黄銅鉱 (chalcopyrite) 小坂鉱山 #0252

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安山岩質と思われる母岩の大部分を黄銅鉱が覆っています。

小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)に元山鉱山が発見され、金、銀の鉱山として本格的な開発が始まりました。1869年(明治2年)、盛岡(南部)藩直営から明治政府による官営となり、1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。
当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1ト ンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高が日本一となりました。しかしながら土鉱の枯渇と、また金本位制の広まりによる銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、当時「黒物」と呼ばれた黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。
第二次世界大戦直後には資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1960年代に入り内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見されると採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。

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