を加工した円形ダイヤル。 両サイドにもフィリグリー・パネル(繊細な草花紋様の金線細工)が嵌め込まれています A Century of FINE CARRIAGE CLOCKS の CASE STYLE のバリェーションに SQUEAR FLUTED COLUMN with PIERCED PANELS と紹介されています。 サイズ 14.5㎝h(ハンドルアップ)キャレッジクロックのレギュラーサイズですね。 92Fで同様の意匠のキャレッジクロックを紹介していますが、 時刻表示にギリシャ数字が用いられていること、 加えて、アラーム付きなのが、差異で特徴です。 何台あっても「見ると欲しくなる」どうにもならない性格を恨むばかりです。
SQUEAR FLUTED COLUMN with PIERCED PANELS FRANCE 1890年代 20~30年前の凡そ1/40318
-
高木 弓 ユミ・シャロー(Yumi Charraut)
東京・麻布・鳥居坂生まれ。雙葉学園、女子美大出身。 曽祖父は、慈恵会医科大学・病院を創設した高木 兼寛。 祖母は、有島 武郎と有島 生馬の妹で、里見 弴の姉という家系に育っ。 セツ・モードセミナーで学び、当時より「装苑」のスタイル画の仕事をする。 1967年に渡仏。高田賢三らとパリで活躍。 フリーで「ELLE」「ジャルダン・デ・モード」のデザイン活動やファッション・ジャーナリストとして活躍後、デザイン会社レラシオン・テキスタイルに在籍。 マガジンハウスの雑誌「an an」のファッションページのスタイリングや、 イラストルポなどを連載。 感性豊かなイラストと、チャーミングな姿勢が記憶に残っている。 その、高木弓(Yumi Charraut)の著作「パリが教えてくれたボン・シックな毎日」に巡り合う。 立木 三郎が撮った写真には、モデルの立川ユリやピンクハウスの金子功(このお2人はご夫婦)など「an an」に因む懐かしい顔が並んでいます。 高木弓は、高田 賢三や荒牧 太郎(MademoIselle nonnon,papas)とは大の親友。 記憶を辿っていく・・・・ 「Mademoiselle nonnon」「milk」「renon」、原宿「セントラル・アパート」と際限のない追憶の海に沈み込んで行ってしまう・・・・
追憶の海 高木 弓 ユミ・シャロー(Yumi Charraut) つい最近0318
-
THE CUBIST REVOLUTION キュビズム展 美の革命 パリ ポンピドゥーセンター
20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかってない変革をもたらした。 その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来する。 ルネッサンス以降の西洋絵画の伝統的な遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、 幾何学的に平面化された形を用いて画面を構成する試みは、 絵画を現実の再現とみなすルネッサンス以来の常識から画家たちを解放した。 キュビズムが開いた新しい表現の可能性は、パリの若い芸術家たちに衝撃を与え、瞬く間世界中に広がる、 以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼした。 1900年代中葉 写真機が発明されたことで、それまで芸術家が追い求めていた「リアリズム」では敵わない。絵画にしかできない表現を追い求めることになる。 本展では、アフリカの彫刻などキュビズムの多様な源泉探る「キュビズムの源泉」章が興味深い。 ピカソとブラックがそれらを大胆に解釈しながら、緊密な連携作業によって、全く新しい絵画を発明していく過程が示されていく。 2024年パリオリンピックに合わせ、 ポンピドゥーセンターの大規模改修工事が行われ、 収蔵品が国立西洋美術館へ巡回されました 「THE CUBIST REVOLUTION キュビズム展 美の革命」です。
THE CUBIST REVOLUTION キュビズム展 美の革命 CUBIST 国立西洋美術館0318
-
赤坂 一ツ木通り 「白 妙」 暫らくぶりです 続き
