-
2010 18TH SPARK SAUBER C29 N.HEIDFELD
the story will be at a later date. 2352
241225 N.HEIDFELD 2010 22FW12C
-
1989 (32TH) SPARK RIAL ARC2 B.GACHOT
オニクス解雇でリアルに移籍も連続DNQ ベルトラン・ガショー RIAL ARC2 1989年チームオニクスでデビューした ベルトラン・ガショー ベルギー出身 (1992年~現在はフランス国籍) オニクス所属時にF1デビューを果たすも 公然とチームを批判し オーナーが激怒 R12イタリアGPでオニクスを解雇される R15日本GPはリアルから出場 チームメイトはピエル・アンリ・ラファネル リアルはR7フランスGPから全戦予選落ち ガショーもR15日本GP/R16オーストラリアGP とも連続予選落ち チームリアルは わずか2年の短命で消滅した ガショーは翌1990年は日本のスバルエンジン 搭載が決まったコローニに移籍 モデルはSPARK R15日本GP仕様 予選最下位の30位で予選落ち Marlboroタバコデカール貼付 当時の所持している速報雑誌(GPX)では リアルは日本GP直前号では グレガー・フォイテク(スイス)で登録 日本GP号でもガショーの予選落ち結果のみで 急遽の起用だった為かリアル移籍の情報は 何も掲載されていなかった
241114 B.GACHOT 1989 38FW12C
-
2008 15TH PMA WIILIAMS TOYOTA FW30 K.NAKAJIMA
日本人初のモナコGP入賞 F1親子鷹 中嶋一貴 WIILIAMS FW30 2008年前年度最終戦にF1デビューを 果たした中嶋一貴はウイリアムズで レギュラーシートを獲得 チームメイトはニコ・ロズベルグ 開幕戦オーストラリアGP 予選14位→決勝6位入賞 結果的に6位がキャリアベストリザルト 2008年度は8位までが入賞圏内 R4スペインGP予選12位→決勝7位入賞 R6モナコGPでも予選14位→決勝7位 日本人ドライバーのこれまでのモナコGPは 1998年の中野信治(ミナルディ)の 決勝9位が最高でそれを上回り 決勝7位と日本人初入賞を記録した 中嶋一貴は年間入賞5回でランキング15位 2度の表彰台のロズベルグには 予選・ポイントとも差をつけられたが 入賞回数5回と完走率89%(リタイア2回)は 同等の成績であり翌年もチーム残留 モデルはミニチャンプス GP表記のの無いRACE CAR仕様 ウイリアムズチームオリジナル台紙 当時のメインスポンサーである アメリカのat&t社のロゴも印刷されている
240526 K.NAKAJIMA 2008 1/43FW12C
-
1977 (37TH) EBRRO (HEROS RACING) KOJIMA KE009 K.HOSHINO
星野一義 2度目のF1参戦 1977年日本GP KOJIMA KE009 1977年コジマエンジニアリングは 前年注目を集めたKE007後継KE009を開発 同年の最終戦日本GPに登場させた 当初はダンロップタイヤでの出走予定で あったが日本グランプリのテレビ放映権を ブリヂストンが所持していたため 初参戦となるブリヂストンタイヤを装着 ドライバーはブリヂストンタイヤ系の 星野一義をHEROS RACINGとコラボで起用 予選は前年度コジマでの(長谷見)10位には 及ばなかったものの参戦した日本人3人の (高橋国光 高原敬武)中ではトップの11位 決勝はブリヂストンタイヤとの マッチングにも苦しみ2周遅れの11位 星野とコジマのF1挑戦はこの年で終了した モデルはEBRRO 星野一義の2度目 F1挑戦となった R17日本GP仕様 予選11位→決勝11位 白いボディーにコックピット前に日の丸 スポンサーのUNI-PEXは1974年設立の 電気通信機器の販売会社
240317 K.HOSHINO 1977 52FW12C
-
1999 14TH PMA RED BULL SAUBER PETRONAS C18 P.DINIZ
