- Sekisentei Japanese Mineral Museum
- 21F 三重県 Mie Pref.
- 辰砂・鶏冠石 (cinnabar/realgar) 丹生鉱山 #0424
辰砂・鶏冠石 (cinnabar/realgar) 丹生鉱山 #0424
本標本では暗赤色の辰砂の脈と、母岩の表面に見られる橙赤色の鶏冠石脈が混在しています。黄色く見える鉱物は鶏冠石が光に当たって異性化したパラ鶏冠石と思われます。(背景はソフトウエア処理しています。)
辰砂を空気中で 400~600 °C に加熱すると水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じ、この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製します。日本地質学会は辰砂を「三重県の鉱物」に選定しています。
丹生鉱山は中央構造線上に位置し、花崗岩質を母岩とする裂化充填鉱床で、同鉱山に隣接する池ノ谷・新徳寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器や辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見され、更に40か所以上に及ぶ採取坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器の製造と辰砂の採掘・加工が行われていたことが判明しています。この鉱山の名称であり、地名ともなっている「丹生」とは、丹土(朱砂…辰砂)が採取される土地の事を指すとする説が有力です。この辺りでは「丹生千軒」という呼称が言い伝えられ、奈良朝時代から我が国最大級の鉱山村落として栄えていたことが推察されます。 東大寺大仏鋳造の塗金には、当地の「伊勢水銀」がアマルガムの材料として大量に用いられたといわれています。
近代に入り、1940年(昭和15年)北村覚蔵が独学で探鉱を開始するも研究途上に逝去し中断、戦後の1954年(昭和29年)、北村の妻芳子と鉱山技術者であった中世古亮平が再開発に着手し、北村覚蔵が遺した資料を元にレトルト炉を構築、1955年(昭和30年)、本格的な操業を開始し、1956年(昭和31年)には34.5kg鉄製フラスコに充填された水銀地金2本を大阪の業者に売却しています。その後、鉱業権が大和金属鉱業(現・野村興産)に譲渡され、同社による探鉱が続けられ、1968年(昭和43年)に丹生鉱業所が開設され、1970年(昭和4年)年に採掘が開始されましたが、1973年(昭和48年)年に閉山しました。