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2004 18TH PMA JORDAN FORD EJ14 N.HEIDFELD (SEASON LIBRARY)
the story will be at a later date. 2404
250129 N.HEIDFELD 2004 18FW12C
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1984 (23TH) SPARK LIGIER JS23 F.HESNAULT
フランソワ・エスノー F1デビュー リジェ初ターボエンジン LIGIER JS23 1984年参戦以来初のチーム ノーポイントに終わったリジェは ドライバーラインナップを一新 アルファロメオからA・チェザリスが移籍 もう一人は新人のフランソワ・エスノーを起用 エスノーはフランス出身 1983年フランスF3 ランキング2位 4勝 前半戦はR3〜出走7戦連続リタイア 後半は完走率が向上したものの 決勝はR13オランダGPの7位が最高 ポイント獲得はならなかった 予選ではチェザリスに16戦15敗 唯一予選で勝ったR5フランスGPでは トラブルで予選落ち(27位)の危機にあった チームメイト チェザリスを救済する為 チームの指示で決勝の出走を 取りやめするという不遇を受けた エスノーは1年でリジェを解雇 翌1985年はブラバムに移籍 モデルはSPARK 開幕戦南アフリカGP仕様 予選19位→決勝リタイア タバコブランド【GITANES】加工 リアウイング翼端版の【UFO】は エスノーがF3時代に所属したチーム エスノー車のみのスポンサーサポート 2358
241226 F.HESNAULT 1984 25FW12C
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1974 (25TH) SPARK PARNELLI VPJ4 M.ANDRETTI
❗2026年F1新チーム❗ ❕️GM(キャデラックブランド) 参戦決定❕️ 〇チームの役員はマリオ・アンドレッティ〇 〜こちらは1974年のマリオ参戦 新チーム〜 アメリカンチーム パーネリ参戦開始 マリオ・アンドレッテイ PARNELLI VPJ4 パーネリは1963年のインディ500勝者 パーネリ・ジョーンズらにより1969年設立 1970・71年アル・アンサーがインディ500連覇 1974年R14カナダGPよりF1参戦 ドライバーはインディで同チームに 所属していたマリオ・アンドレッテイを起用 初陣となったカナダGP決勝 入賞一歩手前の7位フィニッシュ 最終戦R15 地元アメリカGP 予選初日 トップタイムを出しサーキットは歓喜 2日目にタイムを伸ばせなかったが最終予選3位 決勝はトラブルでスタートできず 最終的には押し掛けでブラックフラック=失格 ポイント獲得はならなかったが一定の成果を残し パーネリは翌1975年開幕戦から本格参戦する モデルはSPARK タイヤはファイヤストーン 初参戦のR14カナダGP仕様 予選16位→決勝7位 インディ時代からのスポンサーで タバコブランドのViceroyがサポート VPJ4のマシンは元ロータスの モーリス・フィリップがデザイン
241127 M.ANDRETTI 1974 55FW12C
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1977 (22ND) SPARK (PENTHOUSE RIZLA RACING) HESKETH 308E R.KEEGAN
イタリアを愛したイギリス人 ルパート・キーガン HESKETH 308E ルパート・キーガン イギリス出身 父は航空会社のオーナー 1976年 イギリスF3 チャンピオン 21歳 1977年 プライベートチーム ヘスケスのマシンでR5スペインGPでデビュー 【PENTHOUSE】イギリス男性向け雑誌 【RIZLA】 フランス手巻きタバコ 2ブランドのサポートを受けて マシンにはアダルトモデルが描かれている キーガンは12戦中6戦完走 12位→13位→10位→7位→9位→8位と 全て異なる順位でフィニッシュ R12オーストリアGP 7位がキャリアベスト 最終日本GP(富士SW)は残念ながら未参戦 翌1978年はサーティスの レギュラーシートを獲得 去る2024年9月23日 ルパート・キーガンは長い闘病生活の末 お亡くなりになりました 享年69歳 出生はイギリスでしたがイタリアを愛し 好きなサーキットはイタリア・モンツァ 自宅のあったイタリア トスカーナ州 エルバ島で最期を迎えました ご冥福をお祈り申し上げます
241122 R.KEEGAN 1977 24FW12C
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2004 18TH PMA JORDAN FORD EJ14 N.HEIDFELD
the story will be at a later date.
