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2001 17TH PMA BENETTON RENAULT SPORT B201 J.BUTTON
最後のベネトン←レンタル移籍 ジェンソン・バトン BENETTON B201 2001年前年度ウイリアムズで 新人らしからぬインパクトを残した ジェイソン・バトンであったが CARTチャンピオン J・P・モントーヤの 加入によりウイリアムズのシートを失い ベネトンにレンタル移籍となった チームメイトはジャンカルロ・フィジケラ エンジンパワー不足などで戦闘力の低いB201 バトンはR4~R6まで3戦連続 予選 22台中21位と厳しい戦い R12ドイツGP 決勝5位が唯一の入賞 最終戦鈴鹿ではシーズンベストの予選9位 決勝は惜しくも入賞一歩手前の7位フィニッシュ 終盤戦で改善の兆しが見えた所で 1986年設立されたベネトンF1が終焉を迎え 翌年からはルノーとなりバトンは残留 モデルはミニチャンプス オリジナルはJENSONのドライバー名の車体を タバコブランド【MILD SEVEN】に変更 カラフルで派手な色彩でF1にインパクトを与えた ベネトンのマシンの最後は シンプルなマイルドセブンのブルーであった
250225 J.BUTTON 2001 8FW12C
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1984 18TH SPARK LIGIER JS23 A.DE.CESARIS
Marlboro→GITANESへ移籍 A・チェザリス LIGIER JS23 1984年チェザリスはリジェに移籍 チームメイトはフランソワ・エスノー チェザリスは父がフィリップモリス社の2 重役という事もありMarlboro契約ドライバー (本人曰く父の影響ではないと主張している) デビューからアルファロメオと マクラーレンのMarlboroチームであったが この年はフランスのリジェの移籍 タバコブランドGITANESのマシンで出場となった R2南アフリカ 予選14位→5位入賞 R4サンマリノ 予選12位→6位入賞 R6モナコ シーズンベスト予選7位(→決勝リタイア) 前半は及第点であったが 後半は一転苦戦で入賞無し 16戦中リタイア9回 年間で3ポイント ランキング18位 チームメイトのエスノーは年間ノーポイント リジェ初のルノーエンジンは不発に終わるが チェザリスは翌1985年もリジェに残留 モデルはSPARK R2南アフリカGP仕様 予選14位→決勝5位 タバコブランドGITANESデカール貼付 ルノーエンジンはリジェ初の ターボエンジン車でもあった タイヤはフランスのミシュラン チェザリスはこの年以降 1985年~1990年までは年間入賞回数が 1回または0回と低迷が続く 2453
250221 A.DE.CESARIS 1984 26FW12C
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2001 15TH PMA JORDAN HONDA EJ11 J.ALESI
F1-200戦後の引退発表 ジャン・アレジ JORDAN HONDA EJ11 2001年アレジはプロスト離脱後 1989年F3000時代以来の古巣ジョーダンに移籍 チームメイトはヤルノ・トゥルーリ 移籍2戦目R14ベルギーGPで6位入賞 R16アメリカGPでF1参戦200戦目となり サイドポッドに200戦記念が施された 当該モデルはアメリカGP仕様 シーズンベストの予選9位→決勝7位 このGPで17戦連続完走となり 1975~1976年ニキ・ラウダ(フェラーリ) 1988~1989年アイルトン・セナ(マクラーレン) と並び当時の連続完走記録1位タイを樹立 しかし来シーズンのシートが確保できず 最終R17日本GPを前にF1引退を発表 ラストレースはキミ・ライコネン(ザウバー)の スピンに巻き込まれる形でリタイア 連続完走新記録・シーズン全戦完走ならなかった 急遽のデビュー戦で4位入賞 1990年開幕戦でのセナとのバトル 涙の初優勝など数々の名場面を作ったアレジ 記録よりも記憶に残るドライバーであった 2447 #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇫🇷ジャン・アレジ (フランス) 【決勝出走数】201回 (入賞70回-表彰台32回) 【予選最高位】🚩PP(2回) 1994年🟥FERRARI R12 イタリア 1997年🟦BENETTON R13 イタリア 【決勝最高位】🏆️優勝 1995年🟥FERRARI R06 カナダ 【FastestLap】🏁FL(4回) 1991年🟥FERRARI R01 アメリカ 1997年🟥FERRARI R05 モナコ 1996年🟦BENETTON R03 アルゼンチン 1996年🟦BENETTON R05 モナコ 【年間最上位】❹位(2回) 1996年🟦BENETTON 47ポイント 1997年🟦BENETTON 36ポイント
250216 J.ALESI 2001 4.464FW12C
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1967 18TH SPARK (REG PARNELL RACING) LOTUS 25 BRM C.IRWIN
