井戸ノ辻 箱場印
初版 2022/11/03 07:57
改訂 2022/12/11 12:16
【2022/11/19 追記】井戸の辻の「井戸」の絵を見つけました!
【2022/12/4 追記】地図上で井戸の辻の「井戸」を見つけました!
【2022/12114 追記】井戸の辻の「井戸」の場所の説明文を見つけました
井戸ノ辻の箱場印は「井」一文字、丸枠付きの黒印です。「井」の字体が異なる2種類(Type AとType B)が存在します。
Type Aは、Type Bよりも「井」の真ん中の四角部分が小さくて正方形に近く、全体的に細身の印象を受ける印影です。
Type Bは「井」の真ん中の四角部分が大きく、若干横長の長方形になっています。
井戸ノ辻という地名は大阪市内には残っておらず、Webで調べて唯一ヒットした情報として、大阪市中央区のWebページ「中央区(旧南区)の町名(さ行)」の、順慶町通一~四丁目(現在の南船場一~四丁目の各一部)に記載されている、
「渡辺筋との辻に井戸があって井戸の辻と称された。新町廓の遊女が落籍されたときに足を洗うので足洗いの井戸ともいわれたが、早い時期に消滅した。」
が該当するものと思われます。
この場所を明治14年(1881年)の古地図「明治新選大阪市中明細全圖 : 附郡村名所里程細見記」(国際日本文化研究センター・所蔵地図データベースより引用)で示してみました。白丸が、順慶通と渡辺筋(北の方は魚棚筋と呼ばれていました)の交差点=辻です。
この地点は、現在の南船場4丁目7番地から10番地の四つl辻になります(当時の地図に合わせて、Google マップでも東を上にしています)。
しかしながら、「摂河泉の郵便印」では、ここから順慶町通りをさらに西に(地図だと下に)向かって西横掘(今の四ツ橋筋)にかかっている新町橋を渡り、2ブロックほど行った新町通二丁目あたりが「井戸ノ辻箱場」とされていて、上記の説明と食い違っています。
この井戸で「新町廓の遊女が落籍されたときに足を洗う...」とあるので、「摂河泉の郵便印」のように新町の中にあった方が自然だと思うのですが。あるいは、西区にあった新町を出て東に向かい、西横掘の新町橋を渡って南区に入って気持ちを新たに文字通り「足を洗った」のでしょうか。
箱場印、まだまだ分からないことだらけです。
【2022/11/19 追記】井戸の辻の「井戸」の絵を見つけました
インターネットを検索していた折に、「摂津名所圖會」という寛政10年(1798年)刊の文献に、「順慶町井戸辻夜店」という題目の版画があり、その中にこの井戸らしきものが描かれていることを発見しました。
摂津名所圖會 四上 (国立国会図書館デジタルライブラリー)
見開きの左ページの、板で囲われているのが話題の(?)井戸と思われます。それにしてもかなり名の通った夜店だったようで、人々の往来の中心部にこの井戸があったことが伺えます。なので当時の人々の間では「井戸の辻」という呼び名が浸透していたのでしょうね。
順慶町の夕市については、この文献に、
「順慶町の夕市は...万燈照らし種々の品にて飾て東は堺筋 西は新町橋まで両側尺地もなく連なる...」
とあるので、この井戸の場所は少なくとも新町橋の東側であることがわかりました。なので、「摂河泉の郵便印」のように新町の中(=新町橋を渡ってさらに東)に「井戸の辻」箱場があったというのはやはり少し妙な感じがしています...
【2022/12/4 追記】古地図上で井戸の辻の「井戸」を見つけました
箱場印のLabログを書いている作業の途中で、これまでより少し古い大阪の古地図データを眺めていたところ、井戸の辻の名前の発祥となった井戸らしきものを発見いたしました。
1863年の地図で、明治に入ってからの町名整理前なのでこれまで示した地図とは町名が違っていますが、大阪市中央区のWebページの記述のとおり、順慶町通と渡辺橋筋(西横掘沿いから一本東の筋)との辻(交差点)に、井戸らしきアイコンが描かれています。わざわざ地図に描かれるほど当時の人々にとっては馴染みの場所だったのでしょうね。「メシ食いに行こか?ほなら暮れ六ツに井戸の辻で待ち合わせやで」のように使われていたのでしょうか(笑)。
ということは、井戸の辻の箱場もこの場所に設けられていたとしても不思議では無いと思うので、これまでの推論が(ある程度は)裏付けられたように思っています。
【2022/12/11 追記】井戸の辻の「井戸」の場所:摂津名所圖會より
新町橋箱場のLabログの下書き中、先にご紹介した「摂津名所圖會」の四下、四ノ六十八「新町橋」を判読していたところ、
「 東の方 順慶町の内 此橋より 壱町許東の辻に井あり」
との記載を見つけました。この記載にある「此橋」とは新町橋で、「壱町許東の辻」とは「1町ほど東に行った所の辻」という意味なので、順慶町の中、新町橋より東に1町=およそ100m行ったところの辻(交差点)に井戸がある、ということになります。正確な距離の感覚があやふやではあるのですが、上記の1863年の古地図に描かれている井戸らしきアイコンの位置にほぼ合致しています。
また、同書にはこの井戸の由来として、元々はこの場所にあった浄国寺の井戸であり、(この)浄国寺は通りの名前となっている、との説明があり、こちらも上記の1863年の古地図に描かれている「浄国寺町」という通りの名称と合致しています。