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1962 17TH SPARK(ECURIE MAARSBERGEN)PORSCHE 718 C.G.DE.BEAUFORT
オランダ人ドライバー F1初入賞 C.G.DE.ボーフォール PORSCHE 718 カレル・ゴダン・ド・ボーフォール(オランダ) オランダ貴族かつ政治家の出生 幼少期は マールスベルゲンという名のお城に住み 東京ドーム約34個分の広大な敷地を所有 1957年 自身のプライベートチーム エキュリー・マールスベルゲンを立ち上げ ポルシェ RSKでオランダGPに参戦 F1初のポルシェマシンでの出走 1961年から本格参戦を開始 1962年開幕戦地元オランダGP 予選14位→決勝6位自身初入賞 オランダ人ドライバーにとっても初入賞 R4フランスGPでも6位入賞 翌1963年も2度の入賞はいずれも6位 生涯4度の入賞すべて6位 2024年現在においてもオランダ人ドライバー 入賞回数はフェルスタッペン親子に次ぐ3位 オランダ人F1ドライバーのパイオニア 一発の速さは無いものの堅実な走りで この時期としては異例の生涯完走率84.6% モデルはSPARK ドイツにあるPORSCHE MUSEUM限定 R4フランスGP仕様 予選17位→決勝6位 フロントはナショナルカラーのオレンジで オランダ国旗をデザインしている このGPは現在までにポルシェチーム唯一の 勝利をダン・ガーニー(アメリカ)があげている
250205 C.G.DE.BEAUFORT 1962 PORSCHE MUSEUMFW12C
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1972 (29TH) PMA McLAREN FORD M19 J.SCHECKTER
アフリカ出身唯一のチャンピオン ジョディ・シェクターデビュー McLAREN M19 ジョディ・シェクター(南アフリカ出身) 1970年にヨーロッパに移住 レーシングドライバーとして頭角を現す 1972年最終戦R12アメリカGP 同年ヨーロッパF2に所属していた マクラーレンの3RDドライバーとして参戦 マクラーレンのレギュラードライバーは デニス・ハルム/ピータレブソン・レブソン 旧型のマクラーレン M19Aで出場 予選8位→決勝9位 シェクター初の完走 翌1973年アメリカ オープンホイールシリーズ 9戦中4勝 B・レッドマンを僅差破りチャンピオン F1にはマクラーレンで5戦スポット参戦している モデルはミニチャンプス R12 アメリカGP仕様 マクラーレンEDITION43 153台目 この後1980年までF1に参戦する ジョディ・シェクターのデビューマシン 1974年初勝利をあげ 1976年歴代唯一となる6輪車で優勝 1979年シリーズチャンピオン栄冠 2363
241228 J.SCHECKTER 1972 504FW12C
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1970 13TH QUARTZO (Brooke Bond Oxo/Rob Walker) LOTUS 72C G.HILL
プライベーターでの戦い グラハム・ヒル LOTUS 72C 1970年グラハム・ヒルは前年度終盤の 骨折がキャリアの転機ともなり 3年間過ごしたロータスを離脱 プライベートチーム Rob Walkerで参戦 前半戦はLOTUS 49Cで戦い 予選では中団から下位と苦戦 開幕戦から6位→4位→5位と3戦連続入賞 意地を見せるもシーズンでは入賞4回 後半戦はニューマシンのLOTUS 72Cが 導入も成績は上昇せず完走すら無かった ヒルは翌1971年ブラバムに移籍する モデルはQUARTZO R11カナダGP仕様 予選20位→決勝規定周回不足 イギリスの紅茶ブランドBrooke Bond Oxoの スポンサーロゴがリアウイングなどにあり モデルの台座はLOTUSのロゴが印字されている #1970年 #LOTUS
240620 G.HILL 1970 9FW12C
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198019TH BRUMM FERRARI 312 T5 J.SCHECKTER
