黄銅鉱 (chalcopyrite) 紀州鉱山 #0526

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黄銅鉱が母岩の隙間に生成し細かな水晶を伴います。(1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。)

狭義の紀州鉱山は、1934年(昭和9年)に紀和町内に存在した中小の鉱区を石原産業が買収・統合して紀州鉱山と名付けて開発を進めたことに始まりますが、奈良時代に東大寺の大仏が造られた時には紀州地方から多くの銅が献上されたと言われており、大谷坑(上川竪坑)の入口の岩盤には「延元二」(1337年)という文字が刻まれていることからこの地域では南北朝時代にも採掘が行われていたと考えられます。また、安土桃山時代~江戸時代にも金、銀、銅が採掘されていたとされます。鉱床は断層裂力充填鉱床で、角礫構造や縞状構造が多く比較的晶洞に富む浅熱水性鉱床で、主な鉱石鉱物は、黄銅鉱、黄鉄鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱、磁硫鉄鉱でした。この地区の鉱体は細脈で広範に分布しているので大規模な鉱山経営は困難とされていましたが、石原産業は戦時中に細脈群を貫く南北約6kmの隧道と、これに平行する約3.5kmの隧道を開削し、多くの鉱脈を開発し大規模な操業を行いました。各堀場から採掘された鉱石はトロッコやベルトコンベアによって板屋地区にある選鉱場に運ばれましたが、1935年(昭和10年)に建設されたこの選鉱場は、総面積が2,200坪、高さ75m、選鉱処理量1,000トン/日と当時東洋一の処理量を誇り、24時間操業していたことから「不夜城」とも呼ばれました。最盛期の1943年(昭和18年)には、3,000人あまりの従業員を擁し、1978年(昭和53年)に閉山するまでに約950万トンの銅鉱石を採掘したとされています。

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