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2001 (21ST) PMA ARROWS ASHIATECH A22 E.BERNOLDI (GP MONTE CARLO PRACTICE)
奇策 フロント トップウイング ARROWS A22 モナコGP ベルノルディ 2001年モナコGP ダウンフォース不足の奇策として アロウズはフロントノーズ先端上部に 苦肉の策ともいえるミニウィングを装着 パドックでは話題になるも 視界不良や破損時の危険も指摘された 木曜日のフリー走行1.2はこの仕様で走行 しかしFIA(国際自動車連盟) から 危険な構造物と判定され 土曜日以降は使用が禁止された為 わずか1日限りの仕様となった モデルはミニチャンプス エンリケ・ベルノルディ GP MONTE CARLO PRACTICE 台紙表記 モナコGP 予選20位→決勝9位 このレースはD・クルーザード(マクラーレン)が 予選PPスタートもエンジンストールで最後尾に 後ベルノルディにレースの半分近くを抑えられ 最終的に5位でフィニッシュするも クルザードはベルノルディに怒り心頭 チャンピオン争い影響を及ぼす結果となったが ベルノルディは同一周回で走行しており ルール上は何も問題はなかった
250313 E.BERNOLDI 2001 15FW12C
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2001 (21ST) PMA ARROWS ASHIATECH A22 E.BERNOLDI
F1 レッドブルドライバー 第1期生 E・ベルノルディARROWS ASHIATEC A22 エンリケ・ベルノルディ ブラジル出身 国際F3000時代はレッドブル・ジュニアに所属 2001年F1へのステップアップに際し レッドブルはザウバーと交渉したものの キミ・ライコネンという逸材を見つけた オーナー ペーター・ザウバーはこれを拒否 ベルノルディはレッドブルのスポンサー付きで アロウズのセカンドシート獲得 チームメイトは ヨス・フェルスタッペン 予選ではフェルスタッペンに10-7で勝るも 決勝では経験不足もあり成績が安定せず R12ドイツGPの決勝8位が最高 レッドブルのスポンサーマネーもあり ベルノルディは翌2002年もアロウズ残留 後にF1界で一大勢力を作る レッドブルドライバー第1期生とも呼べる モデルはミニチャンプス 前年同様のスポンサー フランス通信大手Orange主体の オレンジ/ブラックのカラーに ベルノルディ持ち込みのレッドブルが加わった
241104 E.BERNOLDI 2001 15FW12C
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1969 12TH BRUMM FERRARI 312 C.AMON (GP SPAIN)
資金難フェラーリ 1台エントリー クリス・エイモン途中離脱 1969年フェラーリは資金難で市販車部門が 経営安定のためフィアット傘下に入る状況 スクーデリア・フェラーリはエンツォが 立て直しを図り1台のみのエントリー クリス・エイモンはフェラーリ3年目 R2スペインGPでは予選2位 決勝は途中トップに立つと2位に 40秒以上の差をつけ独走状態であったが エンジンが壊れまたも初勝利ならず モデルはBRUMM R2スペインGP仕様 予選2位→決勝リタイア 前年度より導入されたリアウイング 試行錯誤が続く中でスペインGPは 高い位置に設置し一定の効果を得た 勝てそうで勝てなかったドライバー クリス・エイモンの最も勝利に近かった グランプリのモデル #1969年
240612 C.AMON 1969 15FW12C
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2000 (20TH) PMA PROST PEUGEOT AP03 N.HEIDFELD
クイック・ニック F1デビュー N・ハイドフェルド PROST PEUGEOT AP03 ニック・ハイドフェルド ドイツ出身 1999年 国際F3000 チャンピオン(4勝) 同年マクラーレンのテストドライバー 冷静さと速さを兼ね備え 愛称で〖コンピューター・キッド〗 〖クイック・ニック〗などとも呼ばれた 2000年はメルセデス契約の元 プロストからF1デビュー チームメイトはジャン・アレジ チーム内の統率力が無く マシンにも影響を及ぼし 期待されたルーキーも 予選最高13位 決勝最高8位と振るわず チームメイトのアレジとの接触もあった この後2012年までF1をドライブする ハイドフェルドがシーズンポイント無しで 終わるのは2000年のみ 翌2001年はザウバーに移籍 キャリア最高位2位のドライバーの 一人で最終的に183戦出場する モデルはミニチャンプス GP表記の無いRACE CAR仕様 タバコブランド ゴロワーズ禁止時の 白のバーコードバージョン 前年に続きプレイステーションがスポンサー