幻のHONDA F1-ドライバー クリス・アーウィン LOTUS 25 BRM クリス・アーウィン(イギリス) 18歳の時にかつてイギリスにあった 名門ジム・ラッセル・レーシングスクール (現在はカナダ・アメリカにて運営)で レーシングドライバーとして腕を磨く 1966年 ブラバムからスポット参戦 地元イギリスGPで決勝7位完走 1967年プライベーター REG PARNELL RACINGと契約し本格参戦 R3オランダGPはロータスのマシン R4ベルギーGPからはBRMのマシンを使用 R5フランスGP 予選9位→決勝5位入賞 結果的にアーウィン キャリア唯一の入賞 後1968年にHONDAと契約 1967年8月末のRA300のシェイクダウンを担当 1968年HONDAのセカンドドライバーとして ジョン・サーティスと共に参戦を予定していた 1968年序盤戦はHONDAの準備が遅れ1台体制 後半戦に2台目を準備予定であったが 他カテゴリーでアーウィンは大事故を起こし 重い障害が残りレーシングドライバーを引退 アーウィンのHONDAでの参戦は幻に終わった HONDAはR6フランスGPで2台目となる 日本から送られたR302を投入するも ドライバー ジョー・シュレッサーは このGPで帰らぬ人となった モデルはSPARK R3オランダGP仕様 予選17位→決勝7位 唯一のロータスのマシンでエントリー その後供給されたBRMのマシンで入賞 アーウィンはBRM本隊からドライバー契約を オファーされるもHONDAとの契約を選んだ 2441
250214 C.IRWIN 1968 18FW12C
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1976 18TH SPARK ENSIGN N176 C.AMON
クリス・エイモン 最後の入賞 最後の決勝走行 ENSIGN N176 エイモンラストイヤー1976年途中 ハイインダクションポッド禁止の レギュレーションに合わせた新型N176 初戦R4スペインで予選10位→決勝5位入賞 自身3年ぶり通算29回目最後の入賞 R7スウェーデンGP予選3位 R9イギリスGP予選6位と速さ見せるも R10ドイツGPでのN・ラウダ(フェラーリ)事故を見て ヘルメットを置く決意をしてチーム離脱 R14カナダはウイリアムズで予選のみを走行し F1の長いキャリア14年の幕を閉じた 引退後は母国で家業の農業に従事した #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇳🇿クリス・エイモン(ニュージーランド) 【決勝出走数】97回 入賞29回-表彰台11回 【予選最高位】🚩PP(5回) 1968年 FERRARI R2スペイン 1968年 FERRARI R4ベルギー 1968年 FERRARI R5オランダ 1971年 MATRA R9イタリア 1972年 MATRA R6フランス 【決勝最高位】②位(3回) 1968年 FERRARI R7イギリス 1970年 MARCH R5ベルギー 1970年 MARCH R6フランス 【FastestLap】🏁3回 1970年 MARCH R4ベルギー 1972年 MATRA R5ベルギー 1972年 MATRA R6フランス 【年間最上位】❹位 1968年 FERRARI 20ポイント 2367
241230 C.AMON 1976 22FW12C
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2003 14TH PMA SAUBER PETRONAS C22 N.HEIDFELD
the story will be at a later date.
241111 N.HEIDFELD 2003 9FW12C
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1979 19TH SPARK ATS D2 H.J.STUCK
2世ドライバーハンス・スタック F1ラストレースでポイント ATS D2 1979年スタックは地元ドイツのチームで 前年度よりコンストラクターとなった ATSへ移籍 ドライバーは1人体制 ATSはドイツの自動車部品サプライヤー 前半戦は昨年の改良マシンD2で戦い マイナーチェンジしたD3を投入後 わずかながら成績が向上 R14カナダGP シーズンベスト予選12位 最終R15アメリカGP 予選14位 24台中16台リタイアのサバイバルレースを 生き残り5位入賞で2ポイント獲得 チームATSの初のポイント獲得と共に スタックはF1ラストレースとなり F1での通算入賞回数は12回であった スタックはF1での優勝は無かったものの その後はスポーツカー・ツーリングカーの分野で 1986・87年ポルシェ962で ル・マン24H 連覇 1990年アウディでDTMチャンピオン獲得している 🏁ハンス=ヨアヒム・スタック (ドイツ) 【決勝出走数】73回 (入賞12回-表彰台2回) 【予選最高位】2位 1977年 BRABHAM R15 アメリカEAST 【決勝最高位】3位(2回) 1977年 BRABHAM R11 ドイツ 1977年 BRABHAM R12 オーストリア
241108 H.J.STUCK 1979 9FW12C