失意のワールド チャンピオン シェクター引退 FERRARI 312 T5 1980年前年のチャンピオンから一転 失意のシーズンとなったジョディ・シェクター チームメイトはジル・ヴィルヌーブ 開幕から3戦連続リタイア後 R4アメリカWESTでシーズンチーム初5位入賞 しかしこれがシェクターのシーズン唯一の入賞 連覇どころか前年度チャンピオンが まさかの入賞1回 ランキング19位 R13カナダGPではキャリア唯一の予選落ち 失敗作の最後の312Tシリーズ5に失望 シェクターは30歳の若さでF1引退となった モデルはBRUMM R6モナコGP仕様 予選17位→決勝リタイア リアアスクル前にミドルウイングを装備 フロントは横幅の狭い特別仕様のウイング リアウインウは極端に前方に設置されている シェクター最後のマシンとなったカーNo.1 🏁ジョディー・シェクター (南アフリカ) 【決勝出走数】 112回 (入賞53回-表彰台33回) 【予選最高位】 PP( 3回) 【決勝最高位】 優勝(10回) 【ファステストLAP】 ( 5回) 【WORLD CHAMPION】1979年
240309 J.SCHECKTER 1980 1FW12C
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2000 12TH PMA ARROWS SUPERTEC A21 J.VERSTAPPEN
ヨス・フェルスタッペン 1年ぶりの復帰 直線番長 ARROWS SUPERTEC A21 前年度HONDAのテストドライバーから 2000年ヨスはアロウズでF1復帰 アロウズ(フットワーク)には1996年以来 チームメイトはペドロ・デ・ラ・ロサ エンジンは自社製(ハート)から ルノーベースのスーパーテックに変更 エグバル・ハミディがデザインしたA21は ドラッグの少ないスピード重視のマシン シーズン前のTESTから速さを見せ 本戦でも決勝レース中の最高速を17戦中 チームで7回も記録(ヨス4回 デ・ラ・ロサ3回) フェルスタッペンは高速コース R8カナダで決勝5位 R14イタリアGPで4位 日本では〖直線番長〗とも呼ばれた しかし信頼性は不足でリタイアは10回 年間では5ポイントでランクは12位 モデルはミニチャンプス GP仕様表記の無いRACE CAR仕様 フランスの大手携帯キャリア Orangeがスポンサーとなり車体もオレンジ ヨスのF1キャリア終盤を象徴する1台
240303 J.VERSTAPPEN 2000 19FW12C
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2000 (17TH) HOT WHEELS JAGUAR R1 J.HERBERT
新生ジャガー・レーシング ジョニー・ハーバート引退 JAGUAR R1 2000年スチュワートグランプリを フォードが買収し当時傘下にあった ジャガーブランドでF1に参戦 往年のブリティッシュグリーンを纏い ビッグキャットのロゴデザインが描かれた 前年度スチュワートに初優勝をもたらした ジョニー・ハーバートが残留 チームメイトはエディ・アーバイン チームは前年の勢いがなく 人事面のゴタゴタもあり低迷 ハーバートは予選8位 決勝7位がベスト 36歳となったこの年でF1からの引退を表明 1989年ベネトン参戦から12年 予選はフロントロー無し 決勝はファステストラップ無しながら F1通算3勝をあげてそのキャリアを終えた #CAREER-ACHIEVEMENTS 🇬🇧ジョニー・ハーバート(イギリス) 【決勝出走数】159回 (入賞29回-表彰台7回) 【予選最高位】④位(2回) 1995年 BENETTON R1 ブラジル 1995年 BENETTON R11 ベルギー 【決勝最高位】🏆️優勝(3回) 1995年 BENETTON R8 イギリス 1995年 BENETTON R12 イタリア 1999年 STEWART R14 ヨーロッパ 【年間最上位】❹位 1995年 BENETTON 45ポイント
240121 J.HERBERT 2000 8FW12C
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2005 19TH PMA McLAREN MERCEDES MP4-20 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230327 P.DE.LA.ROSA 1回 10FW12C
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1982 (32TH) CP MODEL TOLEMAN TG181C D.WARWICK
ディレック・ワーウィック 初のFL ロリー・バーン作 TOLEMAN TG181C ディレック・ワーウィック イギリス出身 前年度トールマンで初参戦も 12戦中決勝進出1回 決勝リタイア 1982年もトールマンで参戦 チームメイトはテオ・ファビ ロリー・バーン デビュー改良版のTG181C ハート直列4気筒ターボエンジン タイヤはミシュラン→ピレリに変更 車体はノーズ上にフロントウィングを 載せた独特な形状をしている 予選ではR4サンマリノ 最高位8位など 中段順位を獲得するも信頼性が乏しく 決勝は完走2回 最高位10位 それでも1発の速さは持ち合わせており R9オランダGPではファステストラップ 自身とチームにとっても初のFL獲得 ワーウィックとトールマンにとっては F1初入賞前にFL記録する珍しいパターン R10イギリスGPでは一時2位を走行 しかしこれはスポンサーの意向もあり 燃料を軽く積んでレースに望み 少しでもTV等で取り上げてもらう為の苦肉策 全76周のGPだが41周で燃料切れリタイア シーズン後半にはニューマシン TG183が投入され翌年終盤4戦で ワーウィックとチームの初ポイントを獲得 #F1-1982年
