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2001 12TH HOT WHEELS JAGUAR R2 E.IRVINE
自身2年ぶり ジャガー初の表彰台 エディ・アーバイン JAGUAR R2 2001年ジャガー2年目のアーバイン チームメイトは開幕当初ルチアーノ・ブルディ R5~はペドロ・デ・ラロサ日本参戦コンビ R7モナコGP 予選シーズンベストの6位 決勝J・ヴィルヌーブとの争いを制し3位 自身2年ぶり ジャガーは参戦2年目で初の表彰台 この時の表彰台はフェラーリの1.2フィニッシュで 1位ミハエル・シューマッハ 2位ルーベンス・バリチェロは いずれも元チームメイトであった R16アメリカGPで5位入賞と シーズン入賞は2回でランキング12位 チームはマクラーレンのデザイナー エイドリアン・ニューウェイの招集に失敗 チームオーナーの元F1ドライバー ボビー・レイホール失脚し 後任はニキ・ラウダが就任した アーバインはチームに残留 翌2002年F1ラストシーズンを迎える モデルはHOT WHEELS GP表記無い RACE CAR仕様 2年連続でHOT WHEELS から ジャガーのモデルが発売されたが 2002年のJAGUAR R3は未発売 アーバインのラストマシンは 現時点(2025年)でどのメーカーからも 量販モデルが発売されていない空白モデル 2436
250211 E.IRVINE 2001 18FW12C
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2000 13TH HOT WHEELS JAGUAR R1 E.IRVINE
フェラーリから移籍のアーバイン 期待外れのジャガー JAGUAR R1 2000年4年間過ごしたフェラーリを離れ 新生ジャガーに移籍のE・アーバイン チームメイトはジョニー・ハーバート 全日本F3000出身コンビ 前年度コンストラクター4位の スチュワートグランプリをフォードが買収 同社傘下のジャガーブランドでエントリー 往年のブリティッシュ・グリーンを復活 アーバインは予選で3~5列目を獲得も 決勝は苦戦が続きR7モナコGPで 予選10位→決勝4位 チーム初入賞を果たす R10オーストリアGPは腹痛で欠場 (代役はルチアーノ・ブルティがデビュー) 最終R17マレーシアGPで予選7位から シーズンようやく2度目の入賞6位 前年度最終戦までチャンピオン争いをした アーバインであったが入賞わずか2回 4ポイント 年間ランキング12位 新チーム移籍で不本意なシーズンとなった モデルはHOT WHEELS GP表記の無いRACE CAR仕様 JAGUARのモデルは前年のシチュワート同様 HOT WHEELSのみでの発売 アーバインの代役でGPデビューした ルチアーノ・ブルティのJAGUAR R1の 量産モデルは残念ながら発売されていない (と思う)
240520 E.IRVINE 2000 7FW12C
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1999 2ND HOT WHEELS FERRARI F399 E.IRVINE
エディ・アーバイン 初優勝 最終チャンピオン争いFERRARI F399 1999年フェラーリ3年目アーバイン 開幕戦オーストラリアGP 予選6位からスタートで3位に上がると 上位のマクラーレンの2人が脱落 そのままトップに立ち初優勝 自身本格参戦6年 82戦目での栄冠 この時の表彰台は 2位H・H・フレンツェン(ジョーダン) 3位R・シューマッハ(ウイリアムズ)の ファーミュラニッポン(全日本F3000)出身 優勝のインタビューでアーバインが 日本では星野というクソ速いドライバ―がいて なかなか勝たせてもらえなかった旨を発言し 隣の2人のドライバ―も頷いていた ミハエル離脱後はフェラーリのエース 年間4勝をあげるも最終戦で ミカ・ハッキネン(マクラーレン)に逆転され 惜しくもタイトル逃し年間2位 エディー・アーバインは ミハエル・シューマッハに勝つためには 違うチームでなければならないという 想いが強くなり翌2000年新規ジャガーに移籍 モデルはホットウィール 1999年からフェラーリと独占契約 この年限りの台座で紅白の縁石と 跳馬フェラーリのロゴがデザイン