240531 N.HEIDFELD 2000 15FW12C
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1976 (43RD) PMA (LEXINGTON RACING) TYRRELL 007 I.SCHECKTER
2年連続同一マシンによる兄弟同時出走 シェクター兄 イアン TYRRELL 007 1976年R3南アフリカGP 前年度同様イアン・シェクターは TYRRELL 007のマシンに乗り プライベーターで参戦 弟のジョディもティレル本隊で TYRRELL 007でエントリーしており 2年連続同一マシンの兄弟同時出走が実現 イアンはキャリアベストとなる予選16位も 決勝は1周もできずにリタイア 弟ジョディは予選12位→4位入賞 1976年イアンはこのレースのみ 翌1977年はマーチでキャリア最多 14戦エントリーのF1ラストイヤー モデルはスパーク イアン1戦限りのR2南アフリカ仕様 LEXINGTONはルクセンブルグのタバコブランド シェクター兄弟の祖国 南アフリカでは BAT(ブリティッシュ アメリカン タバコ)の 子会社が販売 日本では通常販売無し このモデルはLEXINGTONの文字のみ 最初からデカールが貼られており ロゴマークのみが別で添付されている 前年1975年のミニチャンプスのモデルは LEXINGTONの文字も無くデカール添付無し https://muuseo.com/FW12C/items/1502?theme_id=32702
240311 I.SCHECKTER 1976 15FW12C
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1977 (45TH) IXO RENAULT RS01 J.P.JABOUILLE
オールフレンチ ルノーデビュー ジャン・ピエール・ジャブイユ RENAULT RS01 1977年フランスのルノーが参戦 RS01にはF2用をベースとした F1初のターボエンジンを搭載 タイヤはミシュランが初参戦 F1初のラジアルタイヤを装着 燃料はエルフ ドライバーはジャン・ピエール・ジャブイユ オールフレンチでのF1挑戦が始まった R9フランスGPはあえて避けて R10イギリスGPよりデビュー 予選21位→決勝はエンジンが壊れリタイア 2戦欠場後のR13オランダGPでは 予選10位と健闘も決勝はリタイア 年間で5戦出場 1度予選落ち 決勝進んだ4戦はいずれもリタイア たびたびエンジンから白煙をあげ イエロー・ティーポットを揶揄された 最終戦日本GP(富士SW)は不参加 F1界においてはターボエンジン 幕開けに向けた記念すべき1台 モデルはIXO (デアゴスティーニ) F1マシンコレクション GP仕様の表記はないが フロントウイング形状 リアウイングのカラー・ロゴから 初参戦のR10イギリスGP仕様と思われます
240208 J.P.JABOUILLE F1マシンコレクション 1977FW12C
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1975 10TH SPARK SHADOW DN5 T.PRYCE
トム・プライス 初の表彰台3位 自身唯一のPP獲得 SHADOW DN5 1975年トム・プライスは前年後半に トークンから移籍したシャドウで レギュラーシートを獲得 チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ R3南アフリカより新車DN5が プライスにも与えられて R5モナコGP予選でフロントロー獲得 2度の6位入賞の後 R10イギリスGP予選 自身キャリア唯一となる ポール・ポジション獲得→決勝はリタイア R12オールトリアGPでは 予選15位から初の3位表彰台獲得 年間では5度の入賞 ランキングは10位 翌1976年はロータス移籍の噂もあったなか エースとしてシャドウに残留 モデルはスパーク オランダGP仕様 3位と表記されているが 当該GPは予選12→決勝は6位 ●GPの表記ミス オランダ➡オーストリア ●順位の表記ミス 3位➡6位 のどちらかと思われます
231226 T.PRYCE 15 1/43FW12C
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1999 (20TH) PMA ARROWS A20 T.TAKAGI
