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鴻之舞鉱山 精金作業/北海道紋別市 PC020-05
この絵葉書に写っているのは全泥式青化製錬で得られた沈殿物(金銀殿物)を乾燥、焙焼した上で重曹、硼砂などの溶剤を加えて傾転式溶解炉で溶解し、不純物の多いカラミと呼ばれる鉱滓(こうさい)を分離する工程です。カラミを分離した後の溶解物が青金と呼ばれる金銀合金で、ドーレと呼ばれる金品位約90%の延べ棒に加工されます。これらの一連の工程を精金作業といいます。ドーレは同じ住友傘下の新居浜や瀬戸内海の四阪島の精錬施設に航送され、電解精錬により、純金・純銀に加工されました。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量では菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 青化場金銀沈殿装置/北海道紋別市 PC020-04
鴻之舞鉱山には1927年(昭和2年)に湿式製錬の一種である全泥式青化製錬法を用いた製煉所が設けられました。手選を経た金銀鉱石はコニカルミル等の磨鉱機による複数段階の処理を経て泥状になるまですりつぶされ、消石灰を投入して強アルカリ性を保ちつつ加水し、スラリーと呼ばれる懸濁液にします。このスラリーにシアン化ナトリウムやシアン化カリウムを0.1~0.3%含んだ水溶液を加え、更にコンプレッサーで酸素を供給しながら2昼夜にわたりアジテーターで攪拌し、金を水溶性の [Au(CN)2]−に変化させます。撹拌を終えたスラリーを濾過して得られた溶液を貴液と呼び、この貴液から今度は真空装置で酸素を除き、シアン酸イオンと結び付きやすい亜鉛粉末を加えて金銀を析出・沈殿させます。更に沈殿物中の亜鉛粉末を硫酸で溶解除去し、残った沈殿物(金銀殿物)を回収し、次工程の精金作業に進みます。絵葉書に写っているアコーディオン状に見える装置は貴液を得るための縦型リーフフィルターと呼ばれる濾過装置です。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量では菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 選鉱作業/北海道紋別市 PC020-03
坑内の採掘現場から搬出され、ブレーキクラッシャーと呼ばれる破砕機で砕かれベルトコンベアによって運ばれてきた鉱石を、防塵マスクをつけた女性作業員が肉眼で選別している手選鉱(手選、てせん)の作業光景です。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 製錬所全景/北海道紋別市 PC020-02
鴻之舞鉱山を買収した住友総本店は直ちに製錬所建設に着手、翌1918年(大正7年)に日量15トン処理可能な製錬所を完成させ、操業を開始しました。1924年(大正13年)には火事で製錬所が全焼するという事故に見舞われたものの、再建後製錬設備は数次に亘り増強され、1928年(昭和3年)には日量140トン、1936年(昭和11年)には日量1,200トン、1942年(昭和17年)には日量3,000トン処理可能な製錬設備が完成しました。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 元山第二通洞鉱石運搬/北海道紋別市 PC020-01
通洞坑(つうどうこう)から鉱車で鉱石を搬出する光景です。通洞坑は運搬・排水・通気などのため坑口から水平に掘削された主要坑道のことです。鴻之舞鉱山で最初に開発された元山鉱床には第一~第三の通洞坑が設けられましたが、第二通洞坑は1925年(大正14年)に完成しました。坑口の脇に開坑日と改修日を記したプレートが写っており、改修年は「昭和拾年」と読めます。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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鴻之舞鉱山 絵葉書セット袋/北海道紋別市 PC020-00
絵葉書のセット袋に住友の井桁マークが入っており、恐らく住友総本店(後の住友金属鉱山)が昭和10年代に作らせたものと思われます。 鴻之舞鉱山は1915年(大正4年)に発見され、共同組合方式で開発が始まりましたが、1917年(大正6年)に住友総本店(後の住友金属鉱山)が買収、以後資源枯渇等により1973年(昭和48年)に閉山になるまで、累計で金72.6トン、銀1,234トンを産出したとされ、金生産量は菱刈鉱山(鹿児島県、現在も稼行中)、佐渡鉱山(新潟県、1989年(平成元年)閉山)に次ぐ日本第3位の大規模金山でした。
