浅井一毫 九谷焼 赤絵雲龍図 徳利 一対

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浅井一毫 あさいいちもう
九谷焼 赤絵 雲龍図 徳利 一対

明治の名工の一人
竹内吟秋の弟

浅井一毫    天保7年(1836)生、大正5年(1916)歿
 浅井一毫は、大聖寺藩士 浅井長石衛門の二男に生まれ、初め、幸八といいました。実兄 竹内吟秋と共に絵画を堀文錦、小島春兆に学び、嘉永3年(1851)、14才のとき、宮本屋窯で飯田屋八郎右衛門から赤絵を習いました。
 その後、大聖寺藩が殖産興業の振興に積極的に取り組み、八郎衛門の没後しばらくして閉ざされていた宮本屋窯を買収して藩営とすることになり、このとき、藩の産物方に属していた塚谷竹軒の下でその窯の買収にあたりました。
 万延元年(1860)、宮本屋窯は九谷本窯として再び蘇りました。一毫は、竹軒のもとで赤絵付や販路拡張に努めました。赤絵付のとき、八郎右衛門が所持していた『方氏墨譜寫本』を譲り受けていたので、大いに墨譜を活かしました。
 明治元年(1868)、大聖寺藩が商法局を置き、商会を京都、大阪に開いたとき、一毫はその書記となりました。とりわけ、大阪に窯を築き、陶画工を呼び寄せて、製品の制作、その販路拡張に奔走しました。
 翌年、江沼に滞留していた永楽和全の下で九谷焼の改良を藩から命ぜられました。中には和全が山代で製陶、一毫が大聖寺で着画を分担したものがありました。こうして、一豪は赤絵細描の名手といわれるほどになりました。
 その後、廃藩となって九谷焼が衰微しかかったとき、九谷本窯の再建に取り組んでいた塚谷竹軒と大蔵清七に協力し、また京都の美術商 池田清助とともに輸出品の制作を手がけました。
 この頃、金沢の阿部碧海窯から注文を受けたといわれます。金沢古寺町(現在の片町)に5基の錦窯を築いた阿部碧海は、優品の代名詞となった金沢九谷の基礎を築いた窯元を経営しましたが、購入品には目が高く、優品でないと満足しなかったといわれます。九谷庄三、松本佐平、松原新助らの名工と並んで注文を請けたほどでした。江沼では大蔵清七とともに選ばれました。
 明治13年(1880)、九谷陶器会社の画工部長となり、また事業拡張に専念しましたが、翌年、自営の道を選びました。以来、30数年間、優品の制作を続けました。
 銘は「九谷相鮮亭一毫造」「大日本相鮮亭」「角福」などがあります。
 門人に下出梅仙がいましたが、実兄 吟秋と比べ、その数はごく僅かでした。

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