硫化鉄鉱 (iron sulphide) 柵原鉱山 #0598

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硫化鉄鉱は、鉄の硫化鉱物である黄鉄鉱、白鉄鉱、磁硫鉄鉱など、硫酸や鉄の原料となる鉱石の総称です。硫化鉄鉱は焙焼して生じる亜硫酸ガスを肥料や化学繊維の原料などに用いられる硫酸の製造に用い、その後鉄分を多く含む焼滓(しょうさい)を焼結して製鉄原料としました。柵原鉱山の硫化鉄鉱は黄鉄鉱を中心とし、黄銅鉱、閃亜鉛鉱が少量を含んでいます。本標本は一面が研磨されています。(1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

柵原(やなはら)鉱山はかつて日本を代表する硫化鉄鉱の鉱山で、周辺の鉱床を併せた総埋蔵量は3,700万トン以上と云われています。柵原鉱山の主要鉱床は地上に一番近い第一鉱体、続いて第二鉱体、第三鉱体、下部鉱体という4つの鉱体が連なっており、本鉱床の厚さは最大100メートル、幅400メートル、長さは4つの鉱体の合計で約2,000メートルに達し、鉱石の埋蔵量は第一鉱体約540万トン、第二鉱体約310万トン、第三鉱体約780万トン、そして下部鉱体は約1,890万トンという巨大鉱床でした。
柵原集落周辺では1882年(明治15年)に硫化鉄鉱の採掘が始まり、1916年(大正5年)に藤田組(現在のDOWAホールディングスの前身)が柵原一帯の鉱山・鉱区を買収して柵原鉱山と命名し本格的な鉱山経営を開始、1929年(昭和4年)には第三鉱体が発見され、1936年(昭和11年)には硫化鉄鉱の生産高が戦前最高の約50万トンに達しました。第二次世界大戦中は国家統制下に置かれ、乱掘、熟練労働者の不足、鉱石輸送力の低下等により生産が低下しましたが、終戦後1945年(昭和20年)12月に同和鉱業が創立され、戦後の食糧不足解消のための化学肥料の原料として硫化鉄鉱の増産が強く望まれる状況下、柵原鉱山は岩手県の松尾鉱山と共に1947年(昭和22年)4月に政府により最優先の鉱山に指定され、生産力を急速に回復させました。1951年(昭和26年)に最大の鉱体である下部鉱体が発見され、1950年代から1960年代にかけて柵原鉱山は全盛期を迎え、1966年(昭和41年)には年間生産量が80万トンを突破し、最高値を記録しました。しかし、石油精製の副産物として回収硫黄が大量に生産されるようになったこと、また、当時の減反政策の影響で化学肥料の国内需要が減少したことに加え、諸外国で化学肥料の自給が進み輸出も減少するようになり、1972年(昭和47年)には年間生産量が36万トンまで低下しました。1970年代半ばには硫酸の原料としての硫化鉄鉱の利用がほぼ途絶え、柵原鉱山は経営の縮小、合理化によって生き残りを図りましたが、1985年(昭和60年)以降の円高により輸入鉱石の価格が下落した結果、国内鉱山の競争力は著しく低下し、1991年(平成3年)3月に柵原鉱山は採掘可能鉱石約1,000万トンを残したまま閉山となりました。柵原鉱山の坑道の最深部は地下1,000m、坑道の総延長距離は1,400kmに達し、鉱石輸送に利用された片上鉄道の吉ヶ原駅と操車場跡には柵原ふれあい鉱山公園が作られ、柵原鉱山の資料も展示されています。

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