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1983 16TH SPARK ALFA ROMEO 183T M.BALDI
M.バルディ キャリアベストの5位入賞 マルボロカラーのアルファロメオ 183T マウロ・バルディは前年度のアロウズより アルファロメオに移籍 チームメイトは イタリア人コンビとなるA・デ・チェザリス この年のアルファロメオは Marlboroがメインスポンサー 1980年から同チームのスポンサーであったが 1983年のマシンは特にマクラーレンと カラーリングが酷似 判別がし難かった バルディは予選でシングルグリット3回 R10ドイツGPの予選7位がキャリアベスト 決勝は入賞2回でR12オランダGPの 決勝5位がこちらもキャリアベストだったが 予選・決勝ともチェザリスに大きく敗れた バルディは1年でアルファロメオを去り シーズン終了後ブラバムのテストに参加するも 最終的に翌1984年はスピリットに移籍 モデルはSPARK R5モナコGP仕様 予選13位→決勝6位 この年のアルファロメオのチーム初ポイント獲得 こちらのモデルは発売アナウンス当初 Marlboroデカール無しとの事でしたが 開封するとしっかり付属されており貼付実施
241027 M.BALDI 1983 23FW12C
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2001 15TH PMA PROST ACER AP04 J.ALESI
ジャン・アレジ ラストシーズン 意地の12戦連続完走 PROST ACER AP04 2001年チームプロストはプジョーエンジン 並びに多くのスポンサーを失い資金難 エンジンはかつてプロストが現役時代に 途中解雇されたフェラーリから供給され 台湾のPCメーカーacerのスポンサー エンジンバッジネームが付けられた ジャン・アレジはプロスト2年目 前年度はキャリア初のノーポイント 2001年は手堅くレースを運び 開幕戦から連続完走 R7モナコGP6位 R8カナダGP5位 連続入賞 しかしこのカナダGPのレース後 高価な無線機が付いたヘルメットを 観客に投げ渡した事にプロストが激怒 アレジの給料未払い問題も発生し R12ドイツGP6位入賞を最後にチームを離脱 H・H・フレンツェンと入れ替わる形で シーズン途中にジョーダンに移籍した モデルはミニチャンプス GP表記の無い RACE CAR仕様 アレジはプロスト所属のR12まで全戦完走 これにはチャンピオンエンジンである フェラーリの信頼性の高さによる ところも大きかった 画像5~8はSHOW CAR 前年度の型AP03に当年カラーを施したモデル #2001年
240621 J.ALESI 2001 22FW12C
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2022 13TH PMA HAAS F1 TEAM VF-22 K.MAGNUSSEN
復活のケビン・マグヌッセン 自身&チーム初のPP獲得 HAAS VF-22 2022年2月下旬より始まった ロシアによるウクライナ侵攻 これに伴いHAASはロシアのスポンサー ウラウカリとドライバーの ニキータ・マゼピンの契約解除を決定 他のカテゴリー参加が決まっていた ケビン・マグヌッセンがHAASでF1復帰 チームメイトはミック・シューマッハの 親子ドライバーのコンビとなった 十分なテストの無い中で迎えた 開幕戦バーレーンGPで5位に入賞 チームに29戦ぶりのポイントをもたらした R21ブラジルGPでは 予選Q3中の赤旗中断後ウェットとなり それまでに出したタイムにより 自身とチーム初となるPP獲得 ケビンは参戦141戦目での初PPとなった モデルはミニチャンプス 開幕戦バーレーンGP仕様 予選7位→決勝5位 ケビンにとって2018年以来となる5位 メインスポンサー契約解除もあり マシンはチームのロゴがメインとなっている #2022年
240609 K.MAGNUSSEN 2022 20FW12C
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2018 11TH IXO McLAREN MCL33 F.ALONSO
アロンソ F1活動休止 ルノーエンジン McRALEN MCL33 2018年アロンソはマクラーレン4年目 パワーユニットはHONDA→ルノーに変更 カラーリングはマクラーレン伝統の パパイヤオレンジ・ブルーに変更 チームメイトはスフェトル・バンドーン シーズン前テストではトラブル連発も 開幕戦では予選11位→決勝5位入賞 マクラーレンは4年ぶりの開幕戦入賞 その後7位→7位→7位 3戦連続入賞 R5スペインGPからはBスペックともいえる バージョンを投入し予選初のQ2進出 決勝も8位に入り開幕から5戦連続入賞 しかし後半戦は勢いがなくなり 入賞は21戦中9回 最高位は開幕戦の5位 この年アロンソはF1と並行して ル・マン・24時間に参戦し優勝 グラハム・ヒル以来の 〖世界三大レース制覇〗に王手をかけ (F1モナコGP インディ500 ル・マン24H) 2019年シーズンはF1に参戦しないと表明 F1活動休止 2021年にルノーで復帰 モデルはIXO (デアゴスティーニ) F1マシンコレクション122号 アロンソ F1活動休止前ラストレースの 最終戦R21アブダビGP仕様 予選15位→決勝11位 ヘルメットカラーと同様の ブルー/イエロー/レッドがの配色 スペシャルロゴが入ったモデル