241111 N.HEIDFELD 2004 18FW12C
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1977 (24TH) SPARK SURTEES TS19 V.SCHUPPAN
ヴァーン・シュパン F1ラスト キャリアベストリザルト SURTEES TS19 ヴァーン・シュパン オーストラリア出身 1972年 BRMでF1初エントリー 1974年 エンサイン 1975年 ヒル それぞれ数戦のみのスポット参戦 1977年 サーティスから途中エントリー チームメイトはビットニオ・ビランビラ R10イギリスGP 予選23位→決勝12位 R11ドイツGP 予選19位→決勝7位 決勝7位はシュパンのキャリアベスト R13オランダGP 予選落ちした所で チームを解雇されこれが最後のF1となった シュパンのドライバーキャリアはここからで 1981年 インディー500で 3位表彰台 1983年 ルマン24時間 ポルシェ925で優勝 同年全日本耐久選手権でも 3戦中2勝をあげてチャンピオン獲得している モデルはSPARK R11ドイツGP仕様 予選19位→ シュパンのキャリアベストの決勝7位 スポンサーdurexはイギリスを中心とした 世界シェア1/4を誇るコンドームのブランド
240611 V.SCHUPPAN 1977 18FW12C
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1974 (21ST) SPARK (HILL) LOLA T370 G.EDWARDS
チーム ヒル ローラのシャーシで参戦 ガイ・エドワーズ デビュー LOLA T370 ガイ・エドワーズ イギリス出身 1974年 チーム ヒルのセカンドドライバー としてF1デビューを果たす チームヒルはこの年イギリスの コンストラクターであるローラにマシンを依頼 エリック・ブロードウェイが設計した T370はF5000がベースで巨大エアボックが特徴 開幕戦 アルゼンチンGP 決勝11位完走 R6モナコGP決勝8位 R7スウェーデン決勝7位 予選ではエースのグラハム・ヒルに3度勝つなど まずまずの走りを見せたが怪我の影響もあり R10・R11 連続予選落ちしてチームを解雇 結果的にR7スウェーデンGPの決勝7位が エドワーズのキャリアベストリザルトとなった モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP仕様 予選25位→決勝11位 チームのメインスポンサーである タバコブランド Embassy仕様 ガイ・エドワーズは息子シーン・エドワーズも レーシングドライバーであり 2013年ニュルブルクリンク24時間レース覇者 同年の映画〖ラッシュ/プライドと友情〗に 父のガイ・エドワーズ役で出演の珍しい経歴 シーンは残念ながらこの年にレース事故死
240512 G.EDWARDS 1974 1/43FW12C
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1983 (23RD) SPARK ARROWS A6 C.SERRA
チコ・セラ F1ラスト アロウズ途中解雇 ARROWS A6 1983年フィッテパルディチーム撤退で シートを失ったブラジル出身チコ・セラは アロウズのシートを獲得 チームメイトはマルク・スレール 開幕戦地元ブラジルGP 予選23位→決勝9位 R2アメリカWESTは元チャンピオン アラン・ジョーンズの復帰でシート譲る その後R4サンマリノ予選20位→決勝8位 R5モナコ予選15位→決勝7位と上り調子も チームはR6イギリスGPからベルギー出身 ティエリー・ブーツェンの起用を決定 セラはシートを失い F1でのキャリアは終了 その後はブラジル国内で活躍 同国のストックカーシリーズでは 1999年より3連覇を果たした モデルはスパーク 開幕戦ブラジルGP仕様 予選23位→決勝9位 各戦ごとにカラーが変わるARROWS A6 開幕戦はほとんどスポンサーない中 〖CALOI〗はブラジルの自転車メーカー E.T.に登場した自転車を模倣した BMXモデルを同1983年に発売している 🏁チコ・セラ(ブラジル) 【決勝出走数】18回 (入賞1回) 【予選最高位】15位 1983年 ARROWS R5 モナコ 【決勝最高位】 6位 1982年 FITTIPALDI R5 ベルギー
240403 C.SERRA 1983 30FW12C
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2000 (18TH) PMA RED BULL SAUBER PETRONAS C19 P.DINIZ