チームメイトに年間で勝利 P・デニス SAUBER PETRONAS C18 1999年デニスはアロウズからサウバーに移籍 チームメイトはジャン・アレジ デニスは強力なブラジルスポンサーマネーを チームにもたらすだけでなく ドライバ―としても勤勉化であった為 中堅チームからはオファーが絶えなかった デニスはギアボックストラブルなどもあり 年間での完走は僅か4(/16戦)回 しかしその完走の内の3戦で ねばりの6位入賞を果たした (R6カナダ R8イギリス R9ドイツ) この3Pで年間14位となり チームメイトのアレジ(2P)を上回った デニスは翌2000年もサウバーに残留 再びミカ・サロとタッグを組むことになる モデルはミニチャンプス デニス車はミラーとシート周辺は黄色 アレジ車は赤で区別されている この時代のザウバーは似たような カラーリングが多く セコハン市場価格も抑え気味
231103 P.DINIZ 1999 1/43FW12C
-
1982 (27TH) CP MODEL ARROWS A4 B.HENTON
ブライアン・ヘントン 3戦限りのアロウズ ARROWS A4 1982年前年度は新規チームトールマンで 12戦中11戦の予選落ちのヘントンであったが アロウズのレギュラーシートを獲得 チームメイトはマウロ・バルディ アロウズはニューマシンのA4を開幕から投入 イタリアのセラミックタイルメーカー RANGOがスポンサーとなり 前年のゴールド系のカラーから オレンジを基調にタイルを施す カラーリングで人目を惹きつけた ヘントンは開幕・R2と連続予選落ち R3アメリカWEST予選20位→決勝リタイア R4~はスリム・ボルグッドが抜けた ティレルに移籍して最終戦まで参戦 ヘントン離脱後のアロウズは マルク・スレールが加入 バルディ共にチームを立て直し各2回 チームで4度の入賞をしている モデルはCP MODEL 入賞したバルディ/スレールでなく 3戦限りのマニアックなヘントン車をリリース
230812 B.HENTON 1982 29FW12C
-
1975 (31ST) SPARK WILLIAMS FW03 A.MERZARIO
イソ-マールボロから改名 ウイリアムズ・FW メルッザリオ WILLIAMS FW03 1975年前年までイソ-マールボロとして 参戦したマシンをウイリアムズ・FWに改名 厳密には現在のウイリアムズチームとは 異なるものの初めてウイリアムズの 名を付けたマシンであった FWはフランク・ウイリアムズの略 ドライバ―は前年同様の アルトゥーロ・メルツァリオ チームメイトはジャック・ラフィー FW03は既に時代遅れのマシンと なりつつあり資金難で開発も進まなかった メルツァリオは予選最高は11位 決勝は全てリタイア R5モナコGPでは前GPのスペインで 観客を巻き込む大事故があった為 決勝は18位までと急遽決定され ウイリアムズは2台とも予選落ち メルッザリオはR6ベルギーGPをもって ウイリアムズを離れ終盤のR13イタリアGPは フィッテパルディのコパシュカーで 1戦のみスポット参戦で決勝11位完走 #1975年 #FW
230727 A.MERZARIO 1975 20FW12C
-
2015 17TH SPARK McLAREN HONDA MP4-30 F.ALONSO
★2026年 HONDA パワーユニット★ アストンマーチンで復活 2023年5月24日 HONDAが2026年より アストンマーチンF1チームに パワーユニットを供給することを発表 HONDAとF・アロンソのタッグ再現はあるのか? 2015年第4期HONDAはマクラーレンと組み 7年ぶりの復活を果たしフェラーリから フェルナンド・アロンソが移籍 チームメイトはジェイソン・バトンの ワールド チャンピオンコンビ この年のアロンソの年俸は約49億円 (バトンは約14億円と格差) しかし1年を通してパフォーマンス不足 アロンソの初ポイントはR9イギリスの10位 R10ハンガリーでは5位入賞を果たすも その後はノーポイントに終わる R14 HONDAの地元日本GP鈴鹿では アロンソのパワー不足への不満が爆発し 『GP2エンジンかよ!GP2エンジンだ!』 (傘下レースであるGP2のエンジンだ) との発言した無線が中継され大きな波紋を呼んだ 2023年 アロンソはアストンマーチンで 5戦中4戦表彰台5戦全て入賞中と衰え知らず 2026年アロンソが現役を継続していた場合 44/45歳のシーズン 前人未到の400戦超え アロンソ&アストンマーチンHONDA 個人的には見てみたい!!