開幕直前アロウズシート獲得 高木虎之介ポイントならずARROWS A20 1999年シーズン開幕直前に アロウズのシートを獲得の高木虎之介 チームメイトは新人ペドロ・デ・ラ・ロサ 開幕戦オーストラリアで予選17位 決勝は入賞一歩手前の7位完走 この予選・決勝のリザルトがシーズンベスト 決勝の7位は虎之介のキャリアベスト このGPではデ・ラ・ロサが6位入賞 チームに貴重な1ポイントをもたらし 1ポイントで並んだミナルディには 虎之介の7位により上回り コンストラクターで9位となった 虎之介はこの年でF1からは去り 日本人フル参戦ドライバ―としては 唯一の無得点者でF1通算32戦(失格1回)で ノーポイントは歴代ワースト4位 翌2000年フォーミュラーニッポンに復帰 10戦中8勝で圧勝のチャンピオンを獲得 2003年にはインディ500の ルーキーオブザイヤーを獲得している モデルはミニチャンプス 収集初期に購入したモデル この年の虎之介のモデルは TEST CAR /SHOW CAR /別注モデルなど 沢山のバリエーションが存在する 🏁高木虎之介 (日本) 【決勝出走数】31回 【予選最高位】13位(2回) 1998年 ティレル R1オーストラリア 1998年 ティレル R3アルゼンチン 【決勝最高位】 7位 1996年 アロウズ R1オーストラリア
230913 T.TAKAGI 1999 15FW12C
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1980 8TH QUARTZO RENAULT RE20 J.P.JABOUILLE
2年連続入賞が優勝のみ ジャン・ピエール・ジャブイーユ ジャブイーユはルノー4年目 チームメイトは前年同様R・アルヌー 開幕戦よりニューマシンRE20を投入 この年もターボエンジンに左右され 予選ではPP2回 2位4回と速さを見せたが R9までに完走扱いの10位が1回のみ この間にアルヌーが2勝を含む入賞を4回 ジャブイーユのチーム内の立場も 微妙のものになっていった R10オーストリアGPは 予選2位からトップに立ち アラン・ジョーンス猛追をしのぎ 最後は0.8秒差で逃げ切り優勝 ジャブイーユの自身2勝目は 2年連続の入賞が優勝のみの珍しい記録 R13カナダGPのブレーキトラブルで クラッシュし両足を骨折 最終戦を欠場するとともにルノーを離脱 ターボエンジン開発ドライバ―として 多くのチームから声がかかる中 翌1981年はリジェへ移籍 RE20のマシンは号数で2番目の数値を 表記する場合がありこのモデルは 開幕のアルゼンチン仕様でRE22の表記 #F1-1980年
230722 J.P.JABOUILLE 1980 15FW12C
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1974 (30TH) SPARK BRM P201 C.AMON
クリス・エイモン自身10チーム目 終盤2戦 BRM P201で出走 1974年自己チームエイモン設立も 入賞どころか完走すらなく 資金難でR13イタリアGPで撤退 そんな中でBRMより声がかかり 終盤2戦をエントリー BRMが自身通算10チーム目となった チームメイトはJ・P・ベルトワーズ BRMはこの年スポンサーはフランスの オイル会社モチュールが付き カラーリングがグリーンとシルバーに変更 R14カナダGP予選25位→周回不足 R15アメリカGPはベルトワーズ欠場の中 予選12位→9位この年唯一の完走 チームBRMもかつての輝きは無く 翌1975年は1台体制になり エイモンはエンサインに移籍した 1714
230707 C.AMON 15 1/43FW12C
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1975 (50TH) SPARK TYRRELL 007 M.LECLERE
元祖 ルクレール ミッシェル F1 デビュー TYRRELL 007 ミッシェル・ルクレール (フランス) 現在活躍中のシャルル・ルクレールが モナコ出身に対しミッシェルはフランス トリコロールカラーをモチーフにした トップが赤いヘルメットが特徴 1972年 フランスF2チャンピオン 1975年 ヨーロッパF2 2位 この時のチャンピオンはジャック・ラフィー 1975年 F1最終R14 アメリカGP フランス エルフの後押しもあり ティレルのサードカーとしてデビュー チームメイトはジョディー・シェクター パトリック・ドュパイエ 予選はトップから約4秒落ちの20位で通過 決勝は6周目にエンジンが壊れリタイア ティレルでの出場はこの1戦のみ 翌1976年はウイリアムズで 地元フランスまでの6戦限りの出走 このティレル007の車体は プライベートチームにも販売され 1976年は星野一義 1977年は高橋国光が 日本GP 富士SWに出場している
