伝説の澤村投手と吉原捕手

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『野球界(1941/7/15発行)』

澤村榮治(1917/2/1-1944/12/2(27歳没))

大日本東京野球倶楽部・東京巨人軍(1934-1937,1940-1941,1943)
野球殿堂(1959)

1936年秋 史上初のノーヒットノーラン達成
同年12月 優勝決定戦で3連投、巨人初優勝

徴兵により帝国陸軍に入営(1938-40)日中戦争に従軍
復帰後は従軍時の負傷により球威が落ちるも3度目のノーヒットノーランを達成
再応召、予備役へ(1941-42)
1943年に再復帰するが成績を残せず10月24日が最後の出場となる
1944年シーズン開始前に巨人から解雇
同年10月2日に応召
同年12月2日フィリピン防衛戦に向かう輸送船に乗船中、米潜水艦の攻撃を受け撃沈、戦死

職業野球通算63勝22敗(防御率1.74)

1934年11月の日米野球の全日本チームに参加
11月20日の試合ではルー・ゲーリックの本塁打(7回裏)のみ8回5安打1失点と快投
1935年の第1次アメリカ遠征(21勝8敗1分)
1936年の第2次遠征(11勝11敗)に参加、大リーグのスカウトの引抜き工作に遭う

1947年7月9日、巨人は『背番号14』を日本プロ野球史上初の永久欠番にまた同年、功績と栄誉を称え『沢村栄治賞』を設立


吉原正喜(1919/1/2-1944/10/10(25歳没))

東京巨人軍(1938-41)
野球殿堂(1978)

新人から退団までスタルヒン、沢村栄治、中尾輝三ら投手陣をリード、正捕手で活躍
1938年秋季から1941年まで巨人の4連覇に貢献
1941年応召のため退団
1944年10月10日にインパール作戦後のビルマで戦死

吉原の『背番号27』は戦後、巨人の森昌彦をはじめ大矢明彦、伊東勤、古田敦也、谷繁元信らの名捕手ナンバーとなる

なお、両雄がバッテリーを組んだのは1940-41年の2シーズンだけであった・・・

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    woodstein

    2019/01/30

     吉原正喜選手がいかに素晴らしい捕手であったかを、生前の水原茂氏が語っていたのをラジオで聴いたことがあります。写真の二人は本当の黄金バッテリーだったそうで、そのプレーを実際に間近で見た同僚の言葉だけに、重みがありました。

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      ふくすけ

      2019/01/31 - 編集済み

      コメントならび貴重な情報ありがとうございます。両雄をはじめ三原・水原・川上そして大学野球部員、多くの野球人が時代の嵐に巻き込まれた時代。運命を感じつつ散った二人の野球ができる喜びそして不安の面影が印象的な写真を手にしたとき胸が痛い思いです。

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