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院内銀山/秋田県湯沢市
明治天皇は1881年(明治14年)に山形・秋田・北海道を巡幸、9月21日に当時明治政府直営であった院内銀山に立ち寄られ、坑夫の入口として利用されていた五番坑及び諸工場を巡覧されました。この絵葉書は、この時に明治天皇が五番坑に入られた様子を、1926年(昭和元年)に古河財閥の三代目当主であった古河虎之助の委嘱で盛岡市出身の五味清吉画伯が描いた壁画を写したもので、本物の壁画は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に所蔵されています。五番坑は後に「御幸坑」と名付けられ、9月21日は鉱山記念日とされました。 入坑は坑夫が荷物を担いで出入りするのをご覧になって明治天皇が突然坑内に歩み入られたもので、予定外のハプニングだったとも云われていますが、この絵からはそのような雰囲気は感じられません。 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
秋田県湯沢市院内銀山町 院内銀山石泉亭
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濃紅銀鉱 (pyrargyrite) 院内銀山 #0632
青矢印の先に暗赤色の濃紅銀鉱が観察できます。(背景はソフトウエア処理しています。) 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
硫化鉱物 秋田県湯沢市院内銀山町 ミニチュアサイズ石泉亭
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脆銀鉱 (stephanite) 院内銀山 #0689A
脆銀鉱(ぜいぎんこう)は銀とアンチモンを主成分とする硫塩鉱物の一つで、銀の鉱石鉱物です。院内銀山は日本における脆銀鉱の著名産地の一つでした。(背景はソフトウエア処理しています。) 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
硫塩鉱物 秋田県湯沢市院内銀山町 ミニチュアサイズ石泉亭
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含金銀、銅-鉛-亜鉛鉱石 (Cu-Pb-Zn ore containing Au, Ag) 院内鉱山 五郎城坑𨫤 #0103
黄銅鉱と閃亜鉛鉱、方鉛鉱と水晶がなしているコントラストが美しい標本です。肉眼的なものではありませんが、金、銀をも含むということです。(1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
秋田県湯沢市院内銀山町 スモールキャビネットサイズ 院内銀山石泉亭
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イネス石 (inesite) 院内銀山 #0508
イネス石は、カルシウムとマンガンを主成分とするイノケイ酸塩鉱物です。院内銀山のイネス石は1933年(昭和8年)に初めて文献に記載されています。 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
イノケイ酸塩鉱物 秋田県湯沢市院内銀山町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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銀黒鉱石 (ginguro ore) 院内銀山 #0507
矢印の先に不規則な縞状や斑点状の銀黒が発達しているのが観察できます。銀黒は黒光りする輝銀鉱粒と金色に光る黄銅鉱粒から構成されています。 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
硫化鉱物 秋田県湯沢市院内銀山町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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銀黒鉱石 (ginguro ore) 院内銀山 #0485
矢印の先に不規則に縞状銀黒が発達し、細粒の輝銀鉱(argentite)が濃集しています。 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
硫化鉱物 秋田県湯沢市院内銀山町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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濃紅銀鉱 (pyrargyrite) 院内銀山 #0459
黒色の銀黒部分は微粒の濃紅銀鉱、黄鉄鉱、閃亜鉛鉱からなっており、濃紅銀鉱粒が銀色に光るのが目視出来ます。周辺には微粒の濃紅銀鉱により小豆色に染まった部分が斑点状に見られます。 院内銀山は1606年(慶長11年)に発見され、江戸時代を通して秋田藩の直営銀山として繁栄した浅熱水性鉱脈型金銀鉱床です。1833年(天保4年)からの約10年間に年間産銀量が千貫(=3.75トン)を超える「天保の盛り山」と呼ばれる最盛期を迎え、人口15,000人あまりと、当時は藩都久保田城下をしのぐ賑わいだったとのことです。維新後は明治新政府の直轄経営となり、1884年(明治17年)に、工部省から古河市兵衛に払い下げられました。以降古河鉱業の経営となって近代化が進められ、1894年(明治27年)には年間3,906貫(≒14.6トン)の銀を産出しましたが、明治末頃の銀価格の下落や鉱脈の枯渇などで次第に衰退、1954年(昭和29年)に閉山しました。
硫化鉱物 秋田県湯沢市院内銀山町 ミニチュアサイズ石泉亭