「フランク・ロイド・ライト展」を観ようと、パナソニック美術館へ向かったのですが、なんと休館日でした。 ぽっかり空いてしまった時間と空間・どうしようか? いささか思案・・・ しばらく前から気になっていた「白妙」へ向かうことに決めました。 銀座線を赤坂見附で降りて一ツ木通りへ、 こんな時間(いわゆるアイドルタイム?)なのに、並んでいる。 左の列は買い物、右側は2階(喫茶)のお客・・・・ 折角だからと、コーヒータイムをとることにしました。 川越さんの.息子さんと、ユンハンスの行方など等、お伺いしたいことは山ほど。 外には、お客が山ほど・・・・
ユンハンス・ハンギング・クロック 川越 秀三 大先輩 赤坂・一ツ木通り 白妙0318
-
ウィリアム・ブーグロー(William Adolphe Bouguereau)1825~1905
ブーグローは1825年、フランス西部の大西洋に面した港町/ラ・ロシェルに生まれた。 19世紀後半フランス美術界のアカデミズム絵画を代表する画家。 画風はアングルなどの新古典主義の流れを汲む伝統的なもので、 官能的な裸婦像、可憐な子どもの像、憂愁を帯びた若い女性の像などに独特の世界を築く。 甘美で耽美的な彼の画風は当時の人々の好みに合ったと見え、生前には彼の名声は非常に高かった。 しかし、20世紀以降、さまざまな絵画革新運動の勃興とともにブーグローの名は次第に忘れられていった。 再評価されるようになるのは20世紀末のことだ。 ブグローは、良い画家である秘訣は「色と線を同じものとして見ること」とコメントしている。 この絵は色がより良い、線がより良いと言うのはナンセンス、なぜなら色が素晴らしく見えるのは線がそう見せているからで、逆もまたそうである。 色は形の「色価(value)」について語る方法であると述べている。 さて、2~4枚目の作品はいずれも銀行家バルトロー二邸宅の装飾として1885年頃製作されたもの。 天井画として製作された「音楽」、白を背景とした神話画「クビドの懲罰」「武器の返却を懇願するクビド」は、 女神と思しき女性たちとクビドを描いている、おそらくクビドは若い娘の恋心を弄んだために罰を受けているのだろうと解説されています。 最後の画像は、ブーグロー54歳の時の自画像。
19世紀フランスのアカデミズム絵画 ウィリアム・ブーグロー 国立西洋美術館0318
-
倉俣史朗のデザイン 記憶の中の小宇宙 続き #1
氏のもっともよく知られる代表作「ミス・ブランチ」 アクリル内でバラが宙を浮遊する。 バラの造花が透明アクリルに封入された椅子、 液体状のアクリルを徐々に注ぎながら、造花をピンセットで配置し製作される。 倉俣事務所のデザイナーだった五十嵐 久江さんは、まさにこの瞬間に立ち会われていた。 愛称はテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』のヒロイン/ブランチ の名にちなむ。 「ミス・ブランチ」はほとんど手作りに近く高価だった事もあり56脚しか作られなかった。 そしてその数字は彼の享年である。 板ガラスを組み合わせただけの「硝子の椅子」 三保谷ガラスが持ち込んだ、フォトボンドの製作サンプルを見た 氏がヒラメキ、30分でデザインを起こした。 三保谷さんもさすがで、翌日には倉俣事務所に完成品を持ち込んだとの逸話が残る、1976年のことだ。 訊ねてきた友人たちに「硝子の椅子」に座つてもらう。 緊張したその様子を微笑みながら眺めていたそうです。 200㎏の耐荷重試験のスナップもUPしました。 エッジに3㎜のスチールロットを溶接したエキスパンドメタルの椅子。 「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」 アームチァーの形は保持しているが、ほとんどが空気により形づくられた椅子は「存在していながら、存在していない」という哲学的な問いを投げかけてくる。 「重力から解放され、素材の中で多様な軽やかさが現れる時代」 これまでのストイックなデザインから、 解放されたように自由な創造性を獲得していった。 最期の画像は、ヨーゼフ・ホフマンへのオマージュ「ビギン・ザ・ビギン」 オーストリアの建築家、ヨーゼフ・ホフマンが1920年代にデザインした「№811」にスチールの平棒を巻き付け、 ガソリンを撒いて椅子ごと焼き、平棒を椅子状に残した衝撃のアートピース、1985年。 椅子を燃やす時、倉俣はそっと手を合わせたという。 家具デザインについては「自分の思考の原点を確認するための手段」と考え、 180点余りの優れた家具デザインを遺している 日本におけるインテリアデザインの魁です。
記憶の中の小宇宙 倉俣史朗 世田谷美術館0318