ペドロ・ディニス 有終の美とはならず 最後のマシン SAUBER PETRONAS C19 2000年ペドロ・ディニスはザウバー残留 チームメイトは1998年にアロウズでも 同僚であったミカ・サロが加入 ディニスの地元R2ブラジルGPでは リアウイングが脱落するアクシデントで チームは2台とも予選終了後に欠場した ディニスの予選最高はR15アメリカGP9位 決勝最高はR6ヨーロッパGP7位 参戦初年度1995年フォルティ以来の シーズンノーポイントに終わる その資金力から多数のオファーが あったもののディニスはドライバーを引退 翌2001年はチームプロストの株式40%を 取得し共同オーナーとなったが チームを取得を目指しプロストと対立 シーズン半ばでF1界から去って行った モデルはミニチャンプス 最終戦R17マレーシアGP仕様 予選20位→決勝リタイア ディニスのF1ラストレース 車体にマレーシアの国旗が描かれている #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇧🇷ペドロ・ディニス (ブラジル) 【決勝出走数】98回 (入賞8回) 【予選最高位】⑦位 1997年 ARROWS R12 ベルギー 【決勝最高位】⑤位(2回) 1997年 ARROWS R15 ルクセンブルグ 1998年 ARROWS R13 ベルギー 【年間最上位】⓮位(2回) 1998年 ARROWS 3ポイント 1999年 SAUBER 3ポイント
240221 P.DINIZ 2000 1.999FW12C
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2004 19TH PMA JORDAN FORD EJ14 T.GLOCK
不屈のゲルマン魂 ティモ・グロッグ ジョーダンよりF1デビュー EJ14 ティモ・グロック ドイツ出身 2002年 ドイツF3 年間3位 3勝 2003年 ユーロF3 年間5位 3勝 2004年 ジョーダンテストドライバー R8カナダGP ジョルジオ・パンターノが 契約トラブルとなり代役で出場 チームメイトはニック・ハイドフェルド 予選はハイドフェルドの後16位 決勝はハイドフェルドの前11位完走 その後ブレーキダクト違反で ウイリアムズとトヨタ合計4台が失格 これに伴いグロックは7位に繰り上がり 幸運にも参戦初戦にて初入賞を果たした (2004年は8位までが入賞) グロッグのキャリア入賞回数は14 終盤3戦もジョーダンより出場 3戦すべて決勝15位で完走 グロックはレギュラーシートを獲得できず 次のF1は4年後の2008年トヨタとなる モデルはミニチャンプス カナダGP仕様 予選16位→決勝7位 この年初開催のバーレーンGPを祝し ジョーダンのエンジンカウルの スポンサー権をバーレーン政府が買い取り 毎戦違うメッセージを載せた 当該カナダGPはサーカス小屋と Arts Charity For Youth と書かれている
240209 T.GLOCK 2004 1.944FW12C
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1982 (28TH) SPARK MARCH 821 J.MASS (ROTHMANS)
ヨッヘン・マス 最後のマシン ロスマンズカラー MARCH 821 1982年マーチ・エンジニアリングは R3アメリカWEST GPより タバコのロスマンズがスポンサーが付き それに伴いカラーリングも大幅変更 R4サンマリノGPでマスはこのマシンで ジル・ビルヌーブと接触の事故となり この事故でジルは帰らぬ人となった R11フランスGP決勝で今度はマスが マウロ・バルディとの接触事故となり 自身F1からの引退を表明した F1引退後マスはスポーツカー選手権を 主戦場としてレーサーは継続して ルマン24時間では1989年の 総合チャンピオンとなっている 🏁ヨッヘン・マス (ドイツ) 【決勝出走数】105回(入賞28回-表彰台8回) 【予選最高位】 4位(3回) 1976年 McLAREN R2南アフリカ 1976年 McLAREN R4スペイン 1977年 McLAREN R2ブラジル 【決勝最高位】 優勝 1975年 McLAREN R4スペイン https://muuseo.com/FW12C/items/1477?theme_id=31619
231106 J.MASS 1982 17FW12C
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1985 (22ND) SPARK OSELLA FA1G H.ROTHENGATTER