230306 M.LECLERE 1975 15FW12C
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1998 15TH PMA SAUBER C17 PETRONAS J.HERBERT
F1-10年生 ベテランコンビ ジョニー・ハーバート SAUBER C17 J・ハーバートはザウバー3年目 チームメイトは同じ1989年デビューの J・アレジ F1-10年目のベテランコンビ エンジンはPETRONASバッジのフェラーリ ハーバートは開幕戦オーストラリア 予選5位→決勝6位入賞 幸先の良いスタート しかしこれがどちらもシーズンベストで これ以降の入賞は無く年間1ポイント 15位 前年度はエース待遇もあり入賞を重ねたが アレジの加入で待遇を奪われ関係も微妙に チームオーダーを出されたレースもあり ハーバートはチーム残留のオファーを断り 翌1999年はスチュワートに移籍 結果 自身最後の勝利を手に入れる #1998
230216 J.HERBERT 15 1/43FW12C
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1998 15TH PMA SAUBER C17 PETRONAS "TOWER WING″ J.HERBERT
SAUBER C17 PETRONAS "TOWER WING″ ジョニー・ハーバート サウバーの導入したTOWER WINGは 外側が2本内側が1の支柱で支える 独得の形状のものでカラーリングも ウイング板がPETRONASのカラーになっている R4サンマリノGPではチームメイトの ジャン・アレジがレース中のピットインで タワーウィングに給油ホースを引っかける事故 この事故がきっかけでR5以降は禁止となるが 事故は口実でマシンの美観が損なう というのが主だった禁止理由とみられている サウバーはこのウイングが禁止された R5スペインGP以降はしばらく入賞が無く 多少の禁止の影響があった可能性がある
230216 J.HERBERT "TOWER WING″ 2.222FW12C
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1978 17TH QUARTZO RENAULT RS01/2 J.P.JABOUILLE
フランス チーム ルノー ターボエンジン 初入賞 J・P・ジャブイ-ユ RS01/2 1978年 前年度より参戦ルノーは 本格参戦を果たすがル・マン24時間を 優先の為 開幕2戦は欠場 ドライバーはJ・P・ジャブイ-ユの1台体制 R3南アフリカGPで予選6位と速さをみせる ターボエンジンが改善され直線スピードが伸び R12オーストリア R14イタリアでは予選3位 しかし決勝の信頼性は上がらずに 途中7戦連続のリタイアと苦しんだ それでもR15アメリカWEST GPでは 予選9位→決勝4位入賞 記念すべきルノーとターボエンジンの初入賞 モデルはそのアメリカWEST GP仕様 J・P・ジャブイ-ユにとっても初入賞 生涯入賞回数は3回で他の2回は優勝 下位での入賞はこの1回限り ジャブイーユはフランスの同胞で F1通算6勝のジャック・ラフィーとは 義理の兄弟(互いの妻が姉妹)でもある #F1-1978年
230125 J.P.JABOUILLE 1978 15FW12C
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1997 18TH PMA PROST MUGEN HONDA JS45 S.NAKANO
日本人フルタイム5人目 中野信治 F1デビュー PROST MUGEN HONDA JS45 父 中野常治氏も全日本F2参戦したドライバ― 中野信治はフォーミュラニッポンでの 優勝経験がなかったものの(年間6位が最高) 無限ホンダの後押しもありリジェと契約 しかし1997年チーム名がプロストに変わると 早々に翌1998年からエンジンがプジョーに 変更が発表されるなど立場が微妙になり ルーキーながらTESTもままならない状況 R7カナダGPでは7位走行中に チームメイトのO・パニスがクラッシュ 赤旗中断となりレースはそのまま終了 これにより6位に上がりF1初の入賞 R11ハンガリーGPでは E・アーバイン(フェラーリ)との激闘を制し 自身2度の6位入賞 年間2Pで順位は18位 中野は1年限りでプロストを離脱 翌1998年は開幕直前にミナルディのシート獲得 #F1-1997年
221120 S.NAKANO 15 1/43FW12C