-
のらくろ(質低下時代)
黒い雑種犬・のらくろが猛犬連隊に所属し、軍功を重ねて出世していく様を描いた戦争漫画。田河水泡の代表作であり、キャラクター商品も多く発売された。戦時中、日本軍からの指令で一時連載を打ち切るも、戦後にのらくろの職業を探偵と変えて連載を再開させている。登場キャラクターは基本的に動物であるが、人間も登場する。後に作者田河水泡の弟子たちによるチーム・のらくろトリオによって続編も描かれている。 のらくろべーは かなり有名であるが これは独楽博物館に展示してあるものと同じ型 独楽博物館には、同型のミッキーマウスもある。 かなり質が悪い鉄なのか、 われが見られる
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
豊登
豊登 道春(とよのぼり みちはる、1931年3月21日 - 1998年7月1日)は、福岡県田川郡金田町(現在の福智町)出身で立浪部屋所属に所属した元大相撲力士・元プロレスラー。本名は定野 道春(さだの みちはる)。最高位は東前頭15枚目。大相撲時代の体格は、身長173cm、体重105kg。レスラー時代の体格は身長174cm、体重114kg あるとは聞いていたが 川口郷土資料館で発見 かなり興奮した
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
カルネラ
プリモ・カルネラ イタリアフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州セクアルス生まれのプロボクサー、プロレスラー。ニックネームは動くアルプス。身長205cm。体重120kg。
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
浜口
浜口喜博(戦後競泳の選手) 49(昭和24)年の全米屋外男子選手権に、主将として稲泳会の村山修一、日大の古橋廣之進、橋爪四郎、浜口喜博、丸山茂幸、そして早大学院の田中純夫の自由形6選手が出場した。1500m自由形で古橋が18分19秒0 の驚異的な世界新記録をマークするなど、計9つの世界新記録を作り、敗戦で打ちひしがれていた日本国民に希望と勇気を与えた。
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
阿部
あべおさむ ■ニックネーム:ヒゲのレフェリー ■本名:阿部脩 ■身長・体重:175センチ、103キロ ■生年月日:1925年5月6日 ■出身地:北海道出身 ■得意技: ■主要タイトル:特になし ■所属団体: 日本プロレス→東京プロレス→国際プロレス 日本プロ創製期に活躍したレスラーで大相撲出身。現役時代の四股名は大成山といいった。大映専属の俳優としても活躍、力道山出演の映画「怒れ力道山」を初め、「ガメラ」シリーズなど多くの映画に出演。子供向けTV番組にも多数出演している。 一時はリングを離れていたが、豊登の東京プロ旗揚げに参加、国際プロレスに合併後はレフェリーとして活躍。ヒゲとホイッスルがトレードマークであった。外人レスラーに襲われてよく流血していた。 参議院選挙に出馬したが落選したのを契機に、プロレス界から引退した。すでに故人。
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
九州山
九州山 義雄(きゅうしゅうざん よしお、1913年10月20日 - 1990年5月30日)は、福岡県山田市(現嘉麻市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は大坪 義雄。最高位は西小結。現役時代の体格は身長176cm、体重88kg。 昭和5年(1930年)1月場所で初土俵を踏み、負け越しなしで昭和7年(1932年)5月場所に十両昇進、春秋園事件からの帰還組との対戦でもまれたために十両では時間がかかったが、昭和9年(1934年)1月場所、大正生まれとして初の幕内力士となった[1]。激しく動き回る相撲で相手を撹乱するのが得意であった[1]。昭和13年(1938年)1月場所には小結昇進、その場所大負けはしたものの、横綱玉錦を素首落としで破る殊勲の星を挙げた[1]。その年の6月に行われた準場所では、本場所で66連勝中、準場所で61連勝中、本場所と準場所の合算で87連勝中であった横綱双葉山を渡し込みで破り、名を轟かせた[2]。 その直後、応召して兵役に就き、中国戦線を歴戦。その間昭和14年(1939年)1月場所から昭和16年(1941年)1月場所までの5場所、番付は前頭2枚目格で張り出されていた。昭和16年5月場所に復帰、その後も幕内上位で活躍し、昭和17年(1942年)5月場所初日、横綱羽黒山を蹴手繰りで破った。十両に落ちることなく、昭和20年(1945年)6月場所まで土俵を務めていたが、終戦とともに廃業した。在郷軍人会の分会長も務めていた。(副会長は若浪義光だった) その後はプロレスに転向し、日本プロレスのレフェリーとして活動した。
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
オルテガ
ジェス・オルテガ アメリカ合衆国のプロレスラー。カリフォルニア州出身。出自はメキシコ系移民とされるが、プエルトリコ系という説もある。
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
東🗻
東富士 東富士 欽壹は、東京市下谷区出身の元大相撲力士・第40代横綱・元プロレスラー・実業家。本名は井上 謹一。 富士が山のイラストになってるものは かなりレアで 川口の資料館でしか確認してない
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
中島
