南久太郎町 箱場印
初版 2022/12/29 08:31
改訂 2022/12/29 08:32
南久太郎町の箱場印は「南久」の二文字に外丸枠で、ご覧のとおり、外丸枠が摩耗していて見辛い印影が多いという特徴があります。
こちらは朱印の使用例で、差出人の堂々たる私印が裏面に押されています。
続いて黒印の使用例です。「摂河和の消印」では南久太郎町箱場印は朱印となっていますが、黒印は未収録です。この使用例は即売会の二つ折り葉書の箱に入っていたもので、「南久」=朱印、というイメージを持っていたので見つけた時は驚きました。
南久太郎町は先に紹介した南久宝寺町の2本北側の通りで、箱場は南久太郎町通りと堺筋の辻のあたりにあったものと推察されています。1枚目の使用例(朱印)の差出人は博労町二丁目にお住まいだったので、堺筋を少し北上してこの葉書を投函しに行ったのでしょう。
「久太郎町」とは面白い町名で、Wikipediaによると、「百済(くだら)町」が転じて訛って「きゅうたろうまち」になったという説と、織田信長と豊臣秀吉に仕えた武将である堀秀政(通称「久太郎」)がかつてこの地に屋敷を構えていたためという説があるそうです。西の端には南御堂と坐摩神社があり、当時は重要な通りであったものと推察しています。現在も大阪市中央区久太郎町として残っています。