240402 F.ALONSO F1マシンコレクション 14FW12C
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1975 17TH SPARK (CUSTOM MADE HARRY STILLER RACING) HESKETH 308 A.JONES
アラン・ジョーンズ デビューマシン プライベーター HESKETH 308 アラン・ジョーンズ オーストラリア出身 1973年イギリスF3 ランキング3位 1975年イギリスの元レーシングドライバー ハリー・スティラーが自身所持の ヘスケスのマシンでチーム設立 ジョーンズをF1デビューに導いた R4スペインGPから参戦 R6ベルギーGPシーズンベストの予選13位 R7スウェーデンGPで決勝11位 ヘスケスでは4戦中完走は1回のみ R8オランダGPよりワールドチャンピオン グラハム・ヒル創設のヒルに移籍 自身初ポイントを獲得する モデルはスパーク ジョーンズの2戦目R5モナコGP仕様 予選20位→決勝ホイール脱落でリタイア 独特のフロント形状のヘスケスのマシンに センターの濃赤のラインが映える1台 https://muuseo.com/FW12C/items/1037?theme_id=32702
240331 A.JONES 1975 26FW12C
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1972 18TH SPARK (FRANK WILLIAMS) MARCH 711 C.PACE
カルロス・パーチェ F1デビュー フランク・ウイリアムズ MARCH 711 ホセ・カルロス・パーチェ ブラジル出身 同郷のエマーソン・フィティバルディの ライバルと目されたドライバー 現在まで続くウイリアムズの前身 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズで マーチの旧型 MARCH 711で参戦 R2南アフリカGPよりデビュー 2戦目のR3スペインGPで早くも6位入賞 パーチェのキャリア入賞は16回 シーズン2度の入賞でランキングは18位 チームメイトのアンリ・ペスカロロは ニューマシンのMARCH 721で参戦したが こちらはノーポイントに終わった パーチェは翌1973年はサーティスに移籍 モデルはスパーク パーチェのF1デビュー戦となった R2南アフリカGP仕様 予選24位→決勝17位 イタリアの玩具メーカー ポリトイ (Politoys) 現在のポリスティル (Polistil) がスポンサー ティートレイと呼ばれた独特のウイングの 同社ロゴ〖POLITOYS〗がとても目立つ1台 RN-2113
240325 C.PACE 1972 22FW12C
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198019TH BRUMM FERRARI 312 T5 J.SCHECKTER
失意のワールド チャンピオン シェクター引退 FERRARI 312 T5 1980年前年のチャンピオンから一転 失意のシーズンとなったジョディ・シェクター チームメイトはジル・ヴィルヌーブ 開幕から3戦連続リタイア後 R4アメリカWESTでシーズンチーム初5位入賞 しかしこれがシェクターのシーズン唯一の入賞 連覇どころか前年度チャンピオンが まさかの入賞1回 ランキング19位 R13カナダGPではキャリア唯一の予選落ち 失敗作の最後の312Tシリーズ5に失望 シェクターは30歳の若さでF1引退となった モデルはBRUMM R6モナコGP仕様 予選17位→決勝リタイア リアアスクル前にミドルウイングを装備 フロントは横幅の狭い特別仕様のウイング リアウインウは極端に前方に設置されている シェクター最後のマシンとなったカーNo.1 🏁ジョディー・シェクター (南アフリカ) 【決勝出走数】 112回 (入賞53回-表彰台33回) 【予選最高位】 PP( 3回) 【決勝最高位】 優勝(10回) 【ファステストLAP】 ( 5回) 【WORLD CHAMPION】1979年
240309 J.SCHECKTER 1980 1FW12C
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2000 15TH PMA BENETTON PLAYLIFE B200 A.WURZ
アレキサンダー・ブルツ 自身最後のベネトン BENETTON B200 2000年ブルツはベネトンレギュラー3年目 チームメイトは3年連続G・フィジケラ フィジケラが前半8戦で 2位1回 3位2回など5度の入賞の中 ブルツは前半戦まさかのノーポイント 後半戦はフィジケラも失速しノーポイント ブルツはR14イタリアGPで ようやく5位でシーズン初ポイントを獲得も 入賞はこの1度限りとなった ブルツはこの年限りでベネトンを離れ 翌2001年はマクラーレンのテストドライバー 後2005年に同チームで代役でスポット参戦 モデルはミニチャンプス GP仕様無しのRACE CAR MILD SEVENEのブルーがベース タバコ禁止GPではチーム名の BENETTONがエンジンカバー等に貼られた
240227 A.WURZ 2000 12FW12C