北海道紋別市鴻之舞 鴻之舞鉱山石泉亭
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方解石 (calcite) 神岡鉱山 栃洞坑 #0035
滑るような光沢を見せる方解石の陣笠状結晶のクラスターです。 神岡鉱山は、約2億5千万年前にできたとされる飛騨片麻岩の中に含まれる結晶質石灰岩を火成岩起源の熱水が交代したスカルン鉱床で、亜鉛、鉛、銀、石灰を産しました。神岡鉱山の採掘は奈良時代養老年間(720年頃)には既に始まっており、1589年(天正17年)、豊臣秀吉により飛騨に封じられた金森長近の家臣糸屋彦次郎(後の茂住(もずみ)宗貞)が鉱脈を発見、金山奉行として茂住鉱山、和佐保銀銅山を経営しました。江戸時代には飛騨地方は天領(幕府領)となり、明治維新後の1874年(明治7年)に三井組が栃洞(とちぼら)坑を買収、1889年(明治22年)には茂住坑を取得して神岡鉱山全体の経営を握りました。三井組とその後身である三井鉱山、三井金属鉱業は神岡鉱山の近代化を進め、1968年(昭和43年)には栃洞坑に国内初のトラックレスマイニング法(トロッコなどの軌道を使用せず、坑道を全て斜坑でつなげる採掘方法)を導入するなどして大規模採掘を続け、神岡鉱山は東洋一の鉱山とも呼ばれました。2001年(平成13年)に閉山するまでの総採掘量は、約130年間で7,500万トンに達したとされています。その一方で、閃亜鉛鉱に含まれるカドミウムを原因とし、富山県神通川流域で大規模な公害病被害(イタイイタイ病)が発生し、多くの人々が長年にわたり苦しみました。なお、茂住坑跡地に東京大学宇宙線研究所により、ニュートリノ観測装置であるスーパーカミオカンデが設けられています。
炭酸塩鉱物 岐阜県飛騨市 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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閃亜鉛鉱・黄鉄鉱 (sphalerite/pyrite) 日正鉱山 #0024
閃亜鉛鉱と黄鉄鉱が共生し縞状構造をなしています。 日正鉱山は奥羽本線の釜淵駅の北西約5kmに所在した、銅・鉛・亜鉛を主体とした鉱脈型鉱床です。「日本の鉱床総覧」によれば、発見は江戸時代末期と云われるが年代不明で、1901年(明治34年)に古河鉱業の所有となり、1917年(大正6年)に藤田組の経営となったがまもなく休山、その後断続的に稼行され、第二次大戦後1954年(昭和29年)に通洞坑を開発、1957年(昭和32年)には選鉱場が完成、同年同和鉱業の経営となって開発が進められたが、1963年(昭和38年)に休山したとされています。現地では今も山中に大規模な浮遊選鉱場跡と変電所跡が残っているそうです。
硫化鉱物 山形県最上郡真室川町大沢 日正鉱山石泉亭
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重晶石 (barite) 鷲之巣鉱山 #0028
重晶石は無水硫酸塩鉱物でもっとも普通のバリウムの鉱物の一つです。自形結晶は本標本でも見られるように多く斜方板状で、色、大きい比重、低硬度、劈開(へきかい)などが特徴です。 鷲之巣鉱山は中期中新世 (1,540~1,360万年前)の川尻凝灰岩部層の流紋岩溶岩に伴う流紋岩岩脈中の中温熱水鉱床で、主な採掘対象は銅、副産物として金、銀を産出しました。1095年(嘉保2年)に開かれ、奥州平泉文化(藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡4代)に貢献したと伝えられています。1901年(明治34年)に深沢多吉が再発見し、1903年(明治36年)~1915年(大正4年)にかけて金を採掘、以後1915年(大正4年)から1963年(昭和38年)に休山するまでは主に銅を採掘しました。
硫酸塩鉱物 岩手県和賀郡西和賀町 ミニチュアサイズ石泉亭
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蛍石 (fluorite) 蛍鉱山 #0016
蛍鉱山で多く見られる小粒の蛍石の群晶で、白色半透明のため一見判り難いものの、紫外線ではっきり蛍光します。 蛍鉱山の蛍石鉱床について、「福島県鉱産誌」には『鉱床は、高畑山の急斜面を刻蝕して東流する幽澤、鍋澤、大澤の3支流を南北に貫き、花崗岩巨礫に富む第3紀礫岩および角礫岩中に発達する網状石英蛍石脈で、幅0.1~2.0mあり、延長は500m以上にわたっている』とあります。蛍鉱山は1937年(昭和12年)に日本弗化工業が採掘を開始し、800トン弱の蛍石を産出しましたが、太平洋戦争の激化に伴って1944年(昭和19年)に閉山しました。