231209 E.IRVINE 1回 4FW12C
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1998 4TH PMA FERRARI F300 E.IRVINE
フェラーリ8年ぶりの1・2フィニッシュ エディー・アーバイン FERRARI F300 1998年アーバインはフェラーリ3年目 開幕戦オーストラリアGPで4位入賞も マクラーレンの2台に周回遅れとなり 大きく後れをとったシーズンスタート しかしフェラーリはここから毎戦 空力を中心にアップグレードを実施 R3アルゼンチンGPから導入された グッドイヤーのフロント幅広タイヤとの マッチングも功を奏しアーバインは3位 ここから5戦中4戦で3位表彰台を獲得 R8フランスGPではチームメイト M・シューマッハに次ぐ2位表彰台を獲得 フェラーリの1・2フィニッシュは 1990年R14スペインGP以来8年ぶり (優勝 A・プロスト/2位 N・マンセル) 予選でも自己最高となる2位を R15ルクセンブルクGPで獲得など 決勝16戦中入賞11回/8度の表彰台 安定した走りを見せた1年であったが マクラーレンの2人には及ばず 年間ランキングは4位 47ポイント 1492
230316 E.IRVINE 4 1/43FW12C
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1998 4TH PMA FERRARI F300 "TOWER WING” E.IRVINE
1998年序盤2戦でマクラーレンに 遅れを取ったフェラーリは毎戦 空力中心にアップグレードを実施 R4サンマリノGPではこの年の トレンドとなりつつあった "TOWER WING”をフェラーリも導入 なりふり構わずの必死さが感じられた フェラーリのタワーウングは ティレル・プロストを同じ1本支柱の オーソドックなタイプで他のチームと 最大の違いはこのミニウイングにまで Marlboroのスポンサーロゴを添付 R4サンマリノGPのリザルトは E・アーバインが3位チームメイトの M・シューマッハが2位で 一定の効果があったと思われる 1998年のアーバインの通常モデルは 所謂チェッカー台紙であるが タワーウイング仕様は赤い台紙で 限定数は3.333 Marlboro加工しています 1491
230316 E.IRVINE "TOWER WING″ 3.333FW12C
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1997 7TH PMA FERRARI F310B E.IRVINE
フェラーリ2年目 E・アーバイン キャリア初の2位獲得 FERRARI F310B 1997年フェラーリが投入したF310Bの 生みの親であるジョン・バーナードは シーズン途中でチームを去り ベネトンから移籍のロス・ブラウン ロリー・バーンらがマシンの改修をして 速さと信頼性の向上を果たした エディ・アーバインはフェラーリ2年目 R3アルゼンチンGPで自己最高の2位 そこから3戦連続の表彰台を獲得 しかし途中7戦連続のノーポイントなどで 所謂4強の中ではポイントは8番目 TMのM・シューマッハのポイントは抹消の為 年間順位としては7位 表彰台は5回 シューマッハ中心の中のチームで時には ライバルをブロックなどの汚れ役も行い チームからはベスト・セカンドドライバ― として評価され次年度もフェラーリ残留 こちらのモデルはミニチャンプスより F310Bとしては2種類存在するようで 小型ウイングの付いたいわゆるBタイプモデル #F1-1997年 #F1
221114 E.IRVINE 6 1/43FW12C
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1996 10TH PMA FERRARI F310/2 E.IRVINE
1996年注目のM・シューマッハのTM エディ・アーバイン フェラーリ E・アーバインはジョーダンの 残留が契約上 決定していたが 金銭トレードの形でフェラーリへ移籍する 開幕戦でシューマッハを凌ぐ予選3位 決勝も3位表彰台を獲得するが 1996年はこれがベストリザルト その後はシューマッハに予選全敗 決勝も表彰台も8回 VS 1回と完敗 シーズン途中に7戦連続のリタイアなど シューマッハ中心のチームで苦戦する FERRARI F310はジョンバーナード作 途中グスタフ・ブルナーの修正で ハイノーズ化と2点吊り下げ式 フロントウィングに変更して R8カナダGPよりFERRARI F310/2となった この年のモデルよりMINICHAMPSは フェラーリの台紙をREDに変更 やはりMarlboroデカールに変更したい所 #F1-1996年 #1996年