230525 F.ALONSO 14 1/43FW12C
-
1972 (24TH) QUARTZO TYRRELL 004 P.DEPAILLER
パトリック・デュパイエ F1デビュー ティレルの4号車 TYRRELL 004 パトリック・デュパイエ フランス出身 元々は2輪だったが→4輪ドライバーに変更 1971年 フランスF3 チャンピオン 1972年はティレルのサードドライバ―で 地元R6フランスGPにスポット参戦 予選17位→決勝は1周足らず周回不足 最終R12アメリカにも出場 予選11位→決勝は7位完走している この時使用のマシンTYRRELL 004は 001を元に作製された4号機 1972年R3モナコでJ・スチュワートが 使用して予選8位→決勝4位入賞 デュパイエが2戦使用後は 南アフリカのドライバ― エディー・ケイザンに売却されて ケイザンがプライベートチームで 1973年・1974年に1戦ずつ参戦 F1でわずか5戦限りの使用となった https://muuseo.com/FW12C/items/497?theme_id=31775 デュパイエ翌1973年はヨーロッパF2 1974年からはF1に戻りティレルの レギュラードライバ―として参戦する
230524 P.DEPAILLER 1972 8FW12C
-
1982 (27TH) SPARK TYRRELL 011 B.HENTON
ヨーロッパF2チャンピオン B・ヘイトン F1ポイント獲得ならず ブライアン・ヘイトン イギリス出身 1974年から参戦したヨーロッパF2では 参戦7年目の1980年に悲願のチャンピオン 1975年には全日本F2000にもスポット参戦 F1では1975年のロータスを皮切りに マーチ→PVマーチ→ボロ→サーティス 1981年トールマン初のレギュラードライバ― 1982年アロウズ→R4サンマリノGPより S・ボルグッドに代わりティレルで参戦 チームメイトのミケーレ・アルボレートが 初の表彰台&初優勝の中 ヘイトンは予選最高11位 決勝最高7位 いずれも生涯のベストリザルトで F1での入賞はならなかった R10地元イギリスで自身唯一の ファステストラップを記録 モデルはR15イタリアGP仕様 (予選14位→決勝R) 後半戦仕様のディープグリーンが鮮やかで スイスの香水DENIMがメインスポンサー #F1-1982年 🏁ブライアン・ヘイトン (イギリス) 【決勝出走数】18回(入賞0回) 【予選最高位】 11位 1982年 TYRRELL R4 サンマリノ 【決勝最高位】 7位 1982年 TYRRELL R12ドイツ 【ファステストラップ】 1回 1982年 TYRRELL R10イギリス
B.HENTON 1回 3 1/43FW12C
-
1991 19TH SPARK BRABHAM YAMAHA BT60Y M.BLUNDELL
マーク・ブランデル デビューイヤー ヤマハエンジン初ポイント BT60Y マーク ブランデル イギリス出身 1991年ブラバムよりデビュー TMはマーティン・ブランドル 紛らわしいブラバム ブラ・ブラコンビ 前半戦ノーポイントに終わり 後半戦ブラバムは予備予選組に回る R12ベルギーGP 予備予選2位 予選13位→決勝6位 同一周回での6位入賞 ブランデルとヤマハエンジンの初入賞 RACELAND(ドイツ)別注の為 こちらのモデルはR9ドイツGP仕様 高速コース用の細いリアウイング 予備予選4位→予選21位→決勝12位 RACELAND別注 限定300台 日本に流通量が少なく ほぼほぼ品切れでしたが運良く入手 同じBRABHAM BT60Yブランドル車は 大阪のROMU別注で限定800台 RACELANDももう少し限定数上げて 欲しい人がせめて定価ぐらいの値段で 手に入るようにしてほしいです #F1-1991年 https://muuseo.com/FW12C/items/938?theme_id=30932