ハロゲン化鉱物 福島県南会津郡南会津町宮里 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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日立鉱山 助川荷扱所/茨城県日立市 PC013-08
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「助川荷扱所」です。「助川荷扱所」は現在のJR常磐線日立駅の前身で、1897年(明治30年)に日本鉄道の助川駅として開業しました。1908年(明治41年)に助川駅(助川荷扱所)と日立鉱山(大雄院荷扱所)を結ぶ総延長5.4kmの日立鉱山専用電気鉄道が開設され、鉱山/製錬所との間の物資輸送を担いました。別名を助川専用電気鉄道、略称「助電」ともいうこの電気鉄道の建設は、日立製作所の創設者である小平浪平が指揮したと云われています。この絵葉書には架空電線と貨車が写っています。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 事務所/茨城県日立市 PC013-07
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山事務所」です。日立鉱山の鉱山事務所はもとは採掘現場に近い本山(もとやま)地区にありましたが、1909年(明治42年)に製錬所のある大雄院地区に移転しました。この写真は移転後のもので、事務所の向こう側に製錬所とそれに繋がる煙道の一部が見えます。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 電錬所/茨城県日立市 #PC013-06
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山電錬所」です。日立鉱山では1911年(明治44年)に現在の茨城県北茨城市中郷町に水力発電所「石岡第一発電所」を建設し、同年にその電力を利用して電解精錬を行う芝内電錬所を設けました。「日立市の歴史点描」というWebサイトに、この電錬所を紹介した1912年(明治45年)当時の『中外商業新報』(現在の日本経済新聞)の記事が掲載されていましたので、その一部を転記の上、現代語訳を付けてみました。 「電氣分銅所は助川驛と事務所間の中點にあつて全部コンクリートに依て築かれた荘厳なる建物である、闥を排し手入れば先づ電流發動機の大設置に一驚を喫する、ト見る長さ二百七十尺横五十八尺の一室に二百餘個の電槽が底深く築かれて無数の銅板が今や分解に附せられている、鐵橋の如きクレーンは中空を自由自在に横行する、電解液は絶えず流動していて槽底には金銀が泥色を呈して沈澱する、分解に附すれば純銅は九九、八となる、四百キロの機械二臺で一ヶ月百萬斤を摂取し得るといふ」 (現代語訳)「電気分銅所は助川駅と事務所の間のちょうど中間地点に位置し、全てコンクリートで建てられた荘厳な建物です。門をくぐって内部に入ると、まず電流発動機の大規模な設置に驚かされます。さらに目を向けると、長さ約82メートル、幅約18メートルの一室の中に200個以上の電解槽が深く設置されており、数え切れないほどの銅板が今まさに分解されている様子が見られます。鉄橋のようなクレーンは、空中を自由自在に移動しています。電解液は常に流動し、電解槽の底では金や銀が泥状になって沈殿しています。分解が行われると、銅の純度は99.8%に達します。400キログラムの機械2台によって、1ヶ月で約500トンの銅を得ることができると云われています。」 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 製錬所コンバーター/茨城県日立市 PC013-05
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山製錬所コンバター」です。「コンバター」はコンバーター(converter)、日本語で云う転炉のことです。選鉱により銅含有量30%程度にした銅精鉱を自溶炉で加工して銅品位約65%のマットとした後、更に転炉で精錬して銅品位約99%の粗銅を得ます。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 本山鉄索/茨城県日立市 PC013-04
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山本山鉄索」です。「鉄索」は輸送用のロープウェーのことで、この写真は採掘した鉱石を本山(もとやま)の選鉱所に搬入する最終部分のものと思われます。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