230307 D.WARWICK 1回 35FW12C
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1981 (26TH) SPARK FITTIPALDI F8C K.ROSBERG
チャンピオン前年 ケケ・ロズベルグ ノーポイント DNQ 5回 FITTIPALDI F8C 1981年ケケはFITTIPALDIの2年目 エマーソンの引退に伴いNo.1ドライバ― チームメイトはブラジル出身 チコ・セラ マシンは昨年の改良型FITTIPALDI F8C 予選はR3アルゼンチン 8位 決勝はR2ブラジル 9位が最高 モデルはR5ベルギーGP仕様 予選11位→決勝リタイア タイヤはアメリカのクーパー・タイヤ チームはメインスポンサーを失い資金難 後半は予選通過もままならず予選落ち5回 C・セラと合わせてチームは13回予選不通過 メインスポンサーは無いが 1990年代フェラーリもサポートした PIONEER(パイオニア)の青いロゴが目立つ ケケは翌1982年A・ジョーンズの抜けた ウイリアムズに移籍 ノーポイント・予選落ち5回から 翌年はワールドチャンピオン獲得する #F1-1981年 #1981年
220921 K.ROSBERG 20 1/43FW12C
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2007 12TH PMA BMW SAUBER F1.07 S.VETTEL
2022年 シーズン限り セバスチャン・ベッテル引退 4度のワールドチャンピオン 数々の史上最年少記録 連続優勝記録9回を誇る S・ベッテルが2022年限りで引退発表 ベッテルのデビューは2007年のBMW SAUBER 当時BMWのサードドライバ―を務めていたが ロバート・クビサのケガにより R7アメリカGPインディアナポリスでデビュー デビュー戦で 予選7位→決勝8位入賞 (TMのN・ハイドヘルド 予選5位→決勝R) 後に破られるも当時の史上最年少の 19歳349日での完走&入賞の記録を樹立 この活躍がレッドブルの ヘルムート・マルコの目に留まり 同年R11ハンガリーから姉妹チームの トロロッソのレギュラードライバーに起用 このミニチャンプスのモデルは 後のベッテルの活躍が予見できなかったのか 限定1.800と当時としてはかなり少ない 今後引退記念でデビュー&何とかセットと して販売される1台かもしれません #2022年ベッテル引退 #F1-2007年 #2007年
S.VETTEL 1.800 10 1/43FW12C
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1996 9TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS43 O.PANIS
MUGEN HONDA エンジン 初優勝 O・パニス唯一 リジェ最後の勝利 1996年R6モナコGP 決勝は暴風雨 予選14位のリジェ オリビエ・パニスは 朝のウォームアップランはトップタイム 当初ガソリンを満タンにして ノンストップの戦略をを取った 上位陣のリタイヤと安定した走りで モナコGPながら数台オーバーテイク 36周目には3位に浮上すると トップ走行のD・ヒル(ウイリアムズ) J・アレジ(フェラーリ)が相次ぎリタイア 59周目にトップに立ち2時間を超えた為 75周でレースが打ち切られて パニスがトップでチェッカー 最後はコース上に3台のサバイバルを制した MUGEN HONDA エンジン 初優勝は オリビエ・パニスのキャリア唯一の勝利 リジェも1981年ジャック・ラフィー以来 15年ぶりの優勝 リジェ通算最後の9勝目 翌1997年リジェはプロストに買収 1976年から21年間のF1参戦の幕を閉じた モデルは優勝モナコGP記念モデル フランス国旗のウイニングラン仕様 タバコ GAULOISESにデカール加工 画像2はオリジナルの加工前のモデル 画像3~6はPMA通常モデル こちらもGAULOISES仕様に変更 #無限エンジン初優勝 #F1-1996年 #リジェ最後のマシン #LIGIER #F1
O.PANIS 6.000 9 1/43FW12C
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1996 14TH PMA SAUBER FORD C15 J.HERBERT