M.BLUNDELL 300 8 1/43FW12C
-
2005 24TH IXO RED BULL RB1 V.LIUZZI
RED BULL初年度2005年モナコGP STAR WARS 特別仕様車 V.リウッツィ ヴィタントニオ・リウッツィ イタリア出身 2005年デビュー レッドブルより4戦のみ出走 初戦のR4サンマリノで予選15位 決勝は8位入賞 デビュー戦での入賞 R6モナコGPは スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐の プロモーションを兼ねたSTAR WARS特別仕様 予選12位→決勝はリタイア デアゴスティーニの F1マシンコレクションの146号/全150号 チームメイトのD・クルーザードではなく リウッツィでのリリースはナイスチョイス #STARWARS
V.LIUZZI F1マシンコレクション 15 146FW12C
-
1976 20TH SPARK HESKETH 308D R.STOMMELEN
ロルフ・シュトルメン ドイツ出身 オランダGP ヘスケスより参戦 1976年チームヘスケスは オーナーのヘスケス卿の資金が尽き ドライバ―のJ・ハントとデザイナーの ポスルスウェイトが移籍 マシンは前年度後半戦の308Cから 308Dとマイナーチェンジしたのみ スポンサー無しのマシンが一転して 男性向けの月刊誌ペントハウスと フランスのタバコ巻紙のリズラが付き マシンにアダルトモデルが大きく描かれた シュトルメンはヘスケスのマシンで R12オランダGPのみスポット参戦 予選25位→決勝12位完走 ブラバムでも2戦のみ参戦 R10ドイツGPでは決勝6位入賞 1ポイント獲得して年間順位20位 ◆R16日本(富士SW)は未出走◆ マイナーマシン得意のRACELAND GOLD EDITION別注シリーズの1台 #1976 #F1-1976年
R.STOMMELEN 1976 300 25FW12C
-
1995 (20TH) PMA TYRRELL YAMAHA 023 U.KATAYAMA
片山右京 ティレル3年目 不振のTYRRELL YAMAHA 023 1995年ティレルと右京は 前年の成功で期待されたシーズン しかし新兵器としてフロントに ハイドロリンクサスペンション なるものを導入したが不発に終わり 通常のサスペンション戻す有様 予選最高は開幕戦の11位→決勝R 決勝最高はR9ドイツの予選17位→7位 R13ポルトガルでは他車と絡み 激しいクラッシュで次戦を欠場 予選・決勝ともTM M・サロに遅れを取り ノーポイントでシーズン終了となった ONYXからは2台のモデルが発売 R1.2は全体がブルーベース R3戦以降のマシンのカラーリングは ブルーと白のコントラストで スポンサーロゴも映える形となった 画像1 PMA通常版 画像2 ONYXブラジルGP仕様 画像3 ONYXR3戦以降仕様 #1995年 #F1-1995年
U.KATAYAMA 3 1/43 TYRRELLFW12C
-
1995 14TH ONYX FOOTWORK ARROWS HART FA16 G.MORBIDELLI
イタリアの伊達男ジャンニ・モルビデリ F1唯一の表彰台獲得ARROWS HART FA16 イタリアのオートバイメーカーの モルビデリ社の御曹司でもある ジャンニ・モルビデリ 1995年はアロウズ2年目でエース R6カナダGPで予選13位→6位入賞 (モデルGP仕様)果たすも チームの資金難により R8イギリスGPからシートを M・パピスに譲る形となった 終盤R15パシフィックGPより 再びシートを獲得して 最終戦R17オーストラリアGP 生涯唯一の予選13位→3位表彰台獲得 モルビデリ通算最後の5回目の入賞 翌1996年はシートを失い ジョーダンのテストドライバー 1997年にザウバーで7戦のみ復帰します #1995
G.MORBIDELLI 9 1/43 ARROWSFW12C