中島治康(なかじま はるやす)は、野球殿堂入りを果たしたプロ野球選手です。 中島は、松本商業高校、早稲田大学を経て東京巨人軍で活躍しました。昭和13年春秋のリーグ戦で、打率3割5分3厘、本塁打11本、打点63という成績を残し、プロ野球史上初の三冠王を獲得しました。また、1943年途中から兼任監督を務め、同年の優勝にも導いています。 類い希なパワーと悪球打ちでボール打ちの名人として知られる。これは、次の投球を打つと決めたらどんな悪球でも絶対に変更せずに必ず打ったためで、学校の授業の時間割りのようによほどのことがない限り変更しないことに因んで、「時間割り」というあだ名もあったという[17]。得意にしていたセネタースの金子裕に対しては、ワンバウンド投球を後楽園球場右翼席に打ち込んで本塁打したという伝説がある[18]。ホームランバッターながら三振が少なく、加えて打ち気が強く四球を選ぶことを好まなかったため四球も少なかった[19]。 打撃フォームはいわゆるバケツに片足を突っ込むと言われる極端なアウトステップであったが、膝と腰を初め身体に非常に柔軟性があったことから肩が残って体が開かず、あらゆるコースの投球を自在に広角に打ち分けた[20]。カーブ打ちにも優れ、川上哲治は入団してから1年間中島の打撃を観察して学びカーブに自信を付けて首位打者を獲得するなど、カーブ打ちの生きた教科書とも呼ばれた[19]。 守っては、打者が打てそうもないとみるや思い切った前進守備を取り、その強肩でしばしば右翼手前に飛んだ打球をライトゴロにした。特に、1941年にはシーズン5度(二塁送球3・一塁送球2)のライトゴロを完成させるなど、通算20個のライトゴロを成立させている[21]。また、100メートルを11.2秒程で走る俊足を飛ばして右翼線際の飛球をよく好捕した一方で、右中間の打球に対しては判断が極端に早くて、自分が捕れないとみると絶対に捕球に走らず、「おーい、呉いけ!ゴーゴー」と全て当時の中堅手・呉波に任せた。これには呉も閉口し「班長は、みんな俺に捕らせる」とこぼしていたという[22]。 のちに、巨人の主力打者となる川上哲治・青田昇の素質を見いだしたとして、以下の話がある。 1938年シーズン途中で、一塁手のレギュラーだった永沢富士雄が負傷した。代わりがおらず監督の藤本定義が弱っていると、中島はバッティングが優れている事を理由に当時投手であった川上を使うよう進言する。こうして急遽一塁手として出場した川上はいきなり3安打を打つと、秋季シーズンからは永沢に替わってレギュラー一塁手となった[23]。 1941年秋に藤本定義と水原茂・中島の3人が、中等野球界随一の剛速球を誇る別所昭を見るために、別所を擁する滝川中学が出場した明治神宮中等野球大会を観戦した。その際に中島は中堅を守っていた青田に目を付け、滝川中監督の前川八郎に青田が卒業したら巨人に入団させるよう約束した。翌1942年に戦況の悪化のため夏の甲子園大会が中止になると、青田は中島の約束を頼りに巨人に連絡して中学を中退し、7月1日付で巨人へ入団した[24]。 声が大きく藤本定義監督から号令係を命じられたことで生まれた班長のニックネームで慕われた[18]。投手が少しでも変な球を投げると、右翼の守備位置から「どこに投げとるんだぁ、しゃんとせい!」「ストライクを放るんだぁ」と大声で怒鳴り、エースのスタルヒンに対しても四球でも出そうものなら「こら、スタ公、真ん中へ投げんか!」と同様であった[25]。一方で、投手が好調な時は「いいぞいいぞ、その調子!」と激励し続けるなど、試合開始から終了まで大声で喋りっぱなしであった[26]。また、グラウンドでは一切笑顔を見せない独特の風格に人気があった。
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
バッド・カーチス(カーティス)
バッド・カーチス Bud Curtis ■ニックネーム:中米の砲弾男 ■本名:ハロルド・カーティス ■身長・体重:178センチ、106キロ ■生年月日:1917年8月6日(2006年6月7日没) ■出身地:米・インディアナ州テレホート出身 ■得意技:ドロップキック ■主要タイトル: 中南米タッグ(日本版) パシフィックノースウエスト・ヘビー ハワイ・タッグ ■来日回数:1回 ■参加シリーズ: 30 7 (日) プロレス国際試合 ジェス・オルテガとともに中南米タッグ選手権者として来日したが、果してそのようなタイトルが実在したかどうか全く不明。中南米タッグとハワイ・タッグを賭けたダブルタイトルマッチで力道山&東富士組と対戦し、力道山の空手チョップの猛攻にし失神し、担架で運ばれる醜態を見せてしまった。
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
ペレス
ベーゴマの中では特異な ボクシングのベーゴマで 中王サンガンべー パスカル・ニコラス・ペレス(Pascual Nicolás Perez、1926年3月4日 - 1977年1月22日)は、アルゼンチン・メンドーサ州出身の男性プロボクサー。 世界フライ級王座を9度防衛した。 戦歴 1948年、ロンドンオリンピックフライ級で金メダルを獲得。 1952年、鳴り物入りでプロデビュー。以来18戦連続KO勝利を記録する。 1954年7月24日、アルゼンチンで白井義男と対戦も引き分けに終わり連勝は23でストップ。(白井義男 対 パスカル・ペレス戦) 1954年11月26日、初来日し、後楽園球場特設リングにてその白井が持つ世界フライ級王座に挑戦。判定の末勝利し王座獲得。 1955年5月30日、後楽園球場にて白井との再戦を5RKOで返り討ちにして初防衛。
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
糸引き独楽
江戸独楽の広井さん制作の独楽。 超絶うつくしい
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
京こま
雀休さんの「京こま」 ジーコにもろた。 会いたい人なんやけど 日月がおやすみなので なかなかあえないw 紙の帯をまいて作る独楽です
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
台湾独楽
台湾の独楽。神業まといれに使ってるタイプ。 芯が上になるようにもち、下投げでなげて起き上がってきたところを少し引くようにしてコントロールする
全日本ベーゴマ学会収蔵庫
-
佐世保こま
九州北部の独楽のなかで 平戸はぼうず 福岡は平こま 熊本は先端がとんがってる 八女は平こまの中央がとんがってる そして、佐世保は坊主型にちかいが上部に凹凸がある
全日本ベーゴマ学会収蔵庫