E.IRVINE 2 1/43 FERRARIFW12C
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1995 12TH PMA JORDAN PEUGEOT EJR 195 E.IRVINE
エディ・アーバイン初の表彰台 JORDAN PEUGEOT EJR 195 1995年アーバインはジョーダン残留 エンジンはマクラーレンと1年で決別の プジョーエンジンを新たに獲得 ジョーダンは参戦以来フォード→ ヤマハ→ハート→プジョーと 1~2年ごと違うエンジン アーバインはR4スペインで5位入賞 R6カナダで初の表彰台3位獲得 TMのR・バリチェロと2・3位 ジョーダン初のダブル表彰台 得意のR16鈴鹿は4位入賞 参戦した3年で6位→5位→4位の連続入賞 ジョーダンの残留の契約後 フェラーリからオファー 翌年はM・シューマッハとコンビで フェラーリへ移籍する MINICHAMPSで3台目に購入したモデル この年のみのカラーリングで個人的に JORDAN HART 193と共に好きな1台 785
E.IRVINE 15 1/43 JORDANFW12C
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1994 16TH ONYX JORDAN 194 HART E.IRVINE
1994年エディ・アーバインは 前年度の鈴鹿での活躍により ジョーダンのレギュラーシートを獲得 開幕戦はフェルスタッペン(ベネトン)との 接触により4台が絡む事故の責任を問われ 次戦の出場停止 更ににこれを控訴したため 合計3戦の出場停止となる R12イタリア ハーバート(ロータス)に追突 R13ポルトガル ヒル(ウイリアムズ)に接触 ヒルのマシンが横転(画像6)など散々 それでもR14ヨーロッパで自己過去最高4位 R15得意の鈴鹿では5位入賞 予選ではチームメイトの ルーベンス バリチェロと大差なく競った 画像4 Ireland 1 Italy 0 は 1994年のFIFA ワールドカップ アメリカ大会の予選の結果 アイルランド愛国者のオーナー エディ・ジョーダンによるもの この予選グループEは1勝1敗1分で 4チームが並ぶ大混戦 得失点・当該チームの結果 アイルランド2位 イタリア3位で予選通過 (1位 メキシコ 4位 ノルウェー) 決勝Tはアイルランドベスト16 イタリアはPKでブラジルに敗れ準優勝 得点王はJリーグ柏でもプレーの フリスト・ストイチコフ(ブルガリア) #F1-1994年
E.IRVINE 15 1/43 JORDANFW12C
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1993 22ND PMA JORDAN HART 193 E.IRVINE
E.アーバインのデビューマシン I.カペリ→T.ブーツェン→ M.アピチェラ→E.ナスペッティ→ と5人目のジョーダンのシート 1993年は全日本F3000で2位が評価され R15 日本GP 鈴鹿でデビュー 走り慣れたコースという事もあり 予選はTM R.バリチェロ(12位)上回る8位 決勝も6位入賞(バリチェロは5位) このレースでセナに周回遅れで譲らず ファイナルラップでクルージング中に抜き返し 同一周回に戻ったことがセナの逆鱗に触れ レース後セナに頭部を左手で払われたが アーバインが「セナに殴られた」と語った為 【セナがアーバインにパンチ】という形で報道 ここからヒール感のイメージが付いた アーバインの個人スポンサーは ♪ココロも満タンに♪のコスモ石油 ジョーダンはSASOLがメインスポンサー 同業他社だがSASOLが日本で展開していない為 バイザーとフロントウイングには コスモ石油のロゴが貼られました Muuseo 500個目の登録アイテムは 2台目に買ったF1モデルカー BARCLAY仕様で個人的に好きな1台です 501
E.IRVINE 2.808 15 1/43FW12C