ジョニー・ハーバート キャリア8年目 通算6チーム目 チーム ザウバー 1996年ハーバートは前年度シーズン終了時 チームが未決定であったが マーク・ブランデルとのシート争いに勝ち ザウバーのシートを獲得 TMはH・H・フレンチェンの全日本経験コンビ 予選ではフレンチェンに3勝13敗と負け越す 決勝ではほぼ互角の成績だったが 両ドライバ―ともリタイアが多かった R6モナコGPで混戦を生き残り3位表彰台獲得 この年ザウバー唯一の表彰台で ハーバートの入賞もこのGPのみ 1974年に設立のマレーシアの国営石油会社 ペトロナスとザウバーの関係が強化されて 鮮やかなミントグリーのカラーで 同社のロゴが大きく訴求された ハーバートは前年シューマッハ中心の チームに嫌気が差しベネトンを離脱 ザウバーでは公平に扱われた事を高く評価 翌1997年以降の2年契約をザウバー結んだ #F1-1996年 #SAUBER
J.HERBERT 14 1/43 SAUBERFW12C
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1979 18TH PMA ARROWS FORD A2 J.MASS
1979年アロウズはR8フランスGPより ニューマシンARROWS A2 を登場させた トニー・サウスゲートとデイブ・ワスが デザインしたA2は極めて独創的なマシン ノーズからリヤ・ウイングまで伸びている ベンチュリ構造が最大の特徴 しかしグランドエフェクトが 過激なほど大きくダウンフォースに 路面に押し付けられると ごくわずかな変化にも影響を受けて 安定性の欠くマシンとなってしまった ヨッフェン・マスはA2で R10ドイツとR12オランダで6位入賞も 終盤2戦は連続予選落ち 年間では前半モデルのA1の1Pと 合わせ3ポイント 年間順位18位 ヘルメットのBOSSは マスの個人スポンサーのHUGO BOSS ドイツの高級ファッションブランド #ヴァルシュタイナー #F1-1979年
J.MASS 30 1/43 ARROWSFW12C
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1993 18TH PMA JORDAN 193 HART R.BARRICHELLO
決勝出走回数322回 2代目鉄人R.バリチェロ デビューマシンJORDAN 193 HART ルーベンス・バリチェロ(ブラジル) 1991年 イギリスF3 チャンピオン 4勝 1992年 国際F3000 3位 1993年 弱冠20歳 ジョーダンでデビュー チームはエンジンをヤマハ→ハートに変更 当初のチームメイト イヴァン・カペリは早々の離脱 その後ティエリー・ブーツェンなど チームメイトが5人も変わる中で バリチェロ中心に開発を進めるが なかなか結果に結びつかず R15日本GP(鈴鹿)でようやく5位入賞 日本GPより参戦のチームメイト エディ・アーバインの加入が チームとバリチェロに良い刺激を与えた この後2011年まで19年間参戦する バリチェロの初参戦・初ポイントの車体 モデルはミニチャンプス JORDAN HERT193はアーバイン車はあるものの 何故かバリチェロ車は量産化されていない モデルはジョーダンセットとして カーナンバー・ドライバ―レスでの販売のもの タバコ広告禁止の国ではBARCLAYエンブレム またはドライバ―名に変更され この手法は後のマクラーレン等でも使用された
R.BARRICHELLO 1993 14 1/43FW12C
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1993 22ND PMA JORDAN HART 193 E.IRVINE
E.アーバインのデビューマシン I.カペリ→T.ブーツェン→ M.アピチェラ→E.ナスペッティ→ と5人目のジョーダンのシート 1993年は全日本F3000で2位が評価され R15 日本GP 鈴鹿でデビュー 走り慣れたコースという事もあり 予選はTM R.バリチェロ(12位)上回る8位 決勝も6位入賞(バリチェロは5位) このレースでセナに周回遅れで譲らず ファイナルラップでクルージング中に抜き返し 同一周回に戻ったことがセナの逆鱗に触れ レース後セナに頭部を左手で払われたが アーバインが「セナに殴られた」と語った為 【セナがアーバインにパンチ】という形で報道 ここからヒール感のイメージが付いた アーバインの個人スポンサーは ♪ココロも満タンに♪のコスモ石油 ジョーダンはSASOLがメインスポンサー 同業他社だがSASOLが日本で展開していない為 バイザーとフロントウイングには コスモ石油のロゴが貼られました Muuseo 500個目の登録アイテムは 2台目に買ったF1モデルカー BARCLAY仕様で個人的に好きな1台です 501
E.IRVINE 2.808 15 1/43FW12C