ヒューブ・ロッテンガッター キャリアベスト7位 OSELLA FA1G ヒューブ・ロッテンガッター オランダ出身 ヨーロッパF2では1980年7位(1勝) 1980年・81年全日本F2にスポット参戦 ロッテンガッターはオランダの 全国紙に全面広告を掲載 決意と自分自身への信念を アピールしてオランダの家電メーカー フィリップスのスポンサーを獲得する 1984年スピリットでデビュー 1985年オッゼラで2シーズン目 いずれもシーズン途中から資金を 持ち込みシートを獲得する 1985年オッゼラの最終戦 R16オーストラリアで予選25位→決勝7位 ロッテンガッターのキャリアベスト 翌1986年はザグスピード これまた資金持ち込み途中参戦 ロッテンガッターはキャリア 決勝26戦を全て20番台からスタート という珍しいドライバ― ドライバ―引退後はフィリップスの スポンサー関連で1991年に新規参戦 ジョーダンチームの携わり 後に同郷のヨス・フェルスタッペンの マネージャーも務めた モデルはスパーク オランダのGPworld特注 ギフトBOX入り R11オランダGP仕様 予選26位 決勝は56/70周で規定周回不足 個人Marlboro契約ドライバ―で ヘルメット正面に同社のロゴあり
230922 H.ROTHENGATTER 1985 300FW12C
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1999 (20TH) PMA ARROWS A20 T.TAKAGI
開幕直前アロウズシート獲得 高木虎之介ポイントならずARROWS A20 1999年シーズン開幕直前に アロウズのシートを獲得の高木虎之介 チームメイトは新人ペドロ・デ・ラ・ロサ 開幕戦オーストラリアで予選17位 決勝は入賞一歩手前の7位完走 この予選・決勝のリザルトがシーズンベスト 決勝の7位は虎之介のキャリアベスト このGPではデ・ラ・ロサが6位入賞 チームに貴重な1ポイントをもたらし 1ポイントで並んだミナルディには 虎之介の7位により上回り コンストラクターで9位となった 虎之介はこの年でF1からは去り 日本人フル参戦ドライバ―としては 唯一の無得点者でF1通算32戦(失格1回)で ノーポイントは歴代ワースト4位 翌2000年フォーミュラーニッポンに復帰 10戦中8勝で圧勝のチャンピオンを獲得 2003年にはインディ500の ルーキーオブザイヤーを獲得している モデルはミニチャンプス 収集初期に購入したモデル この年の虎之介のモデルは TEST CAR /SHOW CAR /別注モデルなど 沢山のバリエーションが存在する 🏁高木虎之介 (日本) 【決勝出走数】31回 【予選最高位】13位(2回) 1998年 ティレル R1オーストラリア 1998年 ティレル R3アルゼンチン 【決勝最高位】 7位 1996年 アロウズ R1オーストラリア
230913 T.TAKAGI 1999 15FW12C
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1982 (27TH) CP MODEL ARROWS A4 B.HENTON
ブライアン・ヘントン 3戦限りのアロウズ ARROWS A4 1982年前年度は新規チームトールマンで 12戦中11戦の予選落ちのヘントンであったが アロウズのレギュラーシートを獲得 チームメイトはマウロ・バルディ アロウズはニューマシンのA4を開幕から投入 イタリアのセラミックタイルメーカー RANGOがスポンサーとなり 前年のゴールド系のカラーから オレンジを基調にタイルを施す カラーリングで人目を惹きつけた ヘントンは開幕・R2と連続予選落ち R3アメリカWEST予選20位→決勝リタイア R4~はスリム・ボルグッドが抜けた ティレルに移籍して最終戦まで参戦 ヘントン離脱後のアロウズは マルク・スレールが加入 バルディ共にチームを立て直し各2回 チームで4度の入賞をしている モデルはCP MODEL 入賞したバルディ/スレールでなく 3戦限りのマニアックなヘントン車をリリース
230812 B.HENTON 1982 29FW12C
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1973 (22ND) SPARK SURTEES TS14 M.HAILWOOD
マイク・ヘイルウッド 唯一のフル参戦 炎の中の救出劇 SURTEES TS14 1973年マイク・ヘイルウッドは サ―ティス残留 キャリア唯一のフル参戦 チームメイトはカルロス・パーチェ 前年末に投入されたSURTEES TS14が不振で ヘイル・ウッドは前半10戦中リタイア9回 R3南アフリカGP ヘイルウッドはタイヤがパンクし C・レガッツォーニ(BRM)と衝突 車は炎上 レガツォーニは意識不明のまま 車に取り残された中 ヘイルウッドは 炎の中に飛び込みシートベルトを外して レガツォーニを車から引きずり出して救出 この勇敢な行動で関係者から賞賛された 後半戦は4戦連続完走もあったが 決勝最高位は7位でポイント獲得ならず サーティスはこの年で離脱 翌1974年はプライベーター マクラーレンのマシンで参戦 キャリア最後のF1シーズンを迎える #1973年
230805 M.HAILWOOD 1973 23FW12C