-
1974 17TH SPARK SHADOW DN3 T.PRYCE
ウエールズの星 F1初ポイント トム・プライス SHADOW DN3 トム・プライス (イギリス ウエールズ) メカニックとして働きながらF3 F2に参戦 1974年 マイナーチーム トークンからデビュー ベルギーGP 1戦限りで 決勝リタイア R8オランダGP~シャドウで本格参戦 シャドウはピーター・レブソンを失って B・レッドマン/B・ルースをスポット その後プライスを最終戦まで起用した チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ シャドウ2戦目となる R9フランスGP 予選3位(決勝はリタイア) R10イギリスGP 予選5位→初完走決勝8位 R11ドイツGP 予選11位→初入賞決勝6位 いきなり非凡な才能を見せた その後は入賞は無かったものの ジャリエに勝るとも劣らない走りを見せ 翌1975年もシャドウのシート獲得した モデルはSPARK R11ドイツGP仕様 予選11位→決勝6位 プライスの初入賞モデル プライスのキャリア入賞回数は9回 キャリアのほぼすべてをSHADOWで過ごした 発売初期のシルバースリーブ SPARKロゴ
250223 T.PRYCE 1974 16FW12C
-
2001 18TH PMA ARROWS ASIATECH A22 J.VERSTAPPEN
アジアテックエンジン不発 ヨス・フェルスタッペン ARROWS A22 2001年ヨス・フェルスタッペンはアロウズ2年目 チームメイトは新人のエンリケ・ベルノルディ エンジンはルノー型落ちのスーパーテックから プジョー型落ちのアジアテックに変更 アジアテックは日本の民間資本をバックに 前年度で活動終了したプジョーエンジンの プロジェクトを買い取り2003年からの オリジナルチーム設立を目指して この年はアロウズにエンジンを無償提供 しかし元々のプジョーエンジン自体の 競争力が無い事もあり開発は進まなかった ヨスは予選は中段下位に沈み 決勝はR6オーストリアGP6位入賞の1度のみ 結果これがヨスの生涯最後7回目の入賞となった 翌2002年は開幕直前にアロウズのシートを H.H.フレンツェンに奪われF1は1年休養 2003年ミナルディから再び参戦する モデルはミニチャンプス GP表記無しのRACE CAR仕様 前年度から継続してフランスの携帯電話事業大手 〖ORANGE〗がメインスポンサー 台紙の表記もORANGE ARROWSとなっている 2425
250207 J.VERSTAPPEN 2001 14FW12C
-
1962 17TH SPARK(ECURIE MAARSBERGEN)PORSCHE 718 C.G.DE.BEAUFORT
オランダ人ドライバー F1初入賞 C.G.DE.ボーフォール PORSCHE 718 カレル・ゴダン・ド・ボーフォール(オランダ) オランダ貴族かつ政治家の出生 幼少期は マールスベルゲンという名のお城に住み 東京ドーム約34個分の広大な敷地を所有 1957年 自身のプライベートチーム エキュリー・マールスベルゲンを立ち上げ ポルシェ RSKでオランダGPに参戦 F1初のポルシェマシンでの出走 1961年から本格参戦を開始 1962年開幕戦地元オランダGP 予選14位→決勝6位自身初入賞 オランダ人ドライバーにとっても初入賞 R4フランスGPでも6位入賞 翌1963年も2度の入賞はいずれも6位 生涯4度の入賞すべて6位 2024年現在においてもオランダ人ドライバー 入賞回数はフェルスタッペン親子に次ぐ3位 オランダ人F1ドライバーのパイオニア 一発の速さは無いものの堅実な走りで この時期としては異例の生涯完走率84.6% モデルはSPARK ドイツにあるPORSCHE MUSEUM限定 R4フランスGP仕様 予選17位→決勝6位 フロントはナショナルカラーのオレンジで オランダ国旗をデザインしている このGPは現在までにポルシェチーム唯一の 勝利をダン・ガーニー(アメリカ)があげている
250205 C.G.DE.BEAUFORT 1962 PORSCHE MUSEUMFW12C
-
1977 20TH SPARK SHADOW DN8 R.PATRESE
元祖鉄人 リカルド・パトレーゼ デビューマシン SHADOW DN8 リカルド・パトレーゼ イタリア出身 1976年イタリアF3(3勝) ヨーロッパF3(4勝) ダブルチャンピオンを獲得 1977年ヨーロッパF2参戦中に 資金難によりシートを失った レンツォ・ゾルジの後任として R7モナコGP シャドウよりF1デビュー 当時は大学に籍があり学生ドライバー F2を優先した為 途中3戦は欠場 J・オリバー/A・メルッザリオ/ J・P・ジャリエがそれぞれ代役 初戦R7モナコGPは決勝9位完走 チームメイトのアラン・ジョーンズが 初優勝を含む6度の入賞の中 パトレーゼは苦戦 それでも最終戦 R17日本GP(富士SW)で決勝6位初入賞 パトレーゼのキャリア入賞は73回 翌1978年はグンナー・ニールソンの 代役でアロウズのレギュラーシート獲得 以降1993年まで16シーズン(トータル17) レギュラードライバーとして活躍 モデルはスパーク R17日本GP仕様 予選16位→決勝6位 日本GPはこの後一時中止となり 次開催は10年後の1987年の日本GP(鈴鹿) 1977年と1987年の両方の日本GPに 出場したドライバーはパトレーゼのみ
240622 R.PATRESE 1977 16FW12C
-
1970 25TH SPARK SURTEES TS7 D.BELL
ル・マン24時間 5度覇者 D・ベル F1唯一の入賞 SURTEES TS7 デレック・ベル イギリス出身 1968年 フェラーリでスポット(2戦)参戦 1969年 マクラーレン 1戦のみ 1970年 プライベーター(ブラバム)で出場後 R12アメリカGPにワールドチャンピオン ジョン・サーティスが立ち上げたチームの セカンドドライバーとして出場 予選13位からオーナー兼ドライバーの サーティスが早々にリタイアの中 トップ1周遅れながら6位入賞を果たす ベルは1974年まで毎年数戦エントリーするも F1でポイント獲得はこの時限り スポーツカーの分野では 1975年・1981年・1982年・1986年・1987年 ル・マン24時間で5度制覇 スポーツカー世界選手権でタイトルを2回 デイトナ24時間でも3回勝利している モデルはスパーク R12アメリカGP 予選13位→決勝6位 この年より参戦のチームサーティス オリジナルマシンのTS7は R7イギリスGPより使用され同等の スペックのマシンがベルにも与えられた TS7の設計にはサーティス自身も関わっている #1970年
240603 D.BELL 1970 18FW12C
-
2008 15TH PMA WIILIAMS TOYOTA FW30 K.NAKAJIMA
日本人初のモナコGP入賞 F1親子鷹 中嶋一貴 WIILIAMS FW30 2008年前年度最終戦にF1デビューを 果たした中嶋一貴はウイリアムズで レギュラーシートを獲得 チームメイトはニコ・ロズベルグ 開幕戦オーストラリアGP 予選14位→決勝6位入賞 結果的に6位がキャリアベストリザルト 2008年度は8位までが入賞圏内 R4スペインGP予選12位→決勝7位入賞 R6モナコGPでも予選14位→決勝7位 日本人ドライバーのこれまでのモナコGPは 1998年の中野信治(ミナルディ)の 決勝9位が最高でそれを上回り 決勝7位と日本人初入賞を記録した 中嶋一貴は年間入賞5回でランキング15位 2度の表彰台のロズベルグには 予選・ポイントとも差をつけられたが 入賞回数5回と完走率89%(リタイア2回)は 同等の成績であり翌年もチーム残留 モデルはミニチャンプス GP表記のの無いRACE CAR仕様 ウイリアムズチームオリジナル台紙 当時のメインスポンサーである アメリカのat&t社のロゴも印刷されている
240526 K.NAKAJIMA 2008 1/43FW12C
-
1977 19TH SPARK ATS PNSKE PC4 J.P.JARIER
ATS ペンスキー買収でF1参戦 ジャン・ピエール・ジャリエ PNSKE PC4 ドイツの自動車部品サプライヤーATS 1976年末F1でペンスキーを買収 1977年チームATSとして参戦 マシンはペンスキー製を使用 ドライバーは前年までシャドウに所属した ジャン・ピエール・ジャリエの1台体制 R4アメリカGPより参戦 予選9位→決勝6位 初戦でポイント獲得の活躍をみせたものの 以降の入賞は無くペンスキーは この年限りでF1から撤退 チームATSは翌1978年からは コンストラクター名もATSとして 1984年まで参戦する ジャリエは終盤シャドウとリジェからも 1戦ずつ参戦もポイント獲得はなかった モデルはスパーク R4アメリカWEST GP アメリカの名門PENSKEの車体の 最後のポイント獲得となった
240322 J.P.JARIER 1977 34FW12C
-
1977 16TH SPARK SHADOW DN5B R.ZORZI
チームメイトの悲劇 R.ゾルツィ SHADOW DN5B レンツォ・ゾルジ イタリア出身 1975年 ヨーロッパF3 3位(1勝) 同年・翌1976年にウイリアムズで 各1戦 資金持ち込みでF1出場 1976年 後のアロウズチーム設立の1人 フランコ・アンブロオの支援を受けて シャドウのシート獲得 チームメイトはトム・プライス R2ブラジルGP 予選18位 決勝は完走7台のサバイバルの中 生き残りキャリア唯一となる6位入賞 悲劇はR3南アフリカGP ゾルジはエンジンが壊れコース脇に マシンを止めたが小規模な火災が発生 その火災の消火を試みたマーシャルが コースを横切りゾルジのマシンに向かう際 レース中のチームメイトのトム・プライスの マシンにはねられ死亡 プライスもマーシャルの消火器が直撃し 帰らぬ人となってしまった ゾルジはR5スペインGPまでの出場で 資金が尽きてシートを失い これがF1での最後のレースとなった モデルはスパーク ゾルジのキャリア唯一入賞の R2ブラジルGP 予選18位→決勝6位 旧型のDN5Bの漆黒マシン #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇮🇹レンツォ・ゾルジ (イタリア) 【決勝出走数】7回 (入賞1回) 【予選最高位】⑰位 1976年 WILLIAMS R1 ブラジル 【決勝最高位】⑥位 1973年 SHADOW R2 ブラジル 【年間最上位】⓰位 1973年 SHADOW 1ポイント
240224 R.ZORZI 1977 17FW12C
-
1977 19TH SPARK LIGIER JS7 J.P.JARIER
1977年日本GP リジェ初の2台体制 ジャンピエール ジャリエ LIGIER JS7 1977年 最終戦日本GP 富士SW この年ジャック・ラフィーで初優勝を 果たしたリジェは初の2台目をエントリー ドライバーはジャンピエール・ジャリエ ジャリエは当年ATSで出場し R4アメリカWESTで6位入賞 その後途中チームを離脱 シャドウで1戦出場し最終戦のみリジェ 慣れないマシンに手こずり予選17位 決勝は3周目にマトラエンジンが壊れリタイア チームメイトのラフィーが5位入賞をしている ジャリエはこの後2度リジェに所属 1981年2戦のみ1983年レギュラーで参戦も リジェでのポイント獲得は出来なかった モデルはスパーク 日本GP仕様 予選17位→決勝リタイア スパークの初期頃生産 シルバースリーブ タバコブランド GITANES仕様 リジェでは唯一となるカーナンバー27 27番は翌1978年~アラン・ジョーンズがつけ 1980年ウイリアムズに初栄冠をもたらし 1981年はジル・ヴィルヌーブが付けて その後 所謂フェラーリのカリスマ ナンバーとなった
240220 J.P.JARIER 1977 27FW12C
-
1963 15TH SPARK (SIFFERT RACING TEAM) LOTUS 24 J.SIFFERT
プライベーター・スイスの星 ジョー・シフェール 初ポイント ジョー・シフェール スイス出身 2輪ライダーとしてキャリアをスタート 1960年4輪転向しヨロッパFJチャンピオン 1962年F1デビューを果たす 1963年は自己のチーム SIFFERT RACING TEAMを立ち上げ ロータス24のマシンを購入して参戦 R3オランダGP 決勝7位初完走 R4フランスGP 予選10位から 自身の初入賞の決勝6位 シフェールのキャリア入賞は20回 この年の入賞は1回1ポイントで 3名のドライバーが並んだが オランダの7位があり 3名の最上位の年間15位 モデルはスパーク R5イギリスGP仕様 予選15位→決勝はリタイア フロントのカーナンバー25が 中心の白い丸から右斜め前方に ずらしたデザインとなっている
240122 J.SIFFERT 1963年 25FW12C
-
1969 16TH SPARK (SILVIO MOSER RACING) BRABHAM BT24 S.MOSER
シルビオ・モーサー 自チーム立ち上げ キャリア2度目の入賞 BRABHAM BT24 シルビオ・モーサー スイス出身 1968年プライベートチームにて R5オランダGPで5位入賞 1969年は自チームを立ち上げ Silvio Moser Racingとして ブラバムの車体を購入して参戦 プライベートチームで競争力は低く 型落ちマシンで予選では常に下位争い R10アメリカGP予選18台中17位 決勝は完走6台のサバイバルを生き残り レース108周の10周遅れながら6位入賞 自チームをポイント獲得の歴史に名を刻んだ 翌1970年はグリエルモ・ベラシが製作した ベラシにマシンを変更して参戦したが 決勝は進出は1回のみ この年限りながらベラシという コンストラクタ―も記録上存在する シルビオ・モーサーは 1973年スポーツカーレース中に 残念ながら他界 享年33歳 モデルはスパーク R10 アメリカGP仕様 予選17位→決勝6位 プライベートカラーのオレンジの車体に リアウイングのイエローが際立つ1台
231227 S.MOSER 19 1/43FW12C
-
1999 17TH PMA MINARDI FORD M01 M.GENE
ミナルディ 4年ぶりのポイント 新人マルク・ジェネ MINARDI FORD M01 マルク・ジェネ スペイン出身 1998年当時スペインでのトップフォーミュラ ワールドシリーズ・バイ・ニッサン初代王者 1999年ミナルディからF1デビュー ハイライトはR14ヨーロッパGP チームメイトのルカ・バドエルが 終盤4位走行中にエンジンが壊れリタイア 人目もはばからず涙流す中 ジェネは5位に順位を上げる その後チャンピオン争いの ミカ・ハッキネン(マクラーレン)と エディ・アーバイン(フェラーリ)が猛追 ハッキネンには抜かれたものの アーバインは何とか抑えて6位入賞 ジェネのF1初入賞はミナルディの 1995年最終オーストラリアGP以来 4年ぶり(65戦)ぶりのポイント獲得 コンストラクタ―でBARとの争いに 勝った貴重な1Pを獲得したジェネは 評価も上がり翌2000年もチームに残留 モデルはミニチャンプス 前年度に続くシルバーとブルーを 基調とするカラーリング メインスポンサーのテレフォニカは スペインの大手通信会社 マルク・ジェネの持ち込みスポンサー
231107 M.GENE 1999 21FW12C
-
1973 19TH SPARK (WILLIAMS) ISO-Marlboro FX3B H.GANLEY
ウイリアムズF1の前身Iso-Marlboro ハウデン・ガンレイ F1ラストポイント ウィリアムズF1の前身である フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズは イタリアのスポーツカーメーカーのイソと フィリップ・モリス社がスポンサーとなり 1973年Iso-Marlboroのマシンを投入 ハウデン・ガンレイはニュージーランド出身 1971年・1972年はBRMでF1出場 オートスポーツ誌に掲載する写真撮影のため 許可なく他チーム(ポリトイ)を走行させたことで 原因でBRMを解雇されIso-Marlboroに移籍 Iso-Marlboroはシーズン通して9名の ドライバ―をエントリーしたが ガンレイのみがフル参戦 R14カナダGPでこの年唯一の6位入賞 キャリア最後の5度目の入賞 ガンレイは翌1974年にマーチで2戦エントリー 後半戦で日本のチームMAKIから参戦するも 決勝進出はできなかった モデルはSPARK Marlboroデカールが別で添付で貼り付け 独得な3色のカラーリング Iso-Marlboroの活動は翌1974年まで
231019 H.GANLEY 1973 21FW12C
-
1967 21ST SPARK COOPER T81B J.ICKX
F1通算8勝 ジャッキー・イクス デビュー COOPER T81B ジャッキー・イクス ベルギー出身 父のジャック・イクスもレースドライバーで 後にモータージャーナリストとなった 1967年イクスは3勝でヨーロッパF2チャンピオン ペドロ・ロドリゲスのケガにより クーパーのワークスからF1参戦 エンジンはマセラティ 1967年~1979年まで13年間F1に参戦 初戦R9イタリアGP クーパーで旧マシンCOOPER T81B 予選15位から完走僅か7台の サバイバルを生き残り6位入賞 イクスの生涯入賞は40回(出走114回) R10アメリカGPではリタイアに終わったが 参戦初戦入賞が評価されてイクスは 翌1968年フェラーリのドライバ―に抜擢 モデルはSPARK イクスの初戦入賞したイタリアGP仕様 大きなカーナンバー32に クーパーの特徴でもある白い2本のライン この時はヘルメットは イクスの印象の強い黒ではなく青
230910 J.ICKX 1967 32FW12C
-
1963 16TH SPARK LOTUS 25 T.TAYLOR
最高位2位のドライバ―の1人 トレバー・テイラー LOTUS 25 トレバー・テイラーイギリス出身 1961年~1964年にかけて主にロータスで参戦 1962年開幕戦オランダGPで2位表彰台 F1最高位2位のドライバ―の一人 1963年もロータスに所属 ロータス25車体 クライマックスエンジン 開幕戦モナコGPで6位入賞 この年のワールドチャンピオン ジム・クラークは開幕戦のみ未入賞 ロータスの車体では7名のドライバ―が エントリーも入賞はテイラーのみ この年のテイラーの入賞は1回のみ 翌1964年はBRPに移籍 1965年は1戦限りでシャノンで走行している モデルはR5イギリスGP仕様 予選10位→決勝は失格 レースはチームメイトのクラークが優勝 クラークのマシンには特徴的な 黄色のストライプがこのGPより入るが テイラーはグリーンの単一色のまま SPARKの初期にリリースされたモデル
230823 T.TAYLOR 1963 5FW12C