褐錫鉱 (stannoidite) 生野鉱山(生野銀山) 金香瀬 #0308

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褐錫鉱(かっしゃくこう、stannoidite)は鉱物学者の加藤昭博士により1969年に発表された日本産新鉱物です。褐色を帯びた金色(Blass brown)を呈するとされていますが、黄錫鉱(おうしゃくこう、stannite)や黄銅鉱(chalcopyrite)との肉眼での判別は難しく、正確な同定のためには走査型電子顕微鏡(SEM)やエネルギー分散型X線分析装置(EDS)などの科学的な分析が必要です。本標本は褐錫鉱として入手したものですが、上述のような科学的分析を経たものではありません。(1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

生野銀山の開坑は平安時代初期の807年(大同2年)と伝えられますが詳細は不明で、本格的な採掘が始まったのは1542年(天文11年)に但馬国の守護大名であった山名祐豊が生野城を築き、石見銀山から灰吹法を導入してからとされます。1598年(慶長3年)に徳川家康が但馬金銀山奉行(生野奉行)を配置、生野銀山と周辺の鉱山は佐渡金山、石見銀山と並んで天領とされ、江戸幕府の財源を支えました。三代将軍家光の頃に最盛期を迎え月産150貫(約562kg)の銀を産出しましたが、慶安年間(1648年~1652年)頃から銀産出が減少し、江戸中期以降は銀に換わって銅や錫の産出が増加しました。1716年(享保元年)には銀産出量の減少に伴い生野奉行所が生野代官所に改組され、生野銀山およびその後背地であった但馬国、播磨国、美作国の天領を統治するようになりました。その後幕末の動乱に伴い、幕府は1866年(慶応2年)に生野銀山を休山とし、1868年(慶応4年)に薩長軍により占拠されたことにより天領としての生野銀山の歴史は終わりました。
明治政府は新政府による貨幣発行の原材料確保のため生野鉱山を直轄化、「お雇い外国人第1号」のフランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエを鉱山師兼鉱学教師として雇い、1872年~1876年(明治5年~同9年)にかけて製鉱所(精錬所)を建設、生野に日本の近代化鉱業の模範鉱山の確立を目指しました。
1899年(明治22年)に生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移され、宮内省御料局の所管とされました。生野鉱山は1906年(明治29年)に三菱合資会社に払い下げられ、以降1972年(昭和47年)に資源減少、採掘コストの増加、山はね(坑道が地圧により崩壊すること)の発生による危険性の上昇などを理由に閉山となるまで長きにわたり日本有数の鉱山